■2月18日


辺りにはこれでもかと言うくらいに甘い、甘いチョコレートの香りが満ちていた。
作業開始から、既に一時間程経過しただろうか。
銀のトレイには綺麗に形が整えられたガナッシュとやらが並んでおり、
行程が一段落を迎えたことは、傍で見ているド素人の俺にも何となく察することが出来た。
次に何をすべきなのか、アイツにはしっかりと分かっているのだろう。
その役割を終えたと推測される量りや絞り、それに汚れたボウル達を手に一度キッチンに引っ込むと、
予め準備してあったのか既に保温状態になっている電気ケトルを抱えて戻ってくる。
それから氷水で満たされた水差し、続いて新しいヘラとボウルを幾つか。
忙しなく、淀みなく、テキパキと動き回るアイツ。
一方の俺はといえば、何をするでもなく、ぼんやりとしていた。
アイツが作業が始めた時より、殆どこの立ち位置を変えることもなく、ずっとずっと突っ立っていた。
というのも、この場において俺は間違いなく戦力外。無力に等しい…というか無力そのものなのだ。
何しろ俺はこういった…即ち菓子作りに関する知識や技術を全く持ち合わせていない。
…というのも勿論あったが、仮に俺にその手のことに通じていたとしても、結局は同じことだっただろう。
「何か手伝えることがあったら言ってくれよ」だとか「洗い物くらいやっておこうか?」とか、
そんな気の利いた言葉一つ出なかったのは、言ったところで笑い飛ばされることも、
俺に出来ることなど何一つ無いことも分かりきっていたからだった。
そりゃそうだ。世界のどこを探したって、テーブルを這うアリンコに助力を求める馬鹿はいない。
決して過度な自己卑下で腐っているのではなく、実際にそんなものなのだ、俺なんて。
いや、しかし、アリってのは自分の体重の五十倍のものを運ぶことが出来るんだっけか。
だけど俺は普通に人間なわけで。…せいぜい自分の体重の半分くらいをようやっと持ち上げるのが関の山。
はぁ…と俺は小さく溜め息をついて辺りを見渡す。
俺がさっきから立ち尽くしているのは、あらゆるものが自分よりも大きいテーブルの上だった。
…とは言え、おかしいのはこの空間であって断じて俺じゃない。
まるで、小人にでもなってしまったかのように、周囲に並ぶ大きな大きな器具に、チョコレートの香り。
ともすればメルヘンと言うか、ファンシーと言うか、そういう印象を受けるかもしれない。
が、騙されてはいけない。断じてそんないいものではない。
思うに何事においても限度ってモンが重要なんだと思う。
甘い…を通り越して重いとも言える空気は、何だか吸っているだけで胸が焼けただれそうだし、
大きさにしても、ここまで巨大であると、ただただ圧倒されるばかり。
何て言うか、そういうのって、せいぜい十倍程度が限界なんじゃないか?
俺はすぐ隣に二つ並んで立つ琥珀色のそれを見上げる。
首の後ろが痛くなるくらいに目一杯に顔を持ち上げることで、
やっとこそのラベルに書かれたフレンチスタイルの文字を読むことができる。
淡くてすらりとした方がV.S.O.P、色が濃くずんぐりむっくりとしている方がグランマルニエ。
どちらも香り付けのために用意されたものに違いないのだろうが、
こんなビン一つ取ったって、建造物と並べても遜色が無いくらいの存在感と貫禄が備わっていた。
ちなみにこのテーブルで一番小さいものといったら…チョコレートフォークってやつ、だろうか。
フォークとは言ってもかなり妙な形をしており、平べったい面の部分は全く無くて、
さながらよく悪魔か海の神様辺りが持っているイメージの…えっと…トライデントだったか?を髣髴とさせる。
もっとも、その先端の一番細い部分ですら、恐らく電柱ぐらいはあるわけで、
俺がにはそれをフォークとしては元より、槍として扱うことも叶わない。
幾つか見える銀のボウルにしてもそう、小さいものですら二つ併せれば、差し詰め工業地帯のガスタンク。
そして、そんな数々の化け物じみた巨大な物体達の向こうに、
それらの主である少女の上半身が何よりも大きく、聳え立っているのだ。
緩くウェーブがかったご自慢の美しい亜麻色の髪を、今は後ろでひとつに束ねて三角巾で覆い、
チェックの深い紺色のエプロンには、その色合いのお陰で目立ってはいないけれども、
よくよく見れば、洗濯で落ちきらなかったのであろう薄らとした染みの存在を、幾つも確認することが出来る。
それはつまるところアイツが『百戦錬磨』であることの証と言えた。
好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものであるが正にそれ。
実際素人目から見ても明らかに熟達していると分かるその手つきと、
頼んでもいないのに所々に挟まれる自信に満ちた、それでいていい加減さの一切見受けられない講釈には、
俺自身かなり驚いたというのが正直な感想だった。破壊行為以外にも取り得があったんだなぁ、とか。

そんなアイツは袋を傾けて、残ったクーベルチュールをざらざらとボウルにあけている。
今回は特に分量を気にする必要は無いのだろうか。
量りにかけることも無く、表情も動作も先ほどに比べると些か大雑把で、力が抜けているように見える。
こうして遠くから眺める分には、それは極々ありふれた、お菓子作りの一行程。
けど…その実あの一欠け、一欠けが俺にとっては持ち上げるのも一苦労なくらいあるに違いな……
『カツン』
と、そんなことを考えたのと同時に、まるで計ったような絶妙なタイミングで
その一粒がボウルの縁に弾かれ、こちらへと飛んできた。
そして、その巨大なチョコレートのタブレットは俺の斜め前方で一度バウンドし、
わりとすぐそばを勢いよく転がっていったのだった。
「………」
ごくり…。自分でも驚くくらいに喉が大きな音を立てる。
前言撤回。抱えるのも無理…俺のベッドぐらいあるわ、これ…。
「ば、馬鹿野郎!危ないだろっ!」
危うくチョコレートに轢死されかけ、思わず上ずった声で叫ぶ俺とアイツの目が合う。
俺が無事であることが分かっているから、ということもきっとあるのだろうが、
その瞳に心配だとか、謝意だとか、そういうものはこれっぽっちも見当たらない。
嘲るような意地の悪い微笑を浮かべ、俺の抗議などどこ吹く風。
少し身を乗り出して、こちらの方へすらりとした指先を伸ばしてくると、
どこか見せ付けるように、チョコを軽々と摘み、ひょいとその口に放り込むのだった。
大方、自分にとっては一口サイズであるチョコレートに狼狽し、翻弄されている俺がおかしかったのだろう。
「………ったく…」
かと思えば、今度は頬張ったチョコレートに、顔を目一杯使って幸福を表現するものだから叶わない。
子供かよ…。毒気を抜かれてしまったのが半分、どうせ聞きゃしないだろうという諦めが半分。
俺はそれ以上文句を言うのを止め、その代わりに小さく溜め息をつくと、
くたびれた声で今日何度目かの質問をアイツに投げやった。
「………なぁ、やっぱさ…俺がここにいる必要って、全然無いよな…?」
繰り返すが、俺に製菓の知識なんてこれっぽっちもない。
当然のことながら、手伝えることだってあろうはずもない。
それなのに、どうして俺はここにいるのだろう。
ちなみに言うまでもないことだとも思うが、俺は俺の意思でここにいるわけではない。
これだけ規格外のものが幾つも並んだテーブルである。
その面積は勿論のこと、脚の長さ…即ち高さだって途方も無いものなのだ。
俺一人でここに上ることは到底不可能であり、ここから下りることもまた然り、なのである。
つまり、ここにはアイツの思惟、もとい恣意が強く反映しているわけで。
「あんたが本を読んでいる時には、私が一緒にいてあげているでしょ」
するとアイツは至極当然と言わんばかりに、少し胸を張って偉そうに答えた。
「………まぁ………そうだけど………」
『頼んでない。お前が勝手にまとわりついてくるだけだろ』とは思っていても流石に言えない。
絶対面倒くさいことになりそうなのが目に見えているから。
本音を言えば読書なんだから、一人静かに没頭したいに決まっている。
それにアイツだって…いや、これはアイツに限ったことでなく、
人が黙々と本に没頭しているところを見ていても、ちっとも面白くないと思うのだが…。
しかし、そうしているアイツは大人しく、少なくともその間は周囲に迷惑をかけることもない。
ついでに俺自身も巨大なアイツの上(場所はその時によって異なる)に全身を預けて
だらっとすることに慣れてしまい、そうして気がつくと、いつの間にかそういう習慣が出来ていたのだった。
………もっとも三十分もすれば、決まって飽きただの退屈だの、何だのと騒ぎ出すのだが。

だけど、あの日は違っていた。
せいぜい四章を半分程読み終えるかどうかくらいで、いつもみたいに邪魔が入るのだろう。
大体そんな心積もりでいたのだが、その予測を大いに裏切って、
アイツがぽつりと呟いたのは、それよりもずっと後、気がつけば五章の終盤辺りだった。
「………されちゃった…」
その信じられないくらいに小さな小さな声には、俺の読書を邪魔する要素は全く無かった。
そして、ちょうど物語は大詰めも大詰め、正にクライマックスだった。
「え…?」
にもかかわらずどうしてだろう、俺は即座に反応し、アイツを見上げていた。
「告白…されちゃった…」
アイツが繰り返す。聞き違いじゃなかったらしい。俺の心臓がとくんと大きく打った。
「………」
良かったじゃないか。とんだ物好きもいたもんだな。今夜は赤飯か。んで明日は槍が降るな。
何故だろう、色んな言葉が胸中でぐるぐる渦巻きながら、どれ一つ形にならない。
結局乾いた声で出たのは、心底どうでもいい質問だった。
「………誰、に…?」
何でこんなことを訊いたのか、自分でもよくわからない。
どうせ俺の知っている人間ではないのだろうし、仮に知っていたとしても、それが一体何だと言うのだろう。
「それがね、実は……」
ところがアイツがもじもじと答えたその名前は完全に予想外の、本当に驚くものだった。
何とそれは俺もよく知る名前だったのだ。いや、俺に限らずこの年代の奴なら、10人中9人は知っているに違いない。
「………そんな…まさか…!…あの…!?」
思わず叫ぶように聞き返してしまう俺に、アイツはこくんと頷いて肯定する。
「そう、あの」
トップアーティストとして、演技派二枚目俳優として、特に十代、二十代に絶大な人気を誇る、超大物の芸能人。
…当然のことながら俺なんかとは到底比べ物にならない。
………いや、待て、そもそも何で俺は比較なんてしているんだ…?
とは言え、ある意味大物同士。むしろ、それくらいでなければ、コイツとは釣り合わないのかもしれない。
「………けど…何だって急に…?確かにお前も有名人、だからな。
 一方的にお互いのことを知っていても不思議じゃないとは思うけど、接点なんてあったのか?」
「あ、それは、ちょっと前に駅前でビル火災があったじゃない?」
「ああ、お前が大活躍だったやつな」
ちなみにその原因に珍しくコイツは全く関係なかった。本当に、珍しく。
そしてあの時、アイツは散々ぶちくさ言いながら、これでもかと言うくらいに渋々という様相で、
そのわりには逃げ遅れた人々に手を差し伸べたり、けが人を病院に運んだり、
消防車を抱えてすぐ間近まで持って行ったりと、結構甲斐甲斐しく動き回っていたりして、
その功労は誰がどう見ても、文句なしにかなり大きなものだったと言える。
だから、それは皮肉でもなんでもなく、素直な賞賛の言葉だったのだが、
けれども、何故かその表情がたちどころに不機嫌なものになり、ぷいとそっぽを向くアイツ。
「べ、別にあたしはそんな積もり無かったんだからねっ!
 あんたが言うから仕方なくちょっと手を貸してあげただけで…」
確かに頼み込んだことは俺も覚えている。
といっても、それは形だけのコト。実際は軽く背中を押しただけ、というのが正しい。
いや、それすらも言い過ぎで、もしかするとあれは所謂お約束、様式美というやつだったのかも知れないとか思う。
そもそもアイツ自身が火災をハラハラしながら見ているのが丸分かりだったのだ。
だったら、その気持ちに素直に、率直に行動すればいいと思うし、
そのお陰で死者が出なかったと言っても過言ではないのだから、
そこは胸を張って、大いに自慢してもいいと思うのだけれども…。
変に照れ屋というか何と言うか…時々コイツの感覚はよくわからない。
「とにかくっ!…たまたま助けた人の中に彼が居たらしいのよ、あたしは全然気がつかなかったんだけど」
半ば無理やりに話の軌道を修正するアイツ。
「はぁ…なるほど、な…」
小さく唸ってしまう俺。なかなかどうして運命的な出逢いって感じじゃないか…。
「あ、ちなみに『やさしい掌』ってあるじゃない?
 実はあの歌、その時の体験とか、あたしのことをモデルにして作ったんだって」
有線やらラジオやら、そこかしこでしょっちゅう流れている彼の最新曲。
言われて歌詞を思い返してみれば、なるほど、確かに。それと思しき箇所が幾つもある。
得意満面、誇らしげな笑みを浮かべるアイツ。もっとも誰だって自慢したくなるような話だ。
何しろあんなすごい人に自分の歌を作ってもらったうえに、告白されたのだ。そりゃ舞い上がっても仕方ない。
と…この言い方だと、まるでみぃはぁみたいだな。流石にアイツに失礼かもしれない。
元々アイツが音楽に重きを置いている節があったのは俺も知っていた。
ある日突然何もかもが取るに足らないちっぽけなものになってしまったアイツにとって
それは数少ない『それでも変わらないもの』の内の一つ、なのだそうだ。
なるほど、俺はすごく納得したのを覚えている。確かに物体ではないのだから物理的には変わらないか、と。
加えて、何よりアイツ自身、あの人がまだ無名だった頃から、ずっとずっと一途に大ファンであったのだ。
だからこそきっと彼はアイツが今でも素直に認めることが出来る、貴重な人間の一人に違いない。
それに、彼の方にしても一般人よりはずっとアイツのために色々なことをしてあげられることだろう。
と、なれば…これほど素晴らしい話は無い…筈なのに。………上手く言葉が出てこない。
俺はコイツが幸せになればいいと常々思っていた。心からそう思っているつもりだった。
それなのに、どうしてこんなにも…こんなにも…素直に祝福できないのだろう。
この言いようの無い感情はきっと『悔しさ』…なんだと思う…。
そう、それで全部合点が行く。説明がつく。だが、それに気がついた瞬間、今度は猛烈な自己嫌悪に陥った。
最低だ…。
つまり心のどこかで、いい気になっていたんだと思う…。
俺だけがアイツが決して悪いヤツじゃないことを分かってやれているんだって、
アイツは俺の言葉なら聞き入れて、分かってくれるんだって。
でも、恋人が出来たってことは、間違いなくそうじゃなくなったってことで…
何だか、アイツが大きくなった時以上にすごく遠くに行ってしまったような気がして…。
ああ…認めたくないし、自分でも信じられないけれども、もしかしたら寂しいのかもしれないな。
それはそれで大層めめしく、情けないことだけれども、それでも、幾分マシなような気がした。
どっちにしろ救いようの無い馬鹿に変わりは無いんだけど、な。
そして俺は、何だかすごくモヤモヤとしたままアイツと別れた。
それから何となく顔も合わせ辛くなって…
アイツもその『彼』とよろしくやっているのか、俺にちょっかいを出さなくなって。
時折気になってそれとなくアイツの様子を観察してみると、
妙に大人しかったり、ぼんやり物思いに耽っていたりすることが多くなって。
だから、突然問答無用で強引に攫われたのは、数えてみれば実に十日ぶりのこと。
折角戻ってきた安寧の日々がぶち壊されたって言うのに、その時俺は何だか懐かしい気すらして………

「…っと!…ちょっと!」
「ん?あ…ああ?」
不意に大きな声があり、びくりとして見上げると、視界に広がる如何にも不満そうな顔のアイツ。
けれどもそれは怒り顔というよりは、困惑といった感じであり、
あの何か思案するような表情に通じるものがあるような気がした。
「もう、またその顔…」
口を尖らせて言われ、俺はその意味が分からなくて小首を傾げる。
「………顔…?」
「何か辛気臭いのよね、最近のあんた」
うわぁ…。
そんな言葉に俺は思わず頭を抱えたくなる。表に出ているのかよ、と…。
流石に何を考えていたのか、的確に見抜かれるようなことはないとは思うが、
それでも、何だか後ろめたい負の感情を見透かされたような気分になる。
全く以ってみっともないったらありゃしない。
「ああ、やだやだ。そんなんじゃあんた、いつか頭の中にカビ生えるわよ」
「うるせ。俺にも色々と思うところがあるんだよ」
「色々って…?」
「い、色々は色々だよ」
「………ふーん」
「………」
「………」
いつものように軽口を返してみても、やはりどこかぎこちない気がする。
勿論俺の考えすぎって可能性も十二分にあるのだが、それでもこの空気がやっぱり嫌で、
とにかく無理にでも何か他の話題を、と考えたその矢先のことだった。
「ところであんた、テンパリングって知ってる?」
「ん?テンパ…リング…?」
………『テンパる』ってのなら一応知っている。はっきりと意味は分からないけど、
ニュアンスとしては余裕が無くなって一杯一杯になるってところか。
で、『イング』ということは…その現在進行形…なのだろうか…?
などといい加減な推理をしてみたものの、間違いなく不正解である気がする上に、
言えばぼろくそに馬鹿にされそうな予感がしたので、とりあえずそれを言うのは止めておくことにする。
で、他の回答をと改めて思考を巡らせ始めたものの、
「へぇ…そんなことも知らないんだぁ?」
あえなく時間切れとなったらしく、何だかやたらと嬉しそうな笑みを浮かべるアイツ。
いつもとは逆だな。ふとそんな風に思う俺。
大概の場合モノを知らないのはアイツの方で、そんなアイツに対して、
半ば呆れ口調でつい言ってしまうのだ、『そんなことも知らないのかよ』と。
日頃の如何にも悔しそうなアイツの顔が脳裏を過ぎり、目の前のアイツと見比べ、思わず苦笑してしまう。
「よろしい。それじゃ、特別に教えてあげるわ」
何がどうよろしいのかよくわからないが、一方のアイツはしたり顔でえらっそーに頷くと、
おもむろにずいと手を差し出してくる。
「…何だ?」
「乗りなさいよ。そこに居たらどうやってもボウルの中、見えないでしょ?今、ちょうど良い感じなのよ」
……どうやら拒否権は無さそうだ。俺はやれやれと肩をすくめると、大人しくアイツに従うことにする。
とは言え、その掌の厚みだけでも俺の背丈に近いくらいあるのだ。
普段は歩道橋や建物等の高低差を利用することや、或いは掌を地面に沈めてくれるお陰で、
わりと難なく乗ることが出来るのだが、この状況で上るのはとても容易じゃない。
しかも、柔らかいそれは汗をかいているのかしっとりと湿り気を帯びていて、余計によじ上ることを困難に…
「ああ、もう…じれったいわね」
相変わらずせっかちなアイツが、待ちきれなかったのか、俺が上り切る前に手を持ち上げやがる。
「ばっ…!落ちる…!」
アイツの手に両腕だけでぶら下がったまま高々と持ち上げられ振り落とされそうになるも、
そこはそれ、流石にアイツも心得てくれているようで、もう一方の手の人差し指の腹だけで、
足の下から軽々と押し上げられ、半ば放り出されて、転げるように前のめりに掌の上へと乗せられる。
まぁ弾力があるので勢いよく投げ出されたところで、大して痛くは無いのだが、
それでも自分の意思を無視した急激な動きというのは、なかなか慣れないもので。
「もうちょっと丁寧に扱えっての…」
けれどもそんな俺の抗議など一切配慮されるはずも無く、せっつく様にアイツが言う。
「ほら、見て御覧なさいよ」
同時に掌がゆっくりと下がり始め、覗き込んでみろと言わんばかりに僅かに傾く。
「お前は人の話を………へぇ…!」
と、無駄とはわかりつつ、それでも文句を続けようと口を開いたものの、
そのまま二の句が続くことは無く、代わりについつい溜め息混じりの声が零れてしまったのは、
視界に飛び込んできたそれが、思いの外とても美しく感じられたからだった。
深く、重厚、覗き込めば映りこみそうなくらいの艶やかな光沢を放つそれは、
さながら格調高く厳かなアンティーク家具の様な雰囲気を有し、それでいて滑らかで流動的でもある。
それが圧倒的な物量を以って、広大なダークブラウンの泉を作り出しているというそんな光景には、
言い知れぬ迫力のようなものがあり、それはタダのチョコレートでしかないはずなのに、
何だかそれ以上の、自分の日常からは遠くかけ離れたモノであるかのような錯覚を覚えてしまう。
ところで、そのテンパリングってのは…とアイツに訊こうとしたのとほぼ同時だった。
「なっ…!」
いきなり大きく足場が傾いた気がしたのだ。いや、気のせいなんかじゃない。
見る見る内に下を向く頭、咄嗟に四肢を使って懸命に踏ん張りをきかせながらアイツに抗議しようとするも、
俺が口を開くよりも早く傾斜は絶壁となり、抵抗も空しく宙へと放り出されてしまう。
遠近感が今ひとつ掴めなかったものの、幸いどうやらそんなに高さは無かったようだ。
『どぷん』
短い滞空時間の後、程無く頭から突っ込んだ俺は、一度深く沈み込んだ後、
五感の全てを以ってカカオを感じながら、必死に手足をばたつかせて、
どうにか顔を水面…もといチョコレート面の上に持ち上げる。
一体何のつもりだよ!
が、俺が怒鳴るよりも早く、アイツがどこかおどけた様子で尋いてきた。
「どう?」
「ど、どうって…何が!?」
「私のテンパリング」
意味不明。しかし、テンパリングってのは、やっぱりチョコレートに関するものなのだろうか。
などと、悠長に考えている場合じゃない。全身にくまなくべったりとまとわりつく濃茶色。
着衣状態で泳ぐのは服に水が染み込んで重くなるから大変だと聞いたことがあるが、
適度な粘度がある分更にきつい。
しかも、よしんばそれを泳ぎきることが出来たとしても、
周囲は一切つかまる所はなく、決して這い上がることは叶わないような高さ十数メートルの滑らかな壁。
さりげなく、かなり絶望的な状況じゃないか、これ…。
つまり、アイツが掬い上げてくれる以外に、俺が救われる道は無いのだ。
口惜しいが、俺の命はアイツの掌の上に…いや、正確にはチョコレートの中だけど。
けれども、アイツは助けの手を差し伸べてくれる気配も無く、
それどころかニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべつつ悠然と見下ろしてくる。
「ふふ、あーあ羨ましいなぁ、チョコレートのプールなんて。誰しも一度は抱く夢よね」
抱かない、抱かないから。そりゃ甘いものが好きな人はいっぱいいるだろうよ?
けど、だからってチョコレートで泳ぎたいヤツなんてまずいねーよ。
「水だったら飲んでも苦しいけど、チョコレートなら甘いから全然大丈夫なわけだし?」
意味不明理屈。何が!?何がどう大丈夫なんだ!?と、そこでアイツの声のトーンが気持ち低くなった。
「………ところであんた、さっきあたしのことさらりと馬鹿呼ばわりしてくれたわよね?」
は?一瞬何のことだか分からなくて、呆然とする俺。
「しかも女のあたし相手に『野郎』までくっつけて」
続くそんなアイツの言葉で程なく思い至る。…って、それじゃあこれはその報復ってこと…なのか…?
俺はあの時の空気を嫌う余りに、ろくろく考えもせず安易にアイツの掌に乗ってしまったことを大いに後悔する。
いや、どっちにしろ結局摘み上げられて、放り込まれていたのかもしれないが。しかし、解せない。
こう言っては何だが、たかがこの程度のことでこれ程の仕返しをされるなんて思ってもみなかった。
何しろはっきり言って、アイツを馬鹿呼ばわりしたことなんて、それこそ星の数ほどあるのだ。
言うなればそれは一つのコミュニケーション、乱暴な言い方をしてしまうなら相槌みたいなモンだ。
対してアイツはむくれたり、口をとがらせたりなどということはしょっちゅうだったが、
こんな風に物理的な制裁に出てくることは殆ど無かったように思う。
ましてや命に関わりかねないようなこんな乱暴な手段をとるなんて、何だかアイツらしくない。
確かに気が強くて、意地っ張りで、負けず嫌いで、わがままで、不器用なヤツだけど、
その点に関しては結構信用している。
………もしかしてコイツ、酔っているんじゃ?
だからこそ不意に思い浮かぶそんな一つの可能性。と言っても勿論へべれけ泥酔状態、なんてことはない。
ただ、ほんのちょっとだけいつもより心に歯止めがきかない状態、おふさけが過ぎる状態。
と言っても、そんなアイツの『ほんのちょっと』が、俺にとっては生死に関わる大問題。
今ふと思ったんだけれども、普通の料理…例えば煮物やなんかとは違って、
今見てきた行程にアルコールが飛ぶ要素、無いよな、そう言えば…。
しかも、ウィスキーにしたってオレンジリキュールにしたって、かなり度数は高い筈だよな…。
でもって、さっきから味見と称して自画自賛しながら、ご機嫌な様子でガナッシュを頻りにパクパクと…。
………いやー…いやいやいや、でも…でもさ、流石にそれは無いだろ。
幾らアルコール度がきついと言っても、所詮は香り付けでしかないわけだし。
チョコを味見し過ぎて酔うなんて、漫画の中でしかありえないような笑い話じゃないか。
『雛祭りの甘酒で酔っ払う』みたいな。それも『自作の』というところが輪をかけて間抜け。
が、そのちょっと抜けている感じが、何だかアイツらしくて、余計あり得る気がしてくる。
そうこうしている間にも、甘い沼はまるで意思を持って俺を飲み込もうとでもしているかのように、
ますますしつこく絡み付いてきて、俺の四肢から徐々に抵抗力を奪っていく。
このままじゃ、ホントにコーティングされかねない。
人間チョコフォンデュ…ちょうどこの時期季節柄、バラエティ番組か何かで如何にもありそうな企画だが、
現実にそんなことになったら絶対笑えない。
もし、アイツが普段どおりでないのならば、俺も普段どおりの対応をしていてはダメなのかもしれない。
正直言って気に入らないことだが、今は本気で謝罪して命乞いをすべきなのか、とか考え始めた時だった。
巨大なヘラが下りてきて、少し向こうのほうに静かに沈み込む。
「ねぇ、ねぇ、ちょっとかき混ぜてみてもいーい?」
ふざけた調子、どこか甘えるような柔らかい声での問いかけがある。
もっともその口調とは裏腹にその内容は到底容認できるものではなく。
そんなことをされれば、俺はチョコレートの津波に飲み込まれて最悪……
俺は力一杯ぶんぶんと首を振り、両手を上に掲げて懸命に、
それこそ死力を尽くして、大きくバツを作って見せる。
「えー?」
引き続き似たような口調と表情で、不満そうな声を上げるアイツ。
けれども、流石にそこまでいくと悪ふざけでは済まないことが分かっているのだろうか。
「ふふ、なぁんてね。冗談よ、冗談」
そんな言葉に少し遅れて足の下に硬い地面を感じたかと思うと、続けてぐっと押し上げられるのが分かる。
どうやらヘラで掬い上げてくれたらしい。思わず心の底から安堵し、溜め息を吐き出す俺。
……………た、助かった…のか…?
けれども、それは早計だった。今度は一体何の積もりなのだろう。
てっきりこのままテーブルの上に返されるかと思いきや、
そのまま高度がぐんぐん上がり、アイツの顔と同じ高さまで持ち上げられたのだ。
にしても、器量だけは文句なしにいいよな、ホント。
決して彫りが深く日本人離れしている、と言うわけではないが、色白で滑らかな肌に、
目、鼻、唇、耳、その一つ一つのパーツがそれぞれに形良く、
それでいて、各々がどこに位置すればその顔貌を美しく構成出来るのかを
しっかりと心得てでもいるかのように整った顔立ち、
そしてけばけばしくない程度に明るい色の髪(ちなみに地毛で染めているわけではないそうな)は、
どことなく西洋の人形か何かを髣髴とさせる。
そういえばいつだったか四分の一かそこいら外人の血が混じっている、みたいなことを言ってたっけか。
これで人形よろしく、大人しくしていてくれれば間違いなくクールビューティーってやつなのだろうけど…。
残念ながらその性格と言動は、そこから最も遠く、正に真逆にあると言える。
そんな日頃やかましいコイツだからこそ、無言には言いえぬ迫力がある気がした。
「な、何だよ…?」
じっと見据えられ、不覚にも弱弱しく、情けない声色になってしまっていることを自覚する俺。
何しろ、次に何をされるのか、その予測が全くつかないのだ。
今一度チョコレートにダイブ、などということもあり得ないとは言いきれないし、
もしそんなことをされたら、今度こそ無事に切り抜けられる自信は無い。
それに加えて、確かにそこにあるのは、これまで何度と無く見てきた顔なのに
…何故か…こう…とても新鮮に………もっと言えばアイツじゃないみたいに感じるのだ。
最近ちょっとご無沙汰だったからか?
それとも、基本的には見上げるばかりでこんな風に同じ目線になることが珍しいから?
もしくは、心なし普段より血色が良い様に見えなくも無いその頬が原因か?
或いは、三角巾によっていつもより大きくあらわになっているおでこのせいだろうか?
………いや。
少し遅れて俺はその違和感の正体に行き着く。表情(カオ)だ。表情がおかしい。
アイツ特有のややきつめの気配、言うなれば攻撃性のようなものがすっきりと抜け落ちているのだ。
いつもは少し釣り上がっていて、気性の強いことを印象付けてくるアイツの瞳には力が宿っておらず、
その代わりに底の見えない神秘的な奥深さの様なものをたたえているように思われた。
そういえばコイツの瞳はその髪と同じく、やっぱり完全な黒ではない。
微かに赤みがかっていて、そう…それは…まるで…
たった今自身が飲み込まれそうになった、底無しの様相を呈するチョコレートみたいだ。
不意にアイツの表情に変化が生まれたのは、俺がそんなことを思ったのとほぼ同時だった。
分かるか分からないとか言うくらいに薄っすら微笑みを浮かべたのだ。
それは、日頃『無駄に』と形容しても良いくらいに感情表現豊かで、
いつでも全力で怒ったり、笑ったり、大きく、忙しなく表情を変化させてきたアイツが初めて見せる種類の顔だった。
「………!」
瞬間、壊れてしまうのではないかと言うくらいに一つ大きく高鳴った心臓は、
そのまま痛いくらいに速く、激しく、鼓動を打ち始める。
だというのに、ポンプとしての役割はちっとも満足に果たせていない。
対照的に何故か熱くじんわりと痺れて全く動かない四肢。
口の中はみるみるうちにカラカラになって、呼吸すら満足にままならず、眩暈すら覚えてしまう。
静かで、穏やかで、だけどそれでいてどこか少し艶かしくもある微笑。
こうして向かい合っていると、ただただ見惚れることしか出来ず、
ともすれば、まるでこのまま吸い込まれてしまうんじゃないかという錯覚すら抱いてしまう。
(何なんだよ、これ……)
言葉は声にならない。喉にへばりついてどうしても出て行かない。
だから心の中で呟くことだけが、今俺に出来る精一杯の、そして唯一の抵抗だった。
もっとも、当然のことながらそんなささやか過ぎる抗いなど、全く以って無力なもので、
アイツに届く由は無いし、自分の気持ちを落ち着けることすら叶わない。
一方そんな俺の心の内などお構いなしの置いてけぼりで、今度はゆっくりと横移動を始める足場。
伴って更に大きく、視界一杯に広がり、ついには収まりきらなくなっていく微笑み。
相変わらずアイツの真意はさっぱりだが、それでもヘラを近づけているのだという、現状況だけは理解する。
チョコレートまみれの哀れな俺の姿をじっくり観察して嘲笑いでもするつもりなのだろうか。
まともに働かない思考を、それでもどうにか働かせて、何となくそんなことを考えるも、
しかし、それが大間違いであったことを、すぐに思い知ることになる。
何故なら俺が運ばれていったのは瞳の前ではなく、その両端に小さく笑みを浮かべた口元だったのだ。
近づくにつれて、形良く穏やかな笑みの形を取っていた唇に変化が生まれる。
上唇と下唇がゆっくりと離れ、綺麗な歯並びがぞろりと覗く。
それは確かに真っ白で、品良く整っているのに、どこか猟奇的な雰囲気を有し、
俺はそれ圧されて、思わず身を退いてしまう。そして、美しい上下の歯達の間に垣間見える漆黒の奈落。
『人間チョコフォンデュ』
瞬間、その単語が頭を過ぎり、同時に腰が砕けてしまい、へなへなとへたり込む。
このままあの隙間に放り込まれたら、俺はその後どうなってしまうのだろう。
まるで一匹の巨大な軟体動物のように、艶かしく蠢くアイツの舌によって、良い様に弄ばれ、転がされ、
前歯で真っ二つに切断されるか、はたまた奥歯によってぐしゃぐしゃに擂り潰されるか、
或いはこの大きさの差だったら丸呑みということもあるかもしれない。
けれど、そうだったとしても、長い食道をまっさかさまに自由落下、
強力な胃酸の海に叩きつけられて、後は骨も残らないに違いない。
結局俺がこの世界から跡形も無く消え失せるという悲劇的な末路は揺るがない。
幾らアイツが多少なりとも酔っていたとしても、そんなことくらい分かるだろう。
とすれば、これはアイツの意思なのだろうか。アイツの望みなのだろうか。
アイツの唇は穏やかな笑みを保ったまま、尚もどんどん迫ってくる。
それは言うまでもなく絶体絶命だった。頭ではそれを重々理解していた。けれども、俺には為す術は無い。
飛び降りればこの高さだ、たとえチョコレートの上であったとしても、きっと無事では済まないだろう。
いや、仮に逃れる場所があったとしても、結局変わらなかったかもしれない。
何故なら、俺は今、純粋に微動だに出来ないのだから。
見えない何かに圧倒的な力で全身をがんじ搦めにされ、締め上げられているかのような…
いや、もっと端的に言うなら俺の本能そのものが絶対的に組み伏せられていて、
抵抗しようとする意思そのものが、根本から封殺されてしまっている、そんな感じだった。
もう目の前にはアイツの唇しかない。目も逸らせない。声も出ない。
そして俺は覚悟した。

ちむ。

「………え…?」
けれども、そんな覚悟とは裏腹に、俺が最終的に到達したのは、想定していた場所とは些かずれていたらしかった。
大きな何かが上半身に押し付けられ、そっと圧し掛かってくる感触。
それは少しだけ冷たく、そしてこの上なく柔らかかった。
「…え…?…え…?」
それから拍子抜けして、間抜けなほどにきょとんとする俺をよそに、
ヘラは当たり前のように、テーブルのすぐ間近にまで下げられ、
その時になって、俺は我に帰り、これから自らが辿る末路に的確な想像がつき、大いに慌てる。
って、うわわ…ま、待て、待てって!今自分で下りるから。
けれども、やっぱりそんな訴えを聞いてくれるほど、気の長いアイツではなかった。
問答無用で傾けられたヘラの上をごろごろと転がされ、ぺいっと放り出される。
………痛………くはなかった…思ったほどは………。
俺の身を気遣ってくれたのか、はたまた単にテーブルを汚したくなかっただけなのか、
落下した場所は幾重にも折り畳まれ、重ねられたティッシュの上であり、ふんわりと受け止められたのだ。
途端に、これまで麻痺していた感覚が一気に甦り、疲労感の津波にどっと襲われ、ぐったりしてしまう。
「………」
俺はチョコまみれで大の字仰向けになったまま、起き上がろうともせずに、力なくアイツを見る。
下ろされた位置がアイツの手元付近だったと言うこともあり、それは慣れたお馴染みの視界だった。
高層の建物の屋上から間近に立つアイツを見上げる感じ。
そして、視界一杯に覗き込んでくるアイツの顔もまた、先程よりも更に赤く染まっているような気こそするものの、
小生意気で小憎たらしい、従来のそれに戻っているような気がした。
「ふふ…もしかして、『食べられるぅー』とか思ったわけ?」
如何にも小馬鹿にしたかのような、上からな口調と視線が、実際に上空より降り注いでくる。
「そんなわけ無いでしょ。あたしにゲテモノ趣味は無いわよ」
散々好き勝手しやがったくせにこの言い草。
ああ、やっぱりもういつものアイツだ。なんつーか良い笑顔しやがって…。
一昔前だったら、こんな時にはそのすべすべで柔らかい頬をむんにり抓りあげてやったものを…。
けれども今となってはこの圧倒的な身長差だ。当然そんなことが叶うはずも無く。
そう言えば、アイツの顔なんてもう随分触れてないよなぁ…なんてぼんやりと、過去に思いを巡らしたところで、
たった今、自分がアイツのどこに触れたのかに気がつく。
甦ってくる全身にふんわりと押し当てられた感触は…その…つまり…アイツのくちび…
…え?…は…?…あれ…?え…?はああああああああああああああああああああああああっ!?
これってキ……!?いや、いやいや!馬鹿な!そんな馬鹿な!
だって、俺とアイツはタダの腐れ縁で!アイツにはもう立派に彼氏が居るわけで!
何これ…?意味不明理解不能。考えても考えても、全然上手く頭が回らない。
折角落ち着いたはずの心臓は、再び馬鹿みたいに活性化してきて、
頭の中がオーバーヒートしたみたいにろくに働かなくなって、
ジーンとした痺れてを覚えて、伴って何だか顔まで熱くなってきて、
「……………ったく…本当に…一体何だってんだよ…」
それを懸命に押さえ込んで誤魔化そうと、俺は小さくひとりごつ。
が、独り言のつもりで呟いたものの、アイツの耳にはしっかりと届いていたらしい。
「仕方ないわね。それじゃ、無知なあんたの為にあたしが特別にレクチャーしてあげるわ」
それを受けてアイツはここぞとばかりに、偉そうに、それでいて嬉しそうな顔で説明を始めた。
「テンパリングっていうのはね、チョコレートの中のカカオバターを安定させるための手法よ。
 具体的には一度、45度くらいになったチョコレートを、27度くらいにまで冷やし…
 そこから更にもう一回、31度まで温度を上げて、そしたらそれをそのままキープするの」
「そ、そうなのか…」
まだ、少し掠れそうになる声を絞り出して、何とか相槌を打つ俺。
しかし、一転して徹底的に客観的かつ専門的であるアイツの説明は、
幸いにも良い具合に俺の心をクールダウンさせるのに一役買ってくれる。
「うん、そうしてあげることでチョコレートに綺麗な艶が出て、口当たりが良くなるから。
 逆にここを疎かにしちゃうと、上手く固まらなかったり、ムラやブルームが出て
 見栄えや舌触りなんかが悪くなっちゃったりするってわけ。分かった?」
なるほど、つまり俺は、その最も安定した状態のチョコレートを全身で体感する羽目になったわけだ。
確かに言われてみれば、肌触りは柔らかくて、滑らかだったようにも思う。
にしても、単に溶かしているだけにしか見えなかったのに、実はそんな細やかな温度調節をしていたんだな。
そのことに関して俺は素直に感心、感嘆する。が、それと同時に一つ純粋な疑問が。
「へぇ…。けど、どうやってそんなの測ってたんだよ。温度計なんて見当たらないし…」
すると、アイツはよくぞ聞いてくれました!と言わんばかりに嬉しそうな笑みを見せた。
「ふふん、普通はちゃんと使うべきだし、実際あたしも最初は使ってたんだけどね。
 もう見た目とか、かき混ぜているときに伝わってくる掌への抵抗の程度、
 それに体感温度でほぼ完璧に分かっちゃうのよ」
有頂天。もうここぞとばかりに本当に得意げに胸を張るアイツ。
そうして片目を瞑り、すらりと長い人差し指をとん、と唇に当てる。
「ちなみに唇の下を使ったのは、ここの境目が人の体の中で一番温度に敏感と言われているからよ」
けれども、そこには温度を測る際に俺ごとチョコレートを押し当てたその跡が、しっかり残っていて。
や、何ていうか、チョコレートをつけたままで気取って見せられても全然格好ついてないんですけどねぇっ!?
それに、そもそもアイツのご高説は俺の疑問には全く応えられていないわけで。
問題は、どうしてそのテンパリングとやらに俺を巻き込む必要があったのかってことなんだけど…。
ただ、改めてそのことに考え出すと、同時にフラッシュバックしてくる柔らかくて気持ち良い感触に
やっとのことで取り戻した平常心はたちまち消え失せ、いつもの自分を保つことなど叶わなくなってしまう。
故にとうとうそれを俺の方から訊く気にはなれなかったのだった。
「さってと…それじゃ、仕上げちゃいましょうか」
一方のアイツはまるで何事も無かったかのようにさらり一転、
表情と声のトーンを落ち着けると、先程と同じく楽しげだけれども真剣な顔つきになる。
チョコレートの中に丸めたガナッシュを沈め、調理道具…と言うよりは大型工事器具の様なモノを使って、
まるで、釣りでもするかの様な手付きでつい、つい、つい、と引き上げて、次々に網に乗せていく。
その様子はやっぱりすごく手馴れて、とてもサマになっているように思われた。
かくして、程無くアイツ特製の特大サイズトリュフチョコがここに完成したのだった。

「いやはや…こりゃ…なかなかに良い出来じゃないか」
それはお世辞でも何でもなく、素直な感想だった。
なるほど、アイツの言った通り、表面にコーティングされたチョコは美しく艶やかで、
こうして遠目から見る分にはデパートの地下で売られているようなものに何ら遜色の無いように思われた。
…まぁ間近からだと見上げるくらいの巨大な岩石サイズなんだけど。
「うんー…」
それなのに、アイツはと言えば小さく唸ったっきり黙りこんでしまう。
さぞや誇らしげに自慢するに違いない。そう思っていたので、そんなリアクションに俺は少しだけ戸惑う。
「どうした?何か失敗でもしたのか?」
「そんなわけないでしょ!」
むっとしたように反論してくるアイツ。
「じゃあ、何だ?」
すると、アイツはまた歯切れが悪くなって、ごにょごにょと答える。
「…その…確かにね、自信はあるのよ?味も、見栄えも、完璧。………けど…やっぱり……ほら…わかるでしょ?」
何だか察しろと言わんばかりの言い草だが、はっきり言って分からない。完璧ならそれでいいじゃないか、と。
「うん、まぁ…何ていうか…一応…なるべく小さめにっていうのを意識して作ってはみたんだけどね…
 それでも…ちっぽけなあんた達にとっては…やっぱり大きいっていうか…その…」
「………ああ…!」
漸く理解し、それと同時に俺はちょっと間の抜けた感じの大きな声が出てしまう。
「『ああ』って…そんなこともすぐに分からないなんて…」
呆れたような、馬鹿にしたような、それでいてほんの僅か哀れみの入り混じったようなアイツの嘆息混じりの声。
まぁ、アイツに真実を弁明したところで面倒なことになるだけであろうことは目に見えているから黙っておくが、
若干感嘆にも近い声が出てしまったのは、決してアイツの言ったことが盲点だったから、ではない。
そんなの誰が見たって一目瞭然、気がつかない方がきっとおかしい。
だが、そんな自分本位ではなく、客観的な意見がアイツの口から出たことが正直衝撃だったのだ。
「まぁ…それでね…迷惑になっちゃったり…しないのかなって…」
そりゃ純粋に困るだろうな、物理的な意味で。心の中だけで即答する俺。
確実に俺の背丈の二倍以上あるそのチョコレートの直径。
だが、俺は全く逆の答えをアイツに伝え、背中を押してやることにする。
「大丈夫だって。そこはほら…やっぱ受け取る方としても気概というか…器ってヤツを見せるところだろ?
 心配すんな。心を込めて作ったチョコ貰って困る男なんてまずいないって」
………ちょっと、無責任だっただろうか?そこには勿論アイツに対する激励だったが、
同時にもしかしたら『あの人』に対するささやかなやっかみ、
ある種の意地悪心みたいなものも、少しくらいは含まれていたかもしれない。
いきなり馬鹿でかいチョコレートを差し出されて、少しは困惑したらいい、みたいな。
うわぁ…ガキっぽ…。我ながら呆れてしまうくらいに子供じみた、馬鹿馬鹿しい心情。
でも、だからとて決して破綻して欲しいわけではなく、やっぱりアイツには幸せになって欲しいとも思うから。
だからそれでも最終的にはアイツの想いをしっかり受け取って、応えてもらいたい。
そんな俺のややこしい心中など伝わるはずもなく、勿論決して伝わって欲しいはずもなく。
「そう…かしら…!」
幸いにもと言うか、当然のことと言うべきか、アイツは素直に俺の言葉を受け取ったらしかった。
少しだけ声のトーンを明るくして、嬉しそうに、それでいてどこかはにかむように微かに俯く。
が、そのまま五拍ほど置いた後、ハッと我に帰ったように表情を険しくし、咳き込むような早口になる。
「って、何勝手なこと言ってるのよっ!あたしは心なんてっ………!」
「込めてないのか?」
ぐっと言葉に詰まり、少しだけ半身を小さくのけぞらせるアイツ。
「………こ、込めてない!」
それでも一度は上ずった声でずっぱりと言い切るものの、
「……こともない……ことも、なきにしもあらずよ……うん、そんなには……」
すぐにもごもごと付け足す。どっちだよ…。
思わず苦笑してしまう俺。けれども、流石にそれは愚問というものか。
真っ赤になってもじもししているその顔を見れば、それが分かりすぎるくらいに分かる気がした。
いつもはあんなんでも、やっぱりコイツも女の子なんだよなぁ…。
微笑ましくなるのと同時に、心の中に言いようの無い疼きが生まれ、
それが急激に大きくなっていくのを感じて、俺は慌てて無理やり押さえつける。
ああ、もう、俺ってヤツはこの期に及んで、まだ………
だから客観的に、冷静に見考えて、いかに自分の抱く思いが身勝手なものか、自らしっかりと言い聞かせる。
それから密かに、アイツに気づかれないように最小の動きで、何度も何度も深呼吸をしつつ、
心の中で一つ、二つ、三つ、とゆっくり数を数えてみる。
十。よし、大丈夫、大丈夫、大丈夫………だな。
同時に確認するように、言い聞かせるように、繰り返す。
とにかく先日の失敗を二度と繰り返さないよう、心を落ち着けるべく瞳を閉じる。
けれども、今度はさっきのあの微笑みがまぶたの裏にちらついて、心は鎮まるどころか、ますます騒ぐ、ざわめく。
「まっ、惜しむらくは肝心のバレンタインをとっくの昔に過ぎていることだなっ!」
それでも俺はどうにか及第点に届くレスポンスは出来たと思う。いつものアイツを茶化した物言い。
不自然に明るく、些かわざとらしい響きを有しているように自分では思われたが、
幸いアイツにそれを気にした様子は見えず、俄かに不機嫌な顔つきになると、口を尖らせた。
「だ、だってっ!」
やたらと強い調子で口を開いたくせに、徐々に小さくなっていく言葉尻。
「………仕方ない……じゃない………」
俺としては何がどう仕方ないのか分からない。
なにぶん相手が相手だから、大方、予定が合わなかったとか、そんなことだろうか。
あ、いや、でも、そうだとしてもどうせ絶対に渡すことになるのは分かっていたんだろうから、
もっと前もって準備しておくのが普通じゃないか?
あーいやいや、チョコレート菓子ってのも出来たての方が味が良いものだったりするのか…?
けど、そんな話聞いたことないし……………ってまぁ、どうでもいいか、そんなこと。
と、我に帰りそんな思考をまとめてばっさりと切り捨てる。
所詮俺は他人、二人の事情に介入する余地も理由もあろうはずがない。
「あ、あんたが…!」
「…は?」
「あんたが………悪いんだから、ね…」
って、俺かよ。
「何で…?」
「だって、最近のあんた…何かすっごく…その…」
ぼそぼそ。うん?全然聞こえない。俺が何だって?
「な、何でも!………とにかく!あんたが悪いの!」
理不尽。どう考えても、俺がコイツとあの人の関係に何らかの影響を与える要素などあるはずはなく、
どうせ深く突っ込んでみたところで、無茶苦茶なとんでも理論が展開されるに違いない。
それこそ、風が吹いて桶屋が儲かるくらい遠回りで、苦し紛れで、意味不明なものが。
「はいはい、反省してますよー」
なので、もう適当に聞き流しておくことにする。
「あんた…絶対悪いと思ってないでしょ…」
当たり前だ。
「ソンナコトナイヨー、ゴメンヨー」
「うぅぅ…」
いかにも納得がいかないという様子で小さく唸ってるアイツ。
が、やがて小さくふっと息を吐き出すとおもむろにくるりときびすを返す。
まずい。少しばかり調子に乗ってからかいすぎただろうか。
考えてみればアイツがへそを曲げてしまって、このまま放置でもされようものなら、俺になす術はない。
慌てて呼び止めようとする俺をよそに部屋を出て行ってしまうアイツ。
しかし、スリッパのパタパタという軽い音にも、その背中にも別段乱暴な雰囲気は無く、
程無く何か紙袋のようなものを手に戻ってくる。
そこよりガサガサと取り出されたのは、赤色の小さな水玉が散りばめられた透明のビニール、
細やかな刺繍の施されたレースのような白い布、或いは紙らしきもの、
それとフリルのついたいかにも愛らしいリボンだった。
次にアイツはそのビニールと紙を重ねると、網の上から出来立てのトリュフチョコをその上に乗せていく。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ…目を一度乗せたところで、ちらりとこちらを一瞥し、網に戻す。
それから、それらをふんわりと包み込むと、丹念に形を整えつつ、その口を僅かに捻り上げ、
そこに器用な手つきでくるりとリボンを巻き、蝶結びを一つこしらえた。
そうして、出来上がった小さな(あくまでもアイツにとって、相対的にであるが)巾着を摘み上げて
傾けたり、下から覗き込んだりして、入念に形をチェックするアイツ。
「ん…」
やがて満足げにこくんと一つ頷くも、しかし、そうしたそばから表情はすぐにまた難しいものに変わる。そして、
「………えーと…うーと……」
こちらをチラチラと見ながら、いかにも何か言いたげな様子を見せるアイツ。
「あの…あの、ね…」
暫く待ってみたものの、アイツにしては珍しくはっきりしない態度。
「…?何だよ?」
幾ら待ってみてもそれが変わらないものだから続きを促すように訊くと、
更にたっぷりと時間をかけ、もじもじそわそわとしてから、
「………はい」
消え入りそうな声と共に、おもむろにアイツは上空よりそれをずいっと差し出してきたのだった。
「………うん?」
反射的に出てしまったその声に、特に深い意味は無い。
ひとえにその意図が今ひとつ分からなかったというだけのことなのだが、
するとアイツは今度は怒ったような乱暴な手つきで、再びそれをこちらへと突き出してきた。
「だから………はいっ!」
先程よりもずっと勢い良く、すぐ間近にまで突き付けられた、俺の何倍もある巾着。
その動きに煽られて俺の前髪がぶわりと揺れ、俺は危うく尻餅をつきそうになる。
改めて近くで見ることで、外装のビニールに散りばめられていた赤い点々は
実はタダの水玉模様ではなく、ハートであったことに気がつく。
「………えっと………俺に?」
いつの間にか顔を真っ赤にしてこくんと無言で頷くアイツ。
「………どういう風の吹き回しだ?」
口にしてしまってから、すぐに我ながら酷い質問だと大いに反省する。
けれども、その一方でそれは紛れも無く率直な疑問だった。
「な、何よ!喜ぶって言ったのあんたでしょ!?それもたった今!」
 ………それとも、あれは嘘だったわけ…?」
まるで親の仇でも見るかのような恨めしげに光るその瞳は心なし、潤んでいる気がする。
「い、いや、そりゃ、嬉しいけど…」
半ば気圧されたように答えたものの、それは間違いなく俺の本心でもあった。
驚きや困惑なんかに入り混じって、胸の中に少なからず喜びが湧き出てくるのを確かに自覚する。
けれども、やっぱり戸惑いの方が遥かに強い。
何しろ付き合いこそ無駄に長いものの、コイツから義理だろうとついでだろうと、
チョコを貰った記憶など、実はただの一度も無いのだから。
「けど、何よ…?」
「いやぁ…何ていうか…要するにあれだ、渡す相手を間違ってやしないか?」
すると僅かに首をかしげ、ほんの少しだけ混乱したような表情を見せるアイツ。
「…?パパの分はパパの分でちゃんとあるわよ?…ほら」
そして、まだまだ網の上に幾つも並んでいるトリュフチョコを指し示す。
「………いや、だから、そうじゃなくて…」
そりゃお父さんは大切だ(というかおじさんも大変だな…)。
腐れ縁の幼馴染に義理チョコをあげるってのも、勿論悪いことじゃない。
でも、やっぱりこういうものには順番というか、序列とでもいうべきものがあって、
幾ら量的に余るのだとしても、本命を差し置いて、いの一番に俺に渡すというのは、
何か間違っているというか、如何なものかという気がするのだが…そんな俺の感覚はおかしいのだろうか。
と、そこで俺はそのことに思い当たり、思わず大き目の声を上げてしまう。
「あ、なるほど、そういうことか!」
「…?何よ?」
訝しげな顔を視界一杯にずいっと覗き込ませてくるアイツ。
「つまり、俺はさしずめ味見係ってところだったんだな?」
それこそ久しぶりに無理やり攫われ、更には作りたてのチョコレートをよこされた理由。
きっちりと通っている辻褄、結構自信あり。というかそれ以外考えられない。
対するアイツは少し身をのけぞらせて大きく目を見開き、
「………!………そっ…!」
と一声短く発したっきり押し黙ってしまうと、
それから何か言おうとしたり、やっぱりやめたりと暫く落ち着き無い沈黙が続いた。
『そうよ!そうに決まってるでしょっ!悪い!?
 私の手作りチョコが食べられるだけでもありがたく思いなさいよっ!』
けどまぁ、大方こんなところだろうか。もう長い付き合いなのだし、単純なアイツのことだ。
言いそうなことなんて、容易に想像がつく。が、
「そんなわけないでしょっ!馬鹿じゃないの、あんた!?」
「なっ…!」
予想外の返答と罵倒。対してすぐさま反論しようとする俺に、
「だったら、こんな風に綺麗に包んだりしないわよ!」
それよりも早く、猛烈な勢いで畳み掛けられた二の矢はアイツにしては珍しく完全に的を射ていた。
「それにさっきも言ったでしょ!味は文句なしに完璧なの!」
チョコが出来上がった時の晴れやかなそれとは打って変わった、荒れ狂う嵐のような表情。
元より怒りっぽい気質であることはとっくに知っていたが、それにしても今のアイツは鬼気迫るものがあった。
が、それでも俺はきっぱりと突っぱねる。
「だったら、受け取れないな」
「………ど、どう…して…?」
途端にがくんと力を落とす声調。その緩急が更に俺を動揺させる。
「い、いや…断固拒否とかってことじゃなくてだな…」
「もしかして、チョコ…嫌い…?」
「や、そういうことでもなくて…」
「………やっぱり迷惑…だから…?」
「そんなことないって!」
心なし小さく震えているようにも思われるアイツの声に、俺は慌てて大きく頭を振る。
「じゃあ、何で…」
納得いかない、意味が分からない。不安げに、弱弱しく、それでいてどこか怯えたような、
しかし、それでも懸命に抗議してくるその眼差し。
ああ、もう、何もそんな顔をしなくても良いじゃないか。ホント苦手だ、コイツのこういう表情は。
怒られたり、怒鳴られたり、馬鹿にされたりしている時の方がよっぽどマシだ。
こんなことなら意固地にならずに受け取ってしまえば良かった、そんな後悔がふつふつと湧いてくる。
「だって、やっぱそうだろ?こういうのは、何より、ほら、まず例の彼氏にさ…」
それでも、どうにかぐっと堪え、ややしどろもどろになりながら理由を説明する俺。
「え…?ちょっと待って。…れいの…か…れし…?」
ところが、アイツは俺がみなまで言い切る前にそれを遮った。
その瞳にからは急速に憂いが影を潜め、虚をつかれたかのように、
大きく目を見開き、ぱちぱちと二度三度瞬きをする。
「彼氏…て…何?」
「は…?何ってお前…そりゃ…ほら…」
「………何よ?」
「………」
「………」
「………」
予想外の反応、何とも言えない間。
あれ?あっれー!?もしかしてこれ、まずった!?やらかしちゃった!?地雷踏んじゃったー!?
でも、何かある意味吹っ切れた。もうこうなったらやぶれかぶれ。突っ切っちまえ、地雷原。
「…お前……まさか…あれか…?うっかり踏み潰しかけたりしちゃったりなんかして、もう愛想つかされたのか?」
いつアイツが烈火の如く怒り出してもいいように心の準備をし、
気絶すらしかねないくらいの大音量を覚悟して、
両手で耳を塞げるようにしっかりと身構え、思い切って訊いてしまう。
「………は、はぁ…?」
しかしアイツはと言えば、何だか腑に落ちないかのような困り顔を浮かべた後、逆におずおずと訊き返してくる。
「う、うっかり踏み潰されかけたくらいじゃ、愛想尽かしたりしない…でしょ…?」
『くらい』って、お前…あっさり言うけど、こっちは命に関わるんだぞー。ていうか何で俺にそれを尋ねるさ。
「まぁ、そりゃ…個人差はあるだろうけど…やっぱり…なぁ…」
俺自身も何度か間近で経験したことのある、あの凄まじい威力、迫力を思い出し、小さく身震いをする。
特にアイツがこうなってまだ日も浅かった頃、初めてそれを体感した時…
これはアイツには言っていないことだが、正直恐怖でおかしくなりそうだった。
と言っても、あれは俺の自業自得だった。ある意味アイツを侮っていた、とも言える。
避難が完了しひっそりと静まり返った住宅街にて、家並みを踏みしめ、潰し、地中に埋め込みながら歩くアイツに、
交わした約束を破ってこっそり俺の方から近づいてしまったのだ。
そして、目の前に落下してきた、決して学校のプールに収まりきらないであろう程に巨大なブーツ。
耳をつんざく爆音、突き上げられるような衝撃、いや実際に俺は一メートルくらい放り上げられたと思う。
地響きを伝えて揺れ続けるアスファルトに尻餅をついた俺は、
そのまま腰を抜かしてしまい、うずくまって震えたまま、暫く身動き一つ出来なかった。
見上げれば周囲の建物の何よりも圧倒的に高く聳えるくすんだベージュ色の巨搭。
上のほうでワンポイントである二つのふわふわのぽんぽんが揺れていることに気がついたが、
全く可愛らしいとは思わなかったし、気休めにもならなかった。
しかもアイツが完全に意識の外側でそれをやってのけたのだ。
思い切り足を踏み下ろして、何かを壊してやろうだとか、そういう気持ちなどアイツには全く無かった。
ただの歩行、ただの足音。だからこそ、これほどの破壊をもたらしながら、
何の感慨も余韻も見せることなく、足はあっさりと退けられ、
突風を巻き起こしながら俺の頭上を越えて行き過ぎていったのだった。
そこにあったレンガ造り風のアパートは、丸々全部跡形も無く消滅していた。
その塀や敷地内に植えられていた木々、屋根つき駐輪場や駐車スペース…
勿論そこに置かれていた何台ものバイクと自転車、それに二台の自動車も含めて消えてなくなり、
代わりにアイツの足跡と言うクレーターが深々と刻まれていたのであった。
ただただその迫力に圧倒され、茫然自失の思いで、見通しの良くなった前方をぼんやりと眺めていた俺が、
本当に恐怖を実感したのはその後だった。アイツの踵部分がアパートの敷地をはみ出し、
その陥没が向こう側の通りにまで及んでいることに気がついたのだ。
もし、これが逆だったら。ほんの少しだけ…そう、アイツにとってはたった数センチ、
気持ち前に足を出していて、こちら側の通りに爪先がはみ出していたならば………。
俺という存在はこの世から消し去られていたのだ。僅かな抵抗すら許されることも無く。
と、不意に携帯が唸り始め、俺はびくりとした。
おそるおそる画面を覗き込むと、たった今俺を殺しかけたばかりのアイツ、だった。
いや、分かってる。わざとじゃない。それは分かってるんだ。
単に俺に気づかなかっただけ、知らなかっただけ。そして知らせなかった俺の落ち度。
………でも俺が死に掛けたのは紛れも無い事実。
そして俺を踏み殺したところで、やっぱりきっと気づかなかったであろうアイツ。
あっさりと、容易く、気づくことすらなく、人の命を奪う存在。
そんなの…化け物じゃないか…。
俺はたまらずディスプレイから目を逸らす。どうしても出る気にはなれなかった。
電話は諦めることなく鳴り続けている。しつこく、しつこく、責め立てるように…いや、すがる様に。
それと同時に再び巨大な気配が近づいてきたのが分かる。
言うまでも無くアイツに違いない。
そして、気がつくと俺は息を潜めて身を隠していた。
その行動に理屈は無かった。
ただ、絶対的な恐怖に支配されて、俺の本能がアイツを畏れ、拒絶したのだ。
ところが、少し遅れて、何だか様子がおかしいことに俺は気がついた。
確かにもうすぐそこまでアイツは来ている筈なのに、
さっきは等間隔であった激しい地響き、つまり足音がちっとも伝わってこないのだ。
代わりにあるのは何か重々しいものがひきずられるような音で。
不思議に思ってそろそろと覗いてみると、やはり案の定そこにはアイツの巨体があり、大きな影を落としていた。
その途方も無く圧倒的な巨躯を目の当たりにすると同時に、再び猛烈な嫌悪感と恐怖に当てられ、
反射的にすぐにでもその場から、アイツから逃げ出したくなる。
けれども、それを思い留まらせたのは見上げた視界一杯に広がるアイツの格好、そしてその表情だった。
一番のお気に入りと自慢していた裾長のケープコートは地面にこすれ、
ついた膝や腕を泥と埃まみれにして、でもそんなことなど全く厭わず、無様に這いつくばって、蹲って。
顔を真っ赤にし、その潤んだ瞳から大きな涙をぼろぼろと零しながら、
それでも、懸命に堪える様に口を真一文字に結び、
そうしてアイツは自分の足跡の付近を一つ一つ丹念に調べているらしかった。
………ずるい、と思った。
涙は女の武器、とはよく言ったものだけれど、これじゃ俺が悪いみたいじゃないか。
だって、俺の方が殺されかけたのに…俺の方が間違いなく被害者なのに…
でも、実際にアイツを泣かせているのは、たぶん俺…
そう言えば、あの時もそうだったよな…。不意に頭を過ぎるは更にずっと過去のこと。
コイツは昔から気が強かった。ガキの頃はいつも苛められていた。
同じ年長なのに、いつもおねえさんみたいな顔をして、偉そうで、一方的で、うるさいし、すぐぶつし…。
それが嫌で嫌で仕方なくて…とうとうある日そんな不満が爆発して、
一大決心をして、一回だけ本気でアイツに反撃したことを思い出す。
徹底的にやっつけてやったら、どんなにかせいせいするだろうって。
………でも、ダメだった。やっとコイツに念願の吠え面をかかせてやったっていうのに、
ちっとも胸がすっとしなくて…何だか見ていられなくなって…。
結局、永久徹底抗戦の誓いは、僅か半日と待たずに翻され、俺の方からアイツに歩み寄っていたのだった。
何故か謝ってしまう俺。出来ればアイツにも謝って欲しかったけど、とうとうそれは叶わなかった。
けど、その代わりにアイツが見せたのは、春の陽だまりのような暖かい微笑で。
俺は何だかもうそれでいいやって気分になってしまって。でも、やっぱりずるいと思った。
だってそんな顔を見せられたら、俺に勝ち目は無いじゃないか…。
そして俺は屋上に駆け上がって、アイツに大きく手を振っていた。
ぐっと覗き込んできて、確認するように何度も何度も瞳を瞬かせた後、
瞳の端に涙を湛えたままで、美しくも愛らしい、最高の笑顔を見せたのだった。
やっぱり、相変わらずだと思った。アイツはでかくなってもずるいままだと思った。

「…やっぱり…何よ…?」
と、そこまで回想が至ったところに、そんなアイツの言葉がなかなか絶妙なタイミングであったものだから、
一瞬自分の回想に対するツッコミかと焦ってしまう。が、そんなわけは無い。
程無くそれが中途半端になっていた自分の言葉の続きを促すものだと気がつく。
けれど、俺は彼のことを(テレビを通しては何度も見たことあるものの)直接知っているわけではない。
「ん、ああ。だから、まぁその人次第、なんじゃないか?」
だからこの回答は最も無難であり、それでいて的確なものであったつもりなのだが、
しかし、そんな回答に対してアイツはどこか納得がいかないという表情で、更に訊いてくる。
「あんたはどうなの?」
「俺…?何で俺…?」
「良いから答えなさいよ」
そこで一呼吸置いた後、アイツの口調はさながら繊細なガラス細工に
恐る恐る手探りで触れでもするかのようなものに変化する。
「…やっぱり………その………怖い?………嫌いに………なる………?」
「や、だからさぁ…」
俺の見解が世間一般的な基準ってわけじゃないんだぞ。
古くからの付き合いってこともあって、お前に対する評価は一般平均値よりもかなり甘いほうに違いないんだから。
と、もう一度繰り返そうとしたものの、アイツの眼差に思いの外強く灯る真剣な光は、
そんな答えを求めてはいないような気がした。だから、結局俺は俺のことを答えることにする。
「んーそうだな…俺なら…びっくりする、かな」
「び、びっくり?」
拍子抜けしたように目をぱちぱちさせるアイツに俺は頷いて言う。
「そう、びっくり。だって、そりゃそうだろ?目の前にとてつもなくでっかくて重たいものが落ちてくるんだぜ」
「な…!重たいって何よ!?」
「言うまでも無くお前のことだよ。それ以外に何があるんだ」
「………!あ、あんたって、ホントいつも、いつも、いーっつも失礼よねっ!」
「正直者なんだよ。真実には逆らえない」
頬を膨らませてソッポを向いて見せるアイツ。
しかし、その瞳には全く怒りは浮かんではおらず、代わりに安堵が見て取れたものだから、
俺は思わず苦笑を浮かべてしまう。いやはや、目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
とは言え、繰り返すが決してこれは万人に共通することではないのだ。
だから、そこのところを決して勘違いすることなきよう、今一度しっかり忠告しておかなければ。
「けどな、これはあくまでも、俺の感覚なんだからな?
 だから今後、彼氏みたいな大切な人に接する時にはもっと慎重になって、丁寧にだな…」
「あーそうそう、そっちの方も気になってたのよ」
だというのに、まるでアイツときたらついでのことのように付け加えた上に、
「………さっきから彼氏、彼氏って…一体何のこと…?」
眉をひそめつつ、まだそんなことを言うものだから、とうとう呆れてしまう。
俺からすりゃこっちの方が余程大事なことだと思うけどな…。
いや、幾らアイツに少し抜けているとはいえ、流石にこれほど巡りが悪いと言うことは無いはずだ。
もしかして照れる余りに故意にそらっとぼけているのかもしれない。
「だから、ほら!あの人のことだよ!ちょっと前に告白されたって言ってたろ…?」
少しだけ苛立ちを覚えて、はっきり言い聞かせるように、やや語気を強める。
何で俺がそんなことを逐一言わなきゃならないのだ、どれだけ世話が焼けるのか、と。
「あ…!あーあーあー」
けれども、その言葉によって漸く思い至ったようにアイツは声をあげ、
「あれね。あれなら断ったわよ?」
それから余りにもさらりと告げられたのは結構衝撃の事実だった。
「そう、あの…え…?は…?断った…?」
言っていることの意味が分からず…いや、話自体は実に単純なのだが、思わず間の抜けた反応をしてしまう俺。
「何よ、馬鹿みたいな顔して」
「だって…お前…」
「『告白された』とは言ったけど、それを受けたとは一言も言わなかったでしょ?」
あ―。
………って、ナニソレイミワカンナイ。
「………い、いや…ま、まぁ…そりゃ確かに…だけど…でも、お前…あんなに嬉しそうに…」
「そりゃ嬉しかったに決まってるでしょ?憧れの人に告白されたんだから」
当たり前じゃない。そう言わんばかりにアイツは片手を腰に当て、上半身を軽く退いて呆れ顔で言う。
うん、そうだね、その通りだ。言っていることはその通りなのだけれど、ぜんぜん納得いかない。
「だったら何で…」
「何でって………それは…!…だって……あたしは………」
視線を逸らし、アイツは何やらごにょごにょと呟くも、その言葉は先細りとなり、さっぱり聞き取れない。
と、そんな風にしていたアイツはやがてハッと我に返ったように顔を上げると、
「……………ッ!!…と、とにかくね!何か違うと思ったのっ!」
「なんつー漠然とした理由で…」
思わず苦笑してしまうも、
「い、いいでしょっ!?あたしがそれでいいと思ったんだからっ!…それとも何か文句あるわけ…?」
「いや、ない、全くないよ」
ジト目で睨みつけられ、低めの声で凄まれてはそう答える他ない。
「じゃあ、この話はこれでお仕舞い!いい?いいわよね!?」
「あ、ああ、わかった」
結局アイツの迫力に気圧され、押し切られるようにこくこくと頷くのだった。
でも…
何だかほっとしてしまう。これからも、まだ、もう暫くは一緒に居てもいいんだって。
そんな風に思うと同時に、心の中にあったしこりのようなものがすっと消え失せ、
代わりに何故か胸の奥から何だかくすぐったくて暖かいもの湧き上がってきて、満されていく。
何だろう、すごく気分が良くて、極々と自然に頬が緩んでしまう。
さっきまでうんざりしていたチョコの香りも、何だか悪くないように思えてくるから不思議なものだ。と、
「あ、やっと―」
「は?何だって?」
突然のアイツの意外な言葉に耳を疑い、思わず聞き返す俺。
聞き間違えでないのであれば、今アイツ『やっと笑った』って。
茶化したり、言い合ったり。俺としてはいつも通りに接していたつもりだったのだけれど…。
だからそんな不思議な台詞の真意が気になってもう一度繰り返して尋ねる。
「おい、笑ったって一体どういう…!」
けれども、アイツはと言えばそれには答えること無く、
立ち作業の邪魔にならないようにと、部屋の隅に置かれていたイスの一つをテーブルの傍らに戻し、
エプロンと三角巾を外して、それらをコンパクトにまとめてテーブルの隅に置く。そして、
「ふぅ」
という妙に満足げな吐息と共に、小さく頭を振るえば、そんなアイツの動きに伴って、
ぺたんとなっていたその美しい髪が跡も残す事無くふんわりと広がる。
そう言えば、唇に付着していたチョコレートもいつの間にか綺麗に落とされていて、
もうすっかりいつもの見慣れたアイツに。
そうして、アイツは静かにイスに腰をかけると、左手で頬杖をつき、
心なし覆いかぶさるようにじっと覗き込んできたのだった。
その表情はとても穏やかなものだったのだが、状況的に何だかアイツに囲まれたような感じになり、
ついついたじろいで、無意識のうちに一歩退いてしまう。
「えっ…!?」
が、すぐに背中に柔らかい、しかしどっしりとした感触があり、慌てて振り返る。
すると、いつの間にかどこまでも広がっていた広大なテーブルが見えなくなり、
その代わりに、乗り越えることも、迂回することも
決して簡単には許してくれそうにない意思を持った肌色の壁が、行く手を阻んでいた。
思わず狼狽してしまう俺を他所に、見下ろすアイツは小さくくすりと笑う。
そうして、通せん坊をしていたアイツの右の手が退けられたかと思うと、
再び例の大きな大きな巾着袋が、俺の目の前にそっと下ろされる。
「それじゃ、改めて………よかったらどうぞ。お口に合えば良いのだけれど」
少しだけ気取ったような、でも珍しく強制を孕まない柔らかく優しげな口調と満面の笑み。
しかし、今の俺にはどう考えても退路も選択の余地も無いわけで。
「さ、見せてもらおうかしら?男の気概ってヤツを」
そして案の定俺の反応を待つことなく、そんな言葉と同時に、
変わらずのにこにこ顔が、ほんの少し悪戯っぽいものに変化する。
それはどこか神秘的な雰囲気を有する艶笑でもなければ、瞳を赤く泣き腫らした泣き笑いでもなく。
これまで一番見てきた、屈託の無い、少しだけ勝気で、楽しげな、最も『らしい』笑顔。
と同時に俺の返事を待つことなく、じわりと滲みよってくる巨大チョコレートの包み。
正確には後ろからそっと押されているのであるが。
背中一杯にアイツの人差し指の温もりが伝えてくる圧力は優しくも絶対的で、
密かに全力で抵抗を試みているものの、びくともしない。
ああ、ものの見事にブーメラン。果たして完食なくして解放してくれるのだろうか?
どんなチョコレート好きだって裸足で逃げ出したくなりそうな圧倒的物量。
最低でも胸焼け確定。下手をするとトラウマにだってなりかねないぞ、これ。
夜な夜なチョコに追っかけられる夢に魘されたりしてな…。
チョコレート怖い。勿論落語とかじゃなくて文字通りに。
何かもう一時間後位の自分の悲惨な成れの果てが目に浮かんできた。
口から食道、胃の中に至るまでチョコレートに侵されて、吐き出す息すらもチョコレート臭、
一回一回の自らの呼吸にすら苦しみ、辟易しながら、
それでもやっとのことで減らした量の何倍ものチョコレートを目の前にし、絶望し立ち尽くす。
そんな無限生き地獄の中で喘ぐ自分の姿が。それなのに…
「勿論、受け取ってくれるわよね?」
そんな頭を抱えたくなるような、純粋に絶体絶命な危機的状況なのに、不思議と驚くほどに心は軽い。
「ああ、当たり前だろ。喜んで、ありがたく!」
そうして自分でも信じられないくらいに、自然に笑ってさらりと返してやると、
自分の体重の何倍もある手作りトリュフに、全身全霊挑みかかるのだった。



たぶんおしまい。