■メイド凱旋

 芝浦の命は文字通り巨人の手の内にあった。
広大なスカートによって受け止められて両手で挟み込むように自機が捕獲されていることは理解できた。
きっとこのまま押し潰されるのだろう。『安全を保障する』とは言われたものの、
流石にそれを鵜呑みに出来るほど、状況は彼にとって楽観できるものではなかった。
しかし、これまで隊の異動に伴って各地を転々としてきた訳だが、
死地が生まれ育った故郷であるというのは悪くない。不思議と気持ちは穏やかなもので、
本来ならば大敵から島とその人々を守りきれなかったことを悔恨すべきところなのだろうが、
ここまで力の差を見せ付けられてしまっては、ある種諦観とも言える気持ちしか湧いてこなかった。
最期に望むことがあるとすれば、せめて家族を始め一般人の命は可能な限り救って欲しいところだが、
しかしそれも巨人の意志一つか。が、そんな彼の処決とはまるで裏腹に視界が再び明るくなる。
同時に右後方からの金属が引きちぎられる様な音に振り向けば、
大きな人差し指と親指によって翼が途中から分断されたところだった。
それからやや長めの沈黙があった。相変わらず掌の上に乗せられていることは変わらないが、
何かをされそうな気配も無い。自分をどうするつもりなのだろう。
考えて答えが出る筈も無く、どうしていいのかも分からない。
たった今入った通信から聞き慣れた部下の声で無事である旨を伝えられ、
それについてはとりあえず胸を撫で下ろしたところだ。これで全部か。
と、次の瞬間にその事実に気付いて芝浦は愕然とする。
「ぜ、全員…だと…?誰も…死んでいない…のか…?」
頭の中でもう一度これまでにあった通信全てを反芻してみる。やはり間違いない。信じられない。
つい今しがた目の当たりにしたあの絶対的な力、ミサイルも機関銃もものともせず、
容易くビルを蹴り砕き、商店街を一歩で消し去り、丸々『丁目』と呼ぶに十分なほどの区画を更地に変え、
戦車隊をまるでおもちゃのように弄んでいた、その凄まじい力、
それを以ってして死者が出ていないというのは不自然極まりないことだった。
まさか巨人が手加減をしたというのだろうか。いや、『まさか』も何もそうとしか考えられない。
 芝浦は意を決するとおもむろにコックピットから飛び出しその大きな手に降り立った。
同時にもう片方の手が巨大な影を作って自身の真上に迫っていたことを知って一瞬は恐怖を覚えるものの、
すぐに気を取り直して走り出す。靴を通して僅かな弾力があり、少しだけ足場は悪かった。
「あ…ま、待って下さい」
その行動に気付いたのか後ろから戸惑いがちな声があったが、最早彼がそれを意に介することはなかった。
目指す先はその太く長い指の先端。不思議と恐怖は無かった。
既に一度死を覚悟した身ではあるし、どうせ今更あがいたところで自分は巨人の気持ち一つで、
即座に殺されてしまうに違いないのだから。しかし一方でその行動には『不可解』な点が幾つもあった。
否、正確には不可解でも不自然でも何でもない。
ただ、余りの存在の絶大さ故につい目を逸らしてしまっていただけなのだ。
考えてみれば巨人の行動は一貫していた。だからこそ確認しておきたいことがあったのである。
 しかし彼が目的を達するその前に巨大な赤味がかった肌色の壁が立ちはだかってしまう。
「!!」
それが巨人の右手であり、全力疾走の自分を容易く追い抜いて進路を塞ぐ
高く分厚い壁となったことを解し慌てて振り返る。
「あの………駄目ですよ?そんな…」
何故か心配そうに見詰める大きな瞳にどう応えて良いか分からず、その顔を黙って見返す芝浦。
「あ……も、もしかして…飛び降りる気なのかな…なんて…」
そこで言わんとすることに察しが付く。大方逃げる積もりだとでも思われたれたのだろう。
もっともこの高さではどうしようもないのだが。
「…何故かね?」
それでも一応尋ね返してみると、
「それは………えっと…あなたは軍人さん、ですよね?」
巨人は視線を泳がせ思案を巡らす素振りを見せてから、
再び芝浦へとそれを戻し一つ一つ確認するように言葉を紡ぐ。
「ああ」
「わたしは…その……敵…なんですよね?」
「……ああ。その積もりで戦ってはいた…」
少し迷ったが、正直に答える。今更弁解し切れることでも無いので正直に答える。
「でしたら…その…こうやって捕虜になるくらいなら、
 …いっそ一思いに…なんて考えていたりするんじゃないか、と…」
その予想外の答えに芝浦は驚き、同時に少しだけおかしくなる。
何だかこの娘の軍人観には些か偏見が含まれているように思う。
「…ああ、そういうことか。だったら心配には及ばないから、その手を退けてはくれないかね?」
「………はい…」
何か言いたげな様子を見せつつもやがて小さく答える巨人。
同時に目の前から壁は消えるが、いつでも受け止められるように備えているのか、
さりげなく左手の下にそれを移動させる配慮がまたおかしい。
背後からの不安げな視線を一身に受けながら、
芝浦はこれ以上心配をさせぬようにゆっくりと中指の先まで歩いて行き、下の様子を覗き込んでみる。
(やはり…!)
同時に言い様の無い強い喜びが胸の奥よりこみ上げてきた。戦車隊は無事だった。
いや、『無事』と言うには結構語弊があって、どれも一様に再起不可能程度には破壊されているのだが。
それでも結論はもう出ていた。たとえ相手がどれほど巨大であろうとも、
どんなに強大な力を持っていようとも、この現実を受け入れて認めるべきだ。
これ以上疑うことはする必要はないし、するべきではない。巨人は…彼女は化け物ではない。
少女だ。それも気立てが良く、慈悲深い。そして、自分達は彼女に救われたのだ、と。
「あ、あの…!」
その時唐突に足場が揺れ動き、芝浦は振り落とされそうになって思わず大きな指先にしがみつきつつ見返る。
その動作に巨人の少女もまた驚きとも戸惑いともつかぬ表情を見せた後、
掌の上にある戦闘機を空いている右の手で軽々と掴み上げてから、ゆっくりと左手を閉じ始めた。
お陰で彼の居た指先は、平坦な地面から急傾斜の坂に、坂からそそり立つ壁へと変化し、
瞬く間に掌の中の方へと転がり落ちてしまう。幸いそれ程の高さも無く何より落ちた先も柔らかかった為、
極軽い脳震盪(のうしんとう)を起こしただけで済むも、彼女から見れば随分と間抜けなことだろう。
戦闘機が取り除かれてますます広く感じるようになった掌の上から、
そんなことを思いつつ改めて見上げてみると、
「あの…えと…何で撃ったんですか?」
彼女の顔がずっと近くに迫ってきており、その視線はこれまでとは一転してきつく、
明らかに非難に満ち満ちていた。
「……ちゃんと…謝って下さいね」
いつの間にかその右手からは己の戦闘機は消えており、
彼女はその人差し指をぴっと立てて尚も強い調子で言い聞かせるように告げてくる。
「あ、あぁ…すまなかった」
別に喝されているわけではないのだが、その声量と雰囲気に気圧され、
そして何よりも彼女の方が正論であるが故に、
小さくそう返すことしか出来ずにいる芝浦に、些か慌てた様子で付け足す少女。
「あ、そうじゃなくて…建物の中に居る人に、ですよ」
「ああ…そうか…そうだな…」
先程までは命の覚悟をしていたわけだが、今は何だか娘にでも怒られているかの様な、
そんな感覚に陥ってくる。と言っても芝浦に娘は居ないのだが。
代わりにふと頭を過ぎるのは口うるさい姪っ子の顔。
思わず口の端から笑みが零れかけ、相手が真剣に怒っていると言うのに
失礼極まりないと考え、慌てて俯く芝浦。
「う…え、えと…わ、わたしはもう怒っていませんからね?」
しかし、それをどう捉えたか彼女はますます焦りを浮かべた。
いつの間にかその声色からはこれまでの責めるような調子は
すっかり影を潜めており、優しいものとなっている。
「…そうか。ありがとう」
その言葉に再び顔を上げて表情を真剣なものに戻し、心から礼を言う芝浦。
対して一瞬目を丸くする少女だったが、
すぐに嬉しそうに顔をほころばせるとにっこりと微笑んで見せたのだった。


 一見怖そうに見えたけれど、実は結構良い人なのかもしれない。
始め、美咲は手に包み込んだ戦闘機を覗き込みながら、何だか憂鬱な気分になってきていた。
とりあえずこれ以上抵抗出来ないようにと捕まえて翼を折ってやったわけだが、
その後のことをまるで考えていなかったからである。
(…………どんな人が乗っているんだろ…?)
人が搭乗していると思しき青色がかったガラスを冴えない顔で覗き込む。
当然のことながらそれが軍人であることは言うまでも無いだろう。
軍人、それに対する美咲のイメージは『堅物でとても怖いおじさん』だ。
(い、いきなり怒鳴られたりしたらどうしよう…)
考えてから首を振ってそれを打ち消す。
(で、でも…悪いのは一応あっちなんだし…。
 うん、そうだよね、毅然とした態度で臨まなきゃ…!キゼン…キゼン…)
しかし、そう何度も自分に言い聞かせて心の準備をしつつ待ってみるも、
なかなか当の相手の方は出てくる気配がない。
確かにコックピットの奥に人影があるのは間違いないと思われるのだが、
もしかして怪我でもしてしまって動けずにいたりするのだろうか。
或いは敵である自分の手に落ちたことを恥じて自ら命を…。
急に不安になってきた美咲は、少し迷ったもののやがて意を決すると左手を動かさぬよう注意しつつ、
躊躇いがちに空いている方の手をドーム型のガラスに近づけていく。
とりあえず軽くノックでもしてみてようか。それでも反応が無かったら無理矢理引き剥がして——、
(ぁ…!)
が、その爪先が届きかける直前、不意にコックピットが開いたものだから
美咲は思わずびくりとして硬直してしまう。
固唾を呑んで見守ること暫し、自身の小指の爪よりも小さな軍服姿の男が掌の上へと降り立つ。
考えてみれば直接人が乗ったのはこれが初めてだが重さは全然感じなかった。
もっとも、戦闘機ですら美咲にとっては紙飛行機の様に軽く、
少し強めに息でも吹きかけようものなら容易く飛んでしまいそうな、
そんな感触しか受けていないのであるから当然と言えば当然なのだが。
男は周囲の状況を確認するようにキョロキョロと見渡していたようだったが、
こちらに視線を向けたところで明らかにその表情を引きつらせた。
いや、こちらと言うよりはその真上辺りに近づけていた右手の方を見ていた気がする。
(………潰されるとか思っちゃったのかな…?)
すぐに弁明しようと口を開きかけたものの、次の瞬間彼はきびすを返して走り出したではないか。
慌てて止まるように声を掛けるが振り向きもしない。
男の向かう先は爪先方面だが、美咲の考える限りそちらには何も無い。
(……あ…も、もしかして…!?)
再び頭を過ぎる『軍人=捕虜=恥辱=自殺』と言う独自の公式に目の前の男を当てはめ、
慌ててその行き道を掌で塞ぐも、
「その積もりはないから手を退けて欲しい」
そんな言葉が返ってきて美咲は困惑してしまう。
男は手の淵への移動を止めるつもりもないらしく、やはりその目的に皆目分からない。
しかし、その表情は決して思い詰めたものではなく、嘘を言っているようにも見えないわけで。
やむなく美咲はそれに従うことにするも、やはりどうしても心配なので、
万が一に備えて退かした右手は左手の下にこっそり添えておくことにする。
男は再びこちらに背を向けると、今度はゆっくりとした足取りでまっすぐ中指の腹を歩いていった。
意識を集中させると、彼の小さな脚の動きに伴って、小虫でも這っているかのような感覚がそこにあり、
微かにくすぐったく感じるも、もし指を動かしでもして落ちてしまったりしたら事なので、そこは我慢する。
男は中指の先端に辿り着くと、足元が安定していることをしっかり確認するような仕草を見せた後、
両手をついて四つん這いになり、そこから下を覗いているらしかった。
 美咲は暫くハラハラしながらその様子を見守っていたが、
ふと先程考えていたことを思い出し、真剣な表情を作った。
一言くらい彼らの暴挙に対して抗議をしておくべきだ。
相手の小ささ、軽さを改めて体感したことで、あの時より緊張は和らいでいるとは言え、
そう思い立つと共にやはり少しばかり動悸が速くなる。はてさてどう言ったら良いものか。
引き締まった細身の体で白髪の混じり始めた髪を撫でつけたその男は、容貌が厳しく、
特に眼光が鋭いと言う第一印象もあって『美咲の中の軍人』にかなり近い雰囲気を持っていた。
(………)
とにかく声を掛けてみよう。そう決心して、男には気付かれぬよう密かに小さく深呼吸をする。
その背中から動きを注視してタイミングを計り、
そして男が顔を上げたと分かった次の瞬間、彼女は口を開いた。
「あ、あの…!」
と、同時に男が大きく狼狽して指先にへばり付くのが分かり、その意外な所作に美咲も驚いてしまう。
その積もりは無かったのだが、どうやら思い切り良く話し掛ける余り手が動いてしまったらしい。
とりあえず先に彼の安全を確保した方が良いかもしれない。
そう考えた美咲は邪魔になりそうな戦闘機を空いている手で退かし、左手の指をそっと起こしていった。
程無く男が指の先端から掌の中へと転がり落ちて来るのを確認してから、
美咲は屈んで戦闘機を足元へと下ろし、再び立ち上がって左手を覗き込む。
男はちょうど小さく頭を振って上体を起こそうとしているところだった。少々やり方が強引過ぎただろうか。
己の指の動きに良い様に翻弄される様を見ていると何だか申し訳なくなってくる。
(で、でも…『今後』のこともあるし、ちゃんと言わなきゃ…!)
とは言え、元々おっとりとした気質で普段なかなか怒ることの無い美咲、
そういうことが大層苦手だったりするのである。
それも相手は初対面の軍人さんであることを考えれば尚のこと。
実際今回だって、自身に対する実害はまるで無かった訳であるし、
もし岬達さえ巻き込む恐れがなかったのならば不問にしていたに違いなかった。
それでもどうにか表情を硬くし、一生懸命に意見する美咲。
ちなみに人差し指を立てるのは『先生』がお説教をする時の癖で、そうすれば『らしく』見えるかと考え、
咄嗟に自身もやってみたわけだが、果たして様になっているのかは怪しいところだ。
 しかし、その追求は彼女の考えていた以上の効果があった。
それこそ従順に応えて、すっかり俯き小さくなってしまう男の態度に内心大いに焦ってしまう程に。
ものの20分程度で小規模ながら簡単に軍隊を戦闘不能にしたこともあって、
さしもの美咲も徐々にこの世界における自身と言う存在を理解し始めていたのである。
(………怖かったのかな…?)
確かに己の言い分を素直に受け入れてもらうのは喜ばしいことだし、
頑張って抗議をしてみた甲斐もあったというものだ。
しかし相手に強く恐怖感を植え付けることは望んではいないし、
ましてやそのあまりに話もロクに聞いてもらえず、従ったふりをされただけだった、
などということなになろうものなら、それこそ美咲としては不本意なことこの上ない。
幸いにも再び持ち上げられた男の顔に極端に萎縮したような様相は無く、
「ありがとう」
そして彼ははっきりとそう告げてきた。一瞬きょとんとしてしまう美咲。
と言うのも、何故礼を言われたのか、その理由がどうにも分からなかったのである。
しかし、彼がふざけているわけではないことはその顔付きから一目瞭然であり、
穏やかだが真剣なその表情を見ていると、自分の言いたかったことはきちんと伝わったような気がしたから。
彼女も安心してそれに微笑で返したのだった。

 男との話も一段落した美咲は、一旦手元から視線を上げると今一度自身の周囲をくるりと見渡す。
そして、今度の今度こそもう敵影が見当たらないことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
が、次の瞬間には岬達のことが気になって仕方なくなってきた。
こうやって辺りの様子を窺った際にも自ずと目が留まってしまうあのデパート。
遠目から見た感じでは損壊も無く、恐らくその屋内に居る限り二人とも無事であろう…とは思うのだが。
それでも何かと懸念が浮かんでくるわけで、一刻も早く彼らの元に戻りたいと言う衝動に駆られる。
考えを纏めた(まとめた)美咲は再び手の中の男へと視線を落とすと早速切り出した。
「あの、わたし…そろそろあの建物に戻りたいのですが…」
「あの建物…避難し遅れた人がいると言うデパートのことかね?」
「はい、そうです」
「…何のために?」
些か怪訝そうな表情を浮かべる男。
当然のことながら彼は何故美咲がこの世界に来たのかを知る筈も無いのだ。
そして、美咲があそこで何をしていたのかも。
「あ、特に何かしようってことはないんですよ?…ただ、ちょっとお話の途中だったもので…」
美咲は少したどたどしい口調になりつつ、ひとまずはそう答えるに留めておく。
「なるほど。それを我々が邪魔したと言うわけだ…」
「え?いえ、別にそんな積もりで言った訳では…」
「ああ、分かっているさ」
少し笑って見せる男。
「それで…あなたはどうなさいますか?」
「うん?私かね?」
「はい、ここに下ろしましょうか?あ、それほど時間は取れませんが、
 もし何処か希望の場所とかありましたら、お送り致しますけど…飛行機…私が壊しちゃいましたし…」
詫びるように進言はしたものの、自身の力に物を言わせてそれを無理強いするのは
少しおかしいことだと思うし、それに彼だけに全ての責任があるというわけでもないだろう。
加えてそこに美咲の『個人的な都合』もこっそり相まって、とりあえずそう提言してみたわけなのだが、
「いや…それならば私も連れて行ってもらえないか?」
男はしっかりとした口調で答えた。
「…あのデパートに、ですか?」
「ああ。君も言ったろう?ちゃんと謝るべきだって」
「それは…確かにそうですけれども…」
「それに私としても、屋内の者達の安否は気に掛かるところだからな。…駄目かね?」
「いえ、そんなことは…」
断る由も無い。言っていることは理に叶っているし、きっと本心からであろう。
にもかかわらず快諾できずに言いよどむ美咲、それを不思議そうな顔で見上げてくる男。
彼女には彼を連れて行くことには大きな『不安要素』があったのだ。
暫くそのまま黙って男を見詰める美咲だったが、やがて意を決すると恐る恐る小さな声で率直に尋ねてみる。
「あの…えっと…わ、わたしのこと、どう…思われますか?」
「…うん?…それは…どう言う…?」
突然の問いかけに意味を汲みかねたのだろう。そう返してくる男に美咲は伏し目がちに続けた。
「例えば…その…恐いとか…がさつだとか…ドジっぽいだとか…役に立たなさそう…とか…」
何しろ美咲は彼の前で散々醜態を晒してしまったのだ。
ビルを蹴り崩したり、家を踏み潰したり、裾を踏んで転んだり…
それに、正当防衛である…かどうかすらも正直怪しいところだが、幾ら一方的に攻撃されたとは言え、
箒を振りかざして殴りかかったりもしたわけだ。それが果たして彼の目にどう映ったか。
少なくとも、そこに『メイドらしさ』などと言うものを
欠片も見取ることが出来なかったことは想像に難くない。
同時に彼が岬と接触する可能性があると言う事実。そしてこの人が、たった今自身がやらかしたことや、
与えられた心象について包み隠さず話をしてしまうことも充分にあり得る。
聞かされた岬は一体はどんな顔をすることか。それを思うと美咲の表情は沈鬱なものになっていく。
「む…そうだな…。難しいところだが…」
男は少し当惑しているようだったが、やがて言葉を吟味しながらといった感じでゆっくりと伝えてくる。
「とりあえず、私は決して悪い印象は持っていない…ではどうかね?」
「ぇ…?…そ、そうなんですか?」
かなり曖昧な物言いだったものの、それが予測し、覚悟していたものよりはずっと良かったことに、
些か拍子抜けしてしまう美咲。
「…怒って…いないんですか…?」
「怒ってはいないな…感謝はしているが」
その言葉によって美咲はつい先程何故か礼を述べられたことを思い出した、そう何故か。
こうなってくるとそのことも無性に気になってきたりするわけだが、
今更になって聞くのも何だか変な気がする。本当に、一体あれはどういう意味だったのだろう。
「ぅー…」
思いの外柔らかい男の態度と言葉、本当は喜ぶべきところなのだろうが、
当の美咲は軽く混乱状態になってしまい、思わず小さく唸りながら考え込む。
「な、何だ…?気分を害してしまったか…?」
と、慌てふためいた声が耳に届いて弾かれたように我に返り、視線を動かす事なく焦点だけを合わせれば、
逃げ場の無い掌の上でたじろぎ、後ずさりしている男の姿がすぐに目に付く。
思案に集中する余り無意識のうちに彼を凝視してしまっていたのだ。
睨み付けられているとでも思われたのかもしれない。
「あ…ち、違うんです、すみません。少し気になることがありまして。
 あ、私事ですから本当に気になさらないで下さいね?」
適当に言葉を濁しつつも、語調と表情は可能な限り和らげる美咲。
それを見て男もまた安心したように掌の中央辺りに戻ってくる。
「そ、そうか。ならば良いんだが…。ところで、デパートに戻らないのかね?急いでいたようだったが」
「ぁ…そ、そうでした…」
その言葉に再び浮かない表情を作り男の顔を見据える美咲だったが、今度はじきにそれを止めた。
ここでまた迷ってしまっては元の木阿弥になってしまい、結局いつまで経っても岬の元に帰れない。
それならばもう悩むことはせず、ここは一つ男を信じてみよう…と言うか成り行きに任せてみよう。
やがて心を決めると、美咲は優しく微笑みかけて言ったのだった。
「では、ご一緒お願い致します。また右手を被せますけれど、
 ただの風除けですから心配なさらないで下さいね?」

 デパートはとりあえず外観に変わった様子はなく、静寂を守って佇んでいた。
(とりあえず守り切れた…のかな…)
ほっと胸を撫で下ろしつつ、二人と出会った屋上へと視線を落としてみたが、そこに人影は見当たらない。
逸る気持ちを抑えてそのまま待ってみるものの、やはり誰も現れることがなく、俄かに顔が曇る美咲。
途端に頭を過ぎってしまう一つの危惧、遠目でデパートを確認したあの時から燻り始めていた一つの懸念。
即ち、この騒動の最中に二人が何処かに行ってしまいはしないか、ということ。
勿論彼らを信じていないわけではない。信じていないわけではないのだが、
弥生に与えてしまった恐怖や、終始自身を受け入れることに消極的だった岬の姿勢等といった
悪いことばかりが不思議と思い起こされてしまい、思わず溜息が零れる。
そして、もし実際にそんなことになってしまったならば、
この小さな世界でたった独り、また手探りで一からまた主人探しを始めなければならない。
それも岬に気付かされてしまったことに、その選択には極限の慎重さが求められる。
こんなことでは一体いつになったら課題に取り掛かることが出来るのだろうか、
ましてやいつになったら補習を終わらせることが出来るのかなど皆目見当もつかない。
幾ら無期限であるとは言え余りにも不透明過ぎる先行きには流石に堪える。
が、そこで考えを改める美咲。それは何もかも勝手に先行させている自身の悪いイメージではないか。
単純に屋内にいる彼らには外の様子が分からず、
今も建物の中で身を潜めている可能性だって充分にあるわけで。
(とにかく呼んでみようかな………『また』…)
しかし折角前向きになりかけた矢先、この世界を訪れ、のっけから不注意で車を踏み潰し、
つまり人を殺しかけて、やきもきしながら懸命に訴え掛けをしていた、
さっきまでの自身に現状が重なってしまう。
と同時に何だか否応無く『振り出し』に戻された気分に陥ってきて再び落ち込みそうになる美咲。
 しかし、幸いにも彼女がそうする前に屋上の扉が開き弥生が姿を現したのだった。
同時に通りに立って覆いかぶさるようにして覗き込んでいる美咲の姿を認め、笑顔で大きく手を振ってくる。
「ぁ…!」
心配は取り越し苦労だった。そのことに安堵し、同時に自身の疑心の非礼を心密かに反省しつつも、
やはり何より嬉しさが大きく、美咲も声を弾ませながら言う。
「ちょうど今帰ってきまして、お呼びしようかなって思っていたところなんです。よく分かりましたね?」
「うん、地響き…じゃない、足音が近づいてきたからね」
『地響き』…さらりと告げられたその単語、顔に熱が帯びるのを感じて小さく俯く美咲だったが、
「ほら、先輩も!早く早く!」
弥生の急かした呼びかけに引きずられる様に、若干疲労の色を見せつつも続けて出てくるその男を目にし、
「結局帰らなかったか。…が、どうやら怪我は無いようだな?」
「…!」
そして安堵の滲んだその第一声から、己の身を案じていてくれていたことが分かり、
その表情は大きな喜びに満ちたとびきりの笑顔になる。
「はい!岬さんも弥生さんもご無事で何よりです!」
左手を動かすことは叶わず、スペースもないので、とても作法通りというわけにはいかなかったのだが、
それでも美咲は二人に向かって僅かに左足を下げて立ち、
右手を胸に当て軽く頭を下げ、簡易的なお辞儀をしながら言う。
「ただいま戻りました」
それから元居た様に再びその場にそっと屈み込むと、左手の男を屋上へと差し出したのだった。