■メイド抹殺指令

「……大した古狸どもだね、全く」
 豪華で荘厳ながらどこか物憂げな執務室。
男は大きな溜め息と共に背もたれへと体重を預けて天井を仰ぐと、やや乱暴に片手で髪をかき上げた。
その表情は彼にしては珍しく、心情をそのまま表したかのような苦笑いを浮かべている。
まだ学生でも通じる程若々しく、透き通るような肌に、茶色がかった少々長めの綺麗な髪、
切れ長の瞳とすらりと通った鼻筋、端整な顔立ちは重厚なこの部屋の雰囲気からすると場違いの様でもある。
しかし紛れも無く彼はこの部屋の主であり、その若さにして異例とも言える一隊の師団長でもあった。
「中央政府における臨時閣議は全会一致で巨人の武力排除を可決した。
 そして第十四師団長久木俊英(ひさぎしゅんえい)、
 君を対巨大生命体掃討作戦の臨時最高司令官に任命するものとする。
 周辺住民の避難が完了した今、最早一刻の猶予もならない。
 直ちに作戦を立案し、遂行してくれたまえ。即時だ」
それは余りに突然で無責任な通達だった。具体策も本部や他部隊からの支援も一切なし。
そのくせ、強攻手段を取ることだけは揺ぎ無い決定事項だというのだから、何ともおかしな話である。
分かり易く換言すると『とにかくさっさとやっつけろ』と。
 彼は机の上で微かに唸るノートパソコンへと視線を落す。
表示されているのは、自部隊の偵察機からの報告と考察がやや乱雑に列記されたもので、画像も何枚かある。
閣議においてもこれと全く同じものが資料として用いられ、散々議論がなされた筈である。
にもかかわらずこの馬鹿馬鹿しく稚拙な命令は一体何なのだろうか。
久木は既に一度目を通し完全に頭に叩き込んである内容を、今一度反芻してみた。

 『本日13時30分。突如未確認巨大生命体(以下対象と記載)が発生する。場所は——』

 もしこれが『本島』の首都近郊や政令指定都市であったならば…などと些か不謹慎なことを考える。
それならば軍の上層部や閣僚達も、もう少しまともに対策を講じたかも知れない。
と言っても、この島だって本国の中では四番目に広く、
人口も島全体で四百万人以上、大きな都市を幾つも有しており、
現に巨人が出現した地点だって比較的大規模と言える駅の真ん前なのだから、
状況が深刻なものであることには違いない…筈なのだが。

 『対象の身長は約220メートル、体重が推定13万トン前後。
  その容姿は十代から二十代程の少女と酷似しており、長い黒髪に——』

 以下事細かに外見的特徴が羅列されている。
ついでに偵察機が異なる角度から撮影したであろう何枚かの静止画も添えられていたりする。
が、そんなことは至極どうでもいいことであり、とにかく問題なのはその大きさ。
余りにも常識離れした数字に頭が痛くなる。
特に重量、単に数字を見ただけではどんなものなのか、まるで想像がつかない。
そこで試しにちょっとした簡単な計算をしてみる。つまり具体的に戦車2600台分程といったところか。
直後にそれが全くの無意味なものであったことに気付く。どちらにしろさっぱりだ。
文末には小さく注釈がついており、
『その大きさは恐らくヒトの140倍程度と推測される』とも書かれていた。
「…140倍の少女、ね…」
本当に非常識な存在である。
しかし、今の久木の苛立ちや敵意等といった負の感情の殆どは
巨人そのものに対してというよりも、寧ろ政府や上層部に向けられていた。

 『——対象の正体、目的は一切不明。
  異星人や突然変異種の可能性も有るが、我々と同じ言語を理解し扱うことが出来る模様。
  現段階においては敵意や大きな動きは見取れず、人的被害に関しても確認はされていない。
  しかし、その一方で建造物の一部を損壊させる、破壊した車両の数は既に10台を上回る、
  等の情報も入ってきており、予断は許さないものと思われる。
  近辺の警官隊が総動員で対象の武力排除を試みるも攻撃はまるで通じることなく失敗、撃退される。
  その際における警官隊内に重大な負傷者の報告は無し。但し、婦人警官が一人行方不明に——』

確かに巨人が敵ではないなどと楽観するつもりはない。
が、これまでのその行動や収集された情報から考えるに、
少なくとも対話の余地は十分にあると久木には思われるのだ。
にもかかわらず、その可能性や有用性についてまるで考慮されていないと言うこと。
単に頭が固いだけなのか、はたまた自国の軍事力に対する絶対的な信頼から来る物なのか、
どちらにしても、相手について何一つ分からぬこの状況で
問答無用の武力攻撃一択というスタンスは久木の感覚からすればナンセンスとしか言い様がない。

 『——その後、同警官隊指揮の下、対象を中心に半径3kmの住民の避難が完了した模様である。
  但し、何故か対象が固執している建物(上記載、一部損壊した建造物)が一棟あり、
  近づくことがままならないとのこと。その屋上には人影が二つ確認されており、
  同屋内には他にも多くの人間が、尚も残存している可能性も考えられる。』

同時にこの行(くだり)を上の連中が完全に無視したと言うこと。
『可能性』としか記載されていないが、普通に考えて取り残された人がいるのは間違い無い。
何しろこれ以降、目立った事態の進展や変化はないのだから。
それでも巨人への即時武力排除決行が満場一致で決したということは、
つまり建物内に取り残された人々の安全に関しては目を瞑ることを国が認めたことを暗に意味している。
より多くの市民を守る為の苦渋の決断なのだろう…等とは微塵も思えない。
 いつだってそうなのだ。彼らが優先するものは、先ず己の命であり、次に己の地位である。
その双方を同時に脅かす状況、それ即ち巨人の本島への上陸、と言って良いだろう。
だからこそ、上はこれ程までに事を急いでいる、何としてもこの島で決着をつけようとしている。
その結論に辿り着くのは至極容易なことだった。
と言っても冷静に考えれば、半径3kmなど巨人の感覚からすればせいぜい20m程度なわけで。
(走れば一瞬か…どっちにしろ避難したうちには入らない…な…)
 勿論久木とて、可能であるのならば巨人を速やかに排することには何ら異論はない。
しかし、それはあくまでも周囲の人々や、延いては全国民に対しての危険因子を
除去することを本懐としているのであって、この猪突猛進な強攻策が
結果としてより大きな被害や危機を招いてしまうのであれば、
それは愚の骨頂以外の何物でもないわけなのだが…。
と、そこで彼はふと表情を柔らかくすると小さく呟いた。
「…ま、いいや」
どちらにしても自身に決定的な打開策があるわけではない。
相も変わらず性急に煽ってくる本部の声は煩いことこの上ないし、
同じ焦燥や恐怖と言う点ならば、状況に直面している現場周辺住民の抱くそれは
政府の連中のものとは比べ物にはなるまい。
とにもかくにも事態は逼迫している。上層部の決定通りに事を運ぶことが、
被害を最小限に食い止めることとなる可能性も無いわけではない。
勿論その逆も大いに有り得ると思われるが、結局これは結果論でしか語れぬことだ。
巨人の本質は分からない。その力も分からない。当然前例も無い。
予測も見当もつけようが無い。要するに詰んでいるのだ。
ではこの状況で考えを絞り続けて何か得るものはあるだろうか?答えは否だった。
「……作戦会議も時間の無駄だろうな」
静かにパソコンのディスプレイを伏せる。マシンは一度だけ大きく唸り、すぐに辺りは無音へと落ちた。
それから久木は命令を下すべく部下の中で最も敬愛、信頼する一人の男を部屋に呼んだのだった。


「……は…?」
 もう随分長いこと軍役してきたが、上官に対してこの様な口の聞き方をしたのは初めてかもしれない。
思わず口に出してしまってからその男、芝浦は慌てて居住いを正し、問い返した。
「それは一体どういうことですか?」
呼び出しを受けた時よりその内容については概ね見当がついていた。否、つかぬ筈が無かった。
肝心な軍部からの公式見解は未だに出されていなかったが、これ程までに『目立って大きな事件』ならば、
民間報道番組でも情報の収集には十二分に事が足りたのである。しかし…
「だから、先程中央政府が臨時閣議で巨人への軍事攻撃を決めたらしいんです」
自身よりおよそ20も年の若い師団長、久木俊英は
その反応に気分を害した風もでも無く全く同じことを口にした。
「は、それは今聞きましたが…」
「それで、軍本部からその任がこの第十四師団に与えられました」
駐屯基地の位置から考えても自然なことだ。これもつい今しがた伝えられた。
「はい」
「そこで実動部隊の指揮を貴方に執って貰いたいのです」
「分かりました」
「では、そういうことで。宜しく頼みます」
「……」
「……以上ですがまだ何か?…何ならもう一度説明しましょうか?」
流石にこれほど単純な話を三回聞かされても仕様が無い。
芝浦はゆっくりと首を振ってそれを断った上で、
どうしても抱かずには居られない疑問を率直に投げかけてみる。
「いえ、結構です。しかし…あの…お言葉ですが、本当にそれだけなのですか?」
「ええ、それだけですが?」
「例えば…現状についての詳細な資料や、具体的な作戦…或いは指針などは?」
「ああ、ありませんよ、そんなものは」
その信じられない答えはいともあっさりと告げられた。
「事態が急を要するものだから資料も作戦も用意できませんでした。
 『一応』周囲の避難は済んでいる模様です。驚いたことに人的被害報告は今のところありません。
 それと、作戦に関しては貴方に一任しますから。人選、編成、作戦、指揮…その何もかもを、です」
「全てを…ですか…」
どうしても戸惑いを禁じえない芝浦。余りにも曖昧で漠然とし過ぎている。
それに、幾ら急務とは言え資料が皆無と言うのがどうにも解せない。
芝浦はこの久木という若者をもうかれこれ五年見てきたわけだが、
彼は間違い無く天才と呼んで遜色無い男だった。
怜悧で明晰な頭脳と丁寧で奥深い思慮、そしてそれを活かすだけの決断力、
行動力を確実に持ち合わせている、それも他の追随をまるで許さぬほどに圧倒的なものを。
だからこそ、彼はその若さでこの椅子に座っているのだ。
決してコネだけではない。そんな久木が全く何も用意できなかったと?
「そうです。後は実際に現地に赴き、貴方の信念に順じて行動して下さい。
 その上で、どんな結果になろうとも構いませんからから」
しかし、その不安にもまるで気付かぬのか、久木は変わらぬ調子で淡々と言葉を次いでいく。
『信念に準じて行動しろ』…それが軍事命令としては明らかに不明瞭で不適当であるということくらい、
久木ならば…いや、彼でなくとも軍に在る者ならば誰であれ容易に考えが及ぶはずだ。
(…まさか、この事態にあって気でも触れてしまったのか…?)
久木に限ってありえないこととは思うが、どうしてもその疑念を抱かずにはいられない。
そして、発狂とまでは行かないながらも、仮に彼が捨て鉢にでもなっていようものなら、
それは師団全体の存亡にすら関わりかねない忌々しきことである。
とすれば、最悪代役を立てる必要性も一考せねばならないところなのかもしれないが、
巨人出現で基地全体が浮き足立っているこの状態で、果たしてまともに指揮を執れる人間がいるだろうか。
暫く黙したままで久木の様相を探りつつそのような思案を巡らす芝浦。
が、やがて久木の瞳の奥にいつもと変わらぬ理性と確信が満ちていることを確認すると、
それまで考えていたことを即座に全て打ち消した。
つまり、いい加減とすら言えるこの物言いにも、久木の中では何らかの考えがあるということか。
ならば自身はその命令に従い、出来ること、すべきと思うことを為すだけである。
「了解致しました。では早速取り掛かります。失礼致します」
芝浦は敬礼を一つすると部屋を後にしたのだった。
 司令室を後にした彼は一つ大きく息をついた。謎の巨人襲来。
こぞってメディアが報じた俄かに信じ難いその事件現場は、
奇しくも芝浦の自宅から2kmと離れていない場所だった。
或いは時悪く駅前に買い物に来ていて、
この騒動に直に遭遇してしまっている可能性だって決して無いとは言い切れない。
しかし、今は軍人として任を与えられ、遂行しようとしている身の上。
そこに私情は絶対に挟むわけにはいかない。
情に流されれば、自身だけに留まらず仲間までも危険に巻き込むことになるのだから。
当然それを誰かに他言することも無い。これまでもずっとそういうスタンスで前線に立ち続けてきたのだ。
それでも自分の大切なものを守ろうと強く心に秘めることは、自らを十分鼓舞することとなった。
「きっと無事でいてくれよ…!」
一度だけ家族を想ってそう小さく呟いた彼はすぐに軍人芝浦へと戻ると、
本作戦における人員のピックアップと思いつける限りの作戦パターンのシミュレーションを
頭の中で開始していった。


『芝浦が自ら選出した精鋭と共に出動、陸部とも協力し作戦を実行する』
その報告は間もなく久木の元へと届いた。
この短時間で空部所属である芝浦が、陸部の人間まで動かせる、
それは彼の人望の厚さが、軍部全体を通しても群を抜いて突出していることを如実に物語っていた。
実際若者を中心として彼を慕う者は決して少なくなく、一部では『先生』とまで称されているほどだ。
かく言う久木自身もそのうちの一人であったりする。
「…全てを任せる…か。芝浦さん、変な顔していたなぁ…。ま、そりゃそうか…」
久木は再び背もたれへと体を預け、やや自嘲気味に呟く。
結局自分もまた政府と同じようなことをしてしまった、それを思うと心中は些か複雑である。
とは言え彼はそれが最良の選択肢であったことを確信していた。
それほどまでに久木は芝浦に全幅の信頼を寄せていたのである。
軍人としてだけではなく一人の人間としても。
「…それにしても…何でオマエがそこにいるかね…」
その口調は悲哀とも驚嘆とも呆れともつかぬ、
それでいて極々僅かながら喜びのようなものも入り混じった何とも奇妙なものだった。
視線の先には再び点るパソコンのディスプレイ。
そこに映し出されているのは一枚の画像…あの建物の屋上を撮影したもので、
最新鋭の軍用カメラはそこにいる二人の人間の細かな容姿の特徴までも克明に写し出していた。
一人は恐らく行方不明になったとされている婦人警官、そしてもう一人は——
電話機へとおもむろに手を伸ばす久木。
「……」
届く直前で、一瞬逡巡して動きを止める。が、すぐにその顔に微かな笑みを浮かぶ。
それから彼は受話器を掴み上げると、やや少々遠目の記憶の彼方から11桁の番号を引っ張り出したのだった。


「じゃあ、美咲ちゃん、もう建物に居る人を解放してもらってもいいかな?」
 とりあえず話が一段落したところで、弥生は美咲へと尋ねる。
「あ、はい、勿論です。あ、でも…その…岬さんは…」
美咲はすぐにそう答えたものの、ちらりと岬の方へと視線を向け少し言い辛そうに続ける。
「…何だよ…?」
「もう…鈍いですね。先輩がどこかに行っちゃわないか心配なんですよ」
「どこかって…虫かなんかじゃないんだから…」
流石にこうなってくると、もう逃げようにも逃げられないのだが、
「ま、先輩は此処に居て下さいよ。中の人達には私が伝えてきますから」
それでも一方的に言って建物の中へ走り出そうとする弥生と、
それに対して全く隠そうともせずに、素直に表情を明るくする美咲に、岬は一人小さく零す。
「信用、無いんだな…」
とその時、一昔前に普及していた黒電話の呼び鈴のような古風な音が辺りに鳴り響いた。
「電話…ですか?」
美咲が小首をかしげて覗き込んでくる。どうやら彼女の世界にも電話は存在しているらしい。
「電話みたいですね」
足を止めてこちらを振り向き、弥生も応えて頷く。二人の視線が交わる先にはその音の発生源。即ち、
「…あぁ、俺のだな」
「そのようですね。て言うか、相変わらず味気も色気もない着信音ですね」
「…大きなお世話だ」
若干顔をしかめて言い返してから内ポケットから携帯電話を引っ張り出し、ディスプレイを覗き込む。
「非通知だな」
それから再び元のポケットへ。
「…て、何しまってるんですか…」
「ん?まぁ非通知だから」
「……」
弥生が無言で抗議をしているのがひしひしと伝わってくる。言いたいことも大体想像がついた。
と言うのも、岬は日常茶飯事的に電話を無視する傾向があるのだ、弥生からのそれは特に。
日頃それを弥生が快く思っていないことは察しているが、しかし、しつこさに負けていざ出てみれば、
大体彼の主観からしてしょうもないことばかりだったりするのだから仕方が無い。
そうこうしている間にも呼び鈴は鳴り続け、やがてふつりと止む。
「あーあー…」
と、同時に大袈裟に肩で溜息をつきながら批難の目を向けてくる弥生。
「何だよ?」
「べっつにぃ?」
「……」
「あ…!」
が、間も無く再び鳴り出す電話。
「また非通知かよ…」
一応確認した上で先程同様に無視を決め込む。しかし、今度はなかなか切れる気配が無い。
「…五月蝿いな」
「だったら出れば良いじゃないですか」
「……随分しつこいな」
「大事な用があるってことじゃないですか?」
「………いや、ほら…今はそれどころじゃないだろ?」
一瞬美咲へと視線を向けた後にそう弁明するも手痛い反撃がある。
「もう、何都合良く美咲ちゃんのせいにしているんですか!
 普段でも『面倒だから』とか言ってちっとも出ないクセに。
 大体、携帯電話を持っていたって出なかったら、携帯している意味が無いじゃないですか!」
「……」
「あの…わたしでしたら気になさらないで下さい。
 あと…わたしも電話はちゃんと出た方がいいと思います…よ…?」
控え目ながら弥生に賛同する美咲。
「ほらっ!」
「ああ、わかった。わかったよ…仕方ないな」
二人に言われては流石に分が悪い。渋々ながらも漸く電話を取る岬。
『やぁ、やっと出たね』
と同時に、待ち兼ねたと言わんばかりに即座に受話器から声があった。
どこか中性的で色気のある、それでいて人を食った様な調子の声色。
もう随分長いこと話していないにも関わらずすぐに誰だか思い当たる。
「…久木…なのか…?」
『正解。久しぶりだね、元気だった?』
久木…下の名前は何だったか。いつも苗字でしか呼んでいなかったので思い出せない。
有名財閥の御曹司にして、頭脳は明晰、容姿も端麗、おまけに運動神経も秀逸。
これでもかと言うくらいの万能な男であり、大学(本島首都圏に在し国内最高峰と称される)時代の
同期生だが、飛び級制度と言うやつで二年早く卒業していった。
ちなみに制度こそあれ適用されたのは創立以来初めてとのことらしく、
ここまでくると、もう『天才』と言うより『変態』とでも評する方が正しい気もする。
いつも不敵な笑みを浮かべ、どこか他人を見透かしたような風が見えるこの男だが、
何故か自身に対しては好意的だったと言う印象がある。
とは言え卒業後はまるで音沙汰が無く、こうして言葉を交わすのも実に五年ぶりといったところなのだが。
「何だ、突然……何か用か?」
『ふん…相変わらず愛想がないね、オマエは。折角五年振りに話をするってのにさぁ?』
久木は当時とまるで変わらぬ口調で、おかしそうに言う。
「悪いが今立て込んでいるんでな」
それとは対照的にぶっきらぼうな調子で応える岬。
『へぇ…すると何?オマエは旧友からの久方ぶりの電話よりも、
 化け物さんとのお喋りを選んじゃうわけだ?つれないね、ホントに』
「…!何故それを知っている…?」
『そりゃね。カメラだって最新鋭の物を使っているから、ウチのところは』
『ウチ』その言葉に岬ははっとする。思い出した、この男が大学卒業後の進路として選んだ先を。
いや、もっと早く気付くべきだった、それこそこの状況下で自分の電話が二回立て続けて鳴った時点で。
つまり久木はこのような非常事態にあっても、
優先的に繋がれて然るべき回線を使っているということなのだから。
「……何の用だ…!」
美咲には聞こえぬように声量を抑え、これまでとは打って変わって鋭く問う岬。
胸中には嫌な予感が膨れ上がっていく。
『ふーん…察しがついたみたいだね。流石』
「…動くのか?軍部が」
『若干ハズレ。既に陸空が合同で掃討作戦を敢行しているよ。
 …もうそろそろそっちに到達するんじゃないかな?』
「…!」
『本当はさ、ターゲットに情報がリークしないためにも、こんな電話はするべきではないんだろうけどね。
 オマエは僕に縁のある者だし…それにオマエが決死の覚悟で巨人の注意を引いてくれたおかげで、
 その近辺の避難はほぼ完了することが出来たわけだから。まぁその功労に免じてってコトで』
「…待て!」
『分かったらオマエもさっさとそこから離れた方が良いよ』
「だから、待て!」
『何?急いだ方が良いと思うよ?何しろもう時間が無いからね』
「彼女は…敵じゃない!」
一瞬の間がある。
『……ふーん…『彼女』…ね…』
「何か言いたげだな」
『いいや、別に。…それで?』
「それでってな…!」
思わず声を荒立てる岬。状況や会話の内容も然る(さる)ことながら、
こいつの話し方にも大いに問題があるような気もしないでもない。そんなところも相変わらずだ。
『じゃあ訊くけどね?オマエはそれをどう証明できると言うの?
 そもそも一体どんな論拠があってお前はソイツにそこまで入れ込むわけ?本人がそう言ったのかい?
 それが嘘である可能性は?気変わりする可能性は?
 もし巨人が我々ヒトに甚大な被害をもたらした時、オマエはどう責任を取れるのさ?』
「それは…!」
畳み掛けられたそれは確かに正論であった。と言うよりも寧ろ、
岬自身が美咲の人柄に安堵しつつも、
心のどこかで、どうしても拭い切れていない不安をそのまま言葉にしたようなものだった。
しかし、だからとて納得はいくわけではない。
「だとしても強引過ぎる!それに、俺が居る建物にはまだ沢山人が残っているんだぞ!」
言いながら固唾を呑んで電話の様子を伺っている弥生へ視線を向けると、
今しがたこの建物を上がってきたばかりの彼女がそれに同意するように小さく頷く。
「それ位軍部だって分かっている筈だ!現にお前は俺に気づいたじゃないか!」
『………ああ、分かっている…。分かっているよ。
 だからさっき言ったじゃない?避難は『ほぼ』完了したってさ』
「…な…に…!」
『あーだめだ。もう時間が無いよ。
 はっきり言っておくけど、今から建物内の人間全てを避難させるなんて間違いなく無理だから。
 だからオマエだけでも逃げるんだよ。それじゃね』

 電話は一方的に切られた後、岬は暫くの間携帯を持ったまま立ち尽くすしかなかった。
軍事掃討…それはある意味では厄介払いが出来る絶好の機会と言えるかも知れないのだが、
しかし不思議と全く嬉しくない。
「…ど、どうか…なさったんですか?」
「………」
岬の険しい表情にただならぬものを感じ取ったのか、不安げに尋ねてくる美咲。
対して、尚も黙したままでどう答えるべきか思案を巡らせる岬。しかしその実結論はとっくに出ていた。
嘘を付いたり、適当にはぐらかしたりしたところで、状況は何一つ変わらないのだから。
「先輩…」
弥生にも促される形で岬は口を開く。
「……率直に言う…しかないな。軍部が君への攻撃を開始するそうだ。
 周囲の避難は済んでいるらしいから、もう…間もなくだろう…」
「そ、そんなっ!?」
美咲の表情が目に見えて強張って行くのが分かる。怒っている…いや、怯えているのか。
その反応に一瞬意外性を感じる岬だったが、考えてみれば幾ら大きいとは言ってもまだ16歳の少女である。
それが訪れた異世界で突然軍によって攻撃されることを告げられたのだから、動揺しない方がおかしいか。
「で、でも…岬さん達は此処に…!だったら、まだ…」
気付いて言う美咲の瞳に少しだけ希望が灯る。
「だと良かったんだけどな…。残念ながら俺達に関しては…
 君を倒す為ならば最悪巻き込んでも仕方ない…と言う結論に至ったらしい」
「………」
「…済まない」
再び黙り込む美咲に居た堪れなくなる岬。
「…酷いです…!」
重苦しい間が暫くあった後、低い声で唸る様に美咲が呟く。もっともだ。
「ああ、全くだ。返す言葉も無いよ…」
「…でも、それってわたしのせい…なんですよ…ね…」
「………あ、あぁ…?」
「…美咲ちゃん…?」
続くその意外な言葉に岬も弥生も唖然とする。
「わたしのせいでお二人や皆さんまで危険な目に合うんですよね…?」
どこまでお人好しなのだろう。
今の『酷い』とはてっきり彼女自身が一方的に攻撃されることに対してのものだと思った。
少なくとも彼にとってはそれが普通の感覚だ。しかし、どうもそうではないらしい。
彼女の抱いた怒りは、その為に手段を選ばぬと言う軍部に対するもの、
言うなれば義憤とでもいったところなのだろうか。
「そんなこと言っている場合じゃないよ!狙われているの、美咲ちゃんなんだよ!?」
「そうだ、とにかく逃げろ!」
何の前触れも無く突然姿を現した美咲。つまりその逆も可能と言うことだろう。
彼女が元の世界に帰ってさえしまえば、軍部に追いかける理由も術も無い。
しかし美咲はゆっくりと首を振る。
「逃げませんよ。そんなことをしたら、もっと多くの人を巻き込んでしまうじゃないですか。
 それに…どっちに逃げてもわたしが隠れられそうなところなんて…たぶん無さそうですし…」
「そうじゃなくて…!帰れって言ってるんだよっ!!」
会話が噛み合わないことに苛立ち思わず声調を強める岬。
こうしている間にも刻一刻と軍部の手は迫ってきているのだ。
それに気圧されたのか、一瞬美咲はぴくりと肩を震わせてたじろいだようだったが、
すぐに真っ直ぐに視線を返し、はっきりとした口調で答える。
「…そ、それは……出来ません。わたしは…絶対にこの補習をやり遂げて…
 そして立派なメイドになるんです!」
毅然とした表情。その瞳から見受けられる強い意志が、
この課題とやらに挑む彼女の姿勢が生半可なものではないことを明示している。しかし、
「駄目だ、帰れ」
「そんな…!」
「仮にも主人となった者の言うことが聞けないのか?」
「こ、こんな時だけずるいです。それに…お言葉ですが、先程の契約はあくまでも仮のものですから…」
「君にも拒む権利がある、と?」
「はい…だってこのまま帰れば課題は失敗、確実に留年していまいますから…!」
「馬鹿、だったらまた来年がんばりゃ良いことだ!」
「そ、それじゃダメなんです!」
上半身を乗り出し、覆いかぶさる様に訴えかけてくる美咲の表情は、
自身への攻撃が伝えられた時よりも尚深刻なものだった。
黒く澄んだ大きな瞳が僅かながら揺れているのが分かり、どうしても無碍にはあしらい切れない。
「だったら…主従関係を一回結んで、すぐに終わりにすればいいだろ?」
「でも、それではわたしは何もやっていないことに…」
「もうそれでいいから」
「ですが…!」
「ああ、分かった、じゃあ『十分満足しました』って一筆書くから」
「そ、そんなのずるじゃないですか。そういうのはいけないと思います!」
何となく想像がついていたことだがやはり生真面目な性格らしい。
岬としてもこういうことにしっかりしている人間は嫌いではない。
しかし、状況が状況である以上、融通が利かないのは考え物である。
理屈で説き伏せる自信も無いわけではないが、如何せん時間が無い。
いや、他のことならいざ知らず、この一点に関してだけはどんなに説得しても、
絶対に聞入れなさそうな気もする。
「いいから帰れって!」
結局頭ごなしに。
「いやです!」
当然の如く即拒否する美咲。
「死んじまったら元も子もないだろっ!?」
「わたしは死にませんっ!!」
本日二度目、手加減なしの大声量を受けて思わず屈み込む岬。
と言っても今回の場合は自ら事前に耳を押さえていたためダメージはそれ程でもない。
美咲自身は気付いていなかったのだろうが、
徐々に彼女の口調が熱を持ってきていたことが岬には分かっていた。
それに伴い一言ごとに空気の振動が大きくなってきていたことも。
だから、何となくこうなりそうなことが予測できたわけである。
「…あああ、すす、すみません、すみません、すみません…」
口元を押さえて小さな声で何度も何度も謝る美咲。
その視線が自身だけに留まらず、キョロキョロと忙しなく動いていることですぐに察しがつく。
顧みれば案の定、同様に耳を押さえて尻餅をついている弥生の姿が目に映る。
とばっちりと言うか何と言うか。弥生に手を差し伸べて引っ張り起こしながら、
あえて早口に小声で安否を尋ねてみるとすぐに弥生が頷いた。幸い鼓膜も無事らしい。
「だ、大丈夫ですか?」
と、背後からの声に見返れば、己が攻撃を受けることよりも、課題に失敗することよりも、
ずっとずっと深刻な面持ちで、それこそ泣きそうな顔で様子を窺ってくる美咲と目が合ってしまい、
思わず苦笑が漏れそうになる。とりあえず問題無い旨を伝えてやらねば。そう考えて口を開こうとするも、
「うん、平気、平気。ちょっとびっくりしただけだから」
岬が何か言うよりも早く、即座に軽い調子で応えて笑いながら手を振る弥生。全くタフなものである。
が、そのおかげで美咲の表情が目に見えて柔らかくなっていくのが分かった。
それから彼女は気持ちを落ち着かせるように胸に手を当て、
小さく深呼吸を一つ二つすると、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「えと…わたしの身を案じてくださっている事は分かっているんです…。…とても嬉しいです。
 でも…それでも…わたしはここで帰るわけにはいかないんです…」
「しかしな…」
「そんな顔なさらないで下さい。んー…、きっと大丈夫ですよ、ほら、わたしこんなに大きいんだし!
 さっきだって全然何ともありませんでしたから」
「でも、美咲ちゃん…私達の拳銃なんかとはワケが違うと思うよ?」
「それも分かっているつもりです。でも…やっぱり大丈夫だと思います。
 あ、えーと…わたしってこう見えても…実は結構強いんですよ?」
(結構、ね…)
どう返答して良いか分からず、心の中で反復する岬。
「とにかく…心配なさらないで下さい。
 それより急いで建物の中に入って…なるべく中にいる皆様を真ん中の方へ」
その表情は、相変わらず心なしか青ざめているように思われるが、先程よりは大分落ち着いている。
と同時に強い決意が滲み出ている、そんな印象を受けた。もうこうなると梃子(てこ)でも動きそうにない。
「はぁ…分かったよ…」
とうとう根負けして折れる岬。と言うより美咲が頑なになってしまえば結局どうすることも出来ないわけで。
「だが…少しでも身の危険を感じたら躊躇う事無く帰ること」
「…!ありがとうございます!」
岬の許可が下りたことが嬉しかったのか、美咲は小さく微笑みを浮かべて、素直にこくりと頷き、
「あ、そうだ…」
そこで思い出したように両手を合わせて、しっかり釘を刺してきたのだった。
「でも、岬さんはこのどさくさに紛れて逃げたりしないで下さいね?」