【Ⅱ】新芽の如く

 今は一つに束ねた長く艶やかな黒髪と、それと同色の優しそうな瞳が特徴的な少女が一人。
彼女、美咲はその駐車場の敷地の大半を占拠し、通りに面した正門を尻で完全に封鎖しながら、
足をなるべくコンパクトに畳んだ横座りで、建物の中に消えた主の帰りを待っていた。
流石に島で一番重要な役所と言うだけあって施設の規模はなかなかなものだ。
真正面に幅広な建物がでんと据わり、左手には少し小さめの四角いものが二つ、
そして右手前方にはやや丸みを帯びたかあなりのっぽなものと、大きく分けて4つの建物で構成されているらしい。
お陰で駐車場もまたそれに見合うだけの広さがあり、そこまで窮屈ではなかった。
とは言え足を伸ばせば確実に建物に突き当たってしまうのだろうが。
それにしても岬の帰りは遅い。
(旦那様、何処にいるのかなぁ…)
試しに顔をぐっと近づけて小さな窓を一つずつ覗いてみたりする。
しかし、当然のことながらそうそう簡単に見つけられる筈もない。
何しろ正面の建物一つを取ったって部屋は無数にあるのだし、
ブラインドがかかっていて中の様子が分からないものだって少なくはないのだから。
それでもどうにか頑張って探してみようと幾つめかの窓の奥に視線をやったところで、
たまたまその中にいた女性とぴたりと目が合ってしまった。
彼女からすれば窓一杯に広がる巨大な瞳の突然の出現、驚かないわけがない。
女は狼狽した様子を見せながらたじたじと後ずさりをし、
(あ、危な…!)
コードにでも引っかかったのか、両手一杯に抱えていた紙の束を盛大に放り上げつつ後ろへと倒れ込んでいく。
彼女が尻餅をつくその瞬間、思わず目を逸らしてつぶる美咲。
次に覗き込んだ時には、彼女はばらまかれた書類に埋まりながらただただ呆然と座り込んでいたのだった。
その様子に美咲は居た堪れなくなって心の中で詫びると、直ちにその試みを中止することにした。
 そうして結局大人しく待っていることにすると、途端に何だか手持ち無沙汰になってしまう。
どこか持て余してしまった感のある視線を動かし、無意識の内に退屈凌ぎになりそうなものを求める美咲。
軽く下を向いたところで、ふと建物の正面玄関の脇に一際大きな樹が立っているのが目につく。
どこか愛嬌のあるヘンテコな形をしたそれは、ピンと伸ばした彼女の手首から中指の先までほどの高さがあり、
先端にボールでも乗っけているかのようにこんもりと丸く葉が繁っていた。
その特徴的な外観故、町中でも時折その存在に気がついたのだが、今まで見た中で此処のものが一番立派に思われる。
『いわゆる島の木…ってヤツかな…』名前を尋ねてみたら岬はそう教えてくれた。
島の要所要所に平和と発展を願って植えられたとのことで、親しみを込めて広くそう呼ばれているらしい。
勿論小難しい生物学的正式名称もあるが、そちらはあまり知られておらず岬自身も覚えていないとも言っていた。
そっと撫でてみると小さな小さな深緑色の葉達が指の腹にさわさわと当たり、その感触が何となく心地良くて、
暫くそうしてい美咲だったが、おもむろにそれを止めると指先を自身の目の前に持ってくる。
脳裏にふと過ぎったのは契約の時のことだった。
インクによって真っ赤になった岬を摘んだあの時、思わず緊張で手が震えた。
小さくて、柔らかくて、儚くて、ちょっと力加減を間違えるだけでも、潰してしまいそうなくらいにか弱かった主。
でも何だかとても温かく感じた。あの時の感触を思い出しながら美咲は微かに目を細め、改めて心に秘める。
きっと何時如何なる時も貴方の気持ちに応えられるような、貴方が誇れるような、そんなメイドでありたいと思います、と。
 それから視線を更に手前、自身の腿辺りまで戻してきて、急に新鮮さと共に気恥ずかしさが湧いてくる。
その出で立ちは、この世界に初めて降り立った時のそれとはだいぶ違うものになっていた。
『ジェルミナ』…大き目のパフスリーブ、爽やかなライトグリーンで淡いチェック柄の半袖服に、
裾から繊細なレース入りペチコートを覗かせた幾分深い緑色のスカート。
緑基調でまとめられたその上に重ねた白色のエプロンドレスには黒に近い濃緑のラインが入っていて、
その紐には肩回りから背中にかけて、まるで小さな羽のような強めのギャザーが施されている。
手首には小さなリボンとフリルつきのカフスを装着し、それと揃いの真っ白のサイハイソックスを履き、
靴も真っ黒なものから、木の幹を思わせる濃い焦げ茶色のブーツタイプのものに。
元来着用していたものよりはファッション性が高く、メイド服と言うよりはウェイトレスが着るそれに近いかもしれない。
とは言え、そこまで派手派手しいわけではなく、美咲としてもデザイン自体に不満があるわけではなかった。
それどころか、確かに日頃、自ら進んでこのような格好をしたことはなかったがわけだが、
その実、心のどこかではこういった服装にこっそり憧れを抱いていたと言う部分もあったりして、
むしろ少し嬉しかったりもするくらいだった。…ただし、たった一つの大きな問題、即ちそのスカートの丈に関してを除けば。
長い靴下のお陰で露出は比較的小さめであるとは言え、太腿の中程までしか届いていない裾は、
彼女にとって大きな大きな悩みの種であった、特にこの小さな世界では。

「そう言えば、他にも色んな服があるって言ったよな?」
 デパートより人々を解放し、芝浦も駐屯所に帰還した後、尚も屋上に残る岬はおもむろにそう問いかけてきた。
突然言われて少々驚いたが、すぐに分厚い図解つきの目録を引っ張り出して見せる。
と言ってもそれは美咲からしてもそこそこ重量のある大きく分厚いハードカバーの本であるため、
とてもではないが岬が手にすることなど叶わない。
結局美咲が紙芝居でもするかの如く、ゆっくりとページを捲って見せていく形をとったわけなのだが、
意外にも岬が食いつきを見せる服装は、ピンクのフリフリだとか、肩を出し胸元もかなり開いたものだとか、
へそと共に胸の下部が見えてしまう様なものだとか、思わず赤面してしまいそうなものばかりだった。
その手のことにはまるで興味無さそうに見えても、実はやはりそういう趣味が!?
「…こ、こういうのがお好きなんですか?」
流石に美咲も不安になってきて恐る恐る尋ねてみるも、岬はあっさり首を横に振り、あっさりと返してきたのだった。
「や、短いスカートの方が足元が安全で良いだろ?」
つまり、服装全体のデザイン等そっちのけでそこしか見ていなかったと。
「あ、そういうことでしたか………」
何故だろう、ほっとしたのだけれども、ほんの少しだけがっかりしたような複雑な気分だった。
それがきっと表情にも出てしまったのだろう。それを見て岬は軽い調子で付け足した。
「まぁ…また慣れたらまた元に戻すなり何なり考えるから」
「は、はい…」
(そういうことではないんですけれども…)
真意は伝わらなかったらしい。
 とにもかくにもそうして暫く選考を続けていたわけだが、
「あーもう…短いものだったら何でも良いぞ」
どうやらいよいよ面倒になったらしく岬が突然声を上げた。
「そう…ですか…?」
それならば、美咲は何の捻りも無く無条件で今着ている『スタンダード』の『ミニ』を選ぶ。
それは無難な選択であるし、『何でもいい』が主人の意向であるのならば、それに副う(そう)ことにはなるのだが…。
やはり出来ることなら岬の選んだものを着たいという気持ちがあり、僅かではあるも思わず落胆の色を示してしまう美咲。
「まったく…どうしていっつも先輩はそうなんですか!」
それを酌んで助け舟を出してくれたのは弥生だった。
「ものぐさすぎるんですよ、ホントに!」
「五月蝿い。数が多いんだよ…。それにどんな格好でも別に俺は…」
「ああ、もう!『何でも良い』とか禁止!…今までで気に入ったものとか無かったんですか!?」
「………さぁどうだったか。仮にあったってこんだけ見てたら忘れちまうっての…」
あくまでもやる気を見せない岬に弥生は更に噛み付く。
「それですよ!その態度がダメ、凄くダメなんです!」
「………」
無言のまま弥生を見詰め返す岬。その空気が何だか気まずく思えてきて、
「あ、そんな…わたしならいいんです…」
二人を宥める(なだめる)べく割って入ろうとした美咲だったが、弥生は尚も食って掛かる。
「ご主人様になると決めた以上、そういう希望もしっかり出してあげるべきじゃないんですか?
 …少なくとも私だったらそうしますけど…」
「………ああ…分かった、分かったよ。確かにそうだな、一理ある」
そして意外にも程無く折れたのは岬の方だった。
「ぇ…!」
それから驚く美咲を見上げながら、少しだけ照れ臭そうに彼は言葉を続ける。
「じゃあ…まぁ続けるか、折角だから」
「…はい!」
そして主が選んだのがそれだった。

 その時、待ちかねていた主の声がしたような気がして美咲は回想から我に返り、反射的に建物の玄関に目を向けた。
が、誰の姿を見つけることも叶わず不思議に思う。はて、気のせいだったのだろうか。
小首をかしげながら尚もキョロキョロと見渡していると、声は意外にも上の方から聞こえてきた。
「こっちだ、こっち」
顔を上げればのっぽの建物の屋上の縁に立って手を振っている小さな人影が目につく。
「あ、おかえりなさいませ」
身を乗り出して顔を近づけて、それが岬であることを確認する。ある程度自然と視線の高さが合うので話がし易くて良い。
「随分遅かったですね。………何か、あったんですか…?」
「ああ…朝から気分は最悪だ…」
顔をしかめる岬に美咲もまた眉を曇らせる。
「あの、それってやっぱり私のことで…?」
「いや、酷く個人的な話だから気にしなくていい」
「え?そ、そうなんですか?あの、ところで…」
「ああ、適当に歩き回ってくれとさ」
「ほ、本当ですか!?理解力のある方で良かったですっ!」
思わず喜びの笑顔が浮かぶ。
「理解力…理解力ね…あるというか、何というか…。
 ああ、基本的に大規模な…例えば区域全体での避難とかは無いらしいから、十分気をつけろよ?」
「え!?」
途端に驚きと不安に固まってしまう美咲。
「これからこの島で暮らすんなら慣れた方がいいだろ?」
「え、ええ…まぁ…」
小さく俯くも彼女の表情は晴れない。
「何、軍部と警察が連携してサポートはするみたいだから、そう心配することもないだろう」
「そ、それは何より…なんですが…」
もじもじしながらどうにか言葉を次ぐ。
「…で、でもぉ…」
「良かったな、その服にしておいて」
「うぅ…」
「………まぁ…わざくれ足元まで来て覗こうなんて命知らずはいないだろ…」
気持ちを汲んでくれたのかフォローする岬だったが、
「そ、そうかもしれませんけれど…あの…別に足元まで来なくても…たぶん…」
何しろこの世界では『自身の膝上>建物』成り立つケースが圧倒的に多いのだから。


 上るか下りるか、若干迷った末に前者を選んだことにそれ程深い意味はない。
高速エレベーターの低いモーター音を聞くこと暫し、到着した最上階から更に階段を四つ上れば、
ヘリポートとしても利用されている、役所で一番高い建物の屋上に出ることが出来た。
同時に明らかに非常識なその存在は、堂々と、そして少しだけ退屈そうな表情を浮かべながら、
そこに変わらず鎮座しているのが岬の目に飛び込んできた。こちらにはまだ気付いていないらしい。
 『ジェルミナ』その格好を初めて目にした時、彼は心密かに、しかし素直に可愛いらしいと思ったものだった。
それまでの装いも勿論似合っていたわけだが、大人しくシックなものであったため、一転してかなり華やいで見えたのだ。
本の説明によれば新緑の芽吹きをイメージしているらしいその服装は、どことなく清々しさと共に初々しさを感じさせた。
もっとも後者については大いに彼女の性質依るところなのかも知れないが。

「では…少しの間後ろを向いて頂けませんか?」
 フィーリングで何となく似合いそうなそれを選ぶと、美咲は一つ頷いてすぐに立ち上がり、そう言ってきた。
「ってこの場で着替えるのかよ」
「ええ、そうですよ?」
「いや…それは…流石に…どうなんだ…?」
「大丈夫ですよ。今、この周辺には旦那様達しかいないんですから」
確かにそうなのかもしれないが、自身の大きさと言うものを考慮に入れているのだろうか。
恐らく結構遠くからでもしっかり見えてしまうと思うのだが、遮蔽物になり得るものなど無いわけだし。
しかし、当の彼女は大して気にした様子は無く、単純に気付いていないだけである可能性の方がかなり高いようにも思うが、
いそいそと例のポケットから目的の服を引っ張り出して胸に抱え、急かしてくる。
「さ、お願いします」
とは言え、考えてみれば彼女の着替えに適した場所など、この近辺ではそうは見つからないか。
「………ああ、分かったよ…。けど、だったら俺は建物の中に入っていた方が良いんじゃないか…?」
「そう…ですね………あ、いえ、…でもやっぱりそこで大丈夫ですよ。信用していますから」
一度は頷いたものの、すぐにそれを取り消し微笑んで言う美咲。
「しかしな…」
「………それに…出来れば目に付く所に居て頂いた方が…その…安心できると言いますか…」
ぽろりと零れる本音と思しきその物言いに岬はピンとくる。なるほど、つまり違う意味で信用されていないと言うことか。
「あのな…俺、もう逃げる気なんてないんだけど…?」
「!!…い、いえ、そそ、そういうことじゃなくて…ですね」
明らかに大慌て、当惑した表情を浮かべて、それでも大きく首を振って否定してくる美咲。
しかし、その態度から図星をついたことは一目瞭然。
もっとも岬自身としてもそれまで終始消極的な態度に徹してきたことを自覚しているだけに、
彼女の言い分が分からないわけではなかったのだが。が、だからとてそれを聞き入れるわけにもいかない。
「とにかく、だ…俺は…」
仕切り直すように口を開くも、しかし、すぐにそれを遮ったのはまたもや弥生だった。
「まぁまぁ、美咲ちゃんがそう言うんだからいいじゃありませんか!」
「お、おい!?」
有無を言わさずせっついてきた彼女に、半ば無理やり、力ずくで後ろを向かされてしまう岬。
先程から弥生はやけに美咲の肩ばかり持つ。しかし、勿論絶対的な巨人に怯えて、ご機嫌を取っていると言う様子は見えない。
それに、どうも酷いことをしてしまったことに対する負い目、命を救ってもらったことに対しての恩義とも違うらしい。
そう、恐怖心や責務感などではなく、今の弥生はもっと自然体、あたかも仲の良い友達と接するような雰囲気で、
如何にも世話好きな彼女らしく、内気な友の本音を察してお節介にも代弁してあげている、そんな感じだった。
これが女の連帯感なのか、困るね、先生、とても…。いや、少し違うか?
そうして、弥生もまた同様に背を向けようとしたところで、美咲がそれを制止して言う。
「あ、待ってください。えっと、弥生さんにはどこかおかしいところがないか見て頂きたいのですが…」
「…ああ、うん。オッケー、任せて!」
と言うわけで、一人とびきり渋い顔をする岬をさしおいて、背後で強引に始まってしまう生着替え。
「わ、美咲ちゃん、やっぱりすっごく大きいんだねぇ…」
「ぇ?………ああっ!?…そ、そうですか…?…それほどでは…ないかと………」
「おお、そうやって両腕で庇うと、寄せられてますます強調されて立派に見えるよ」
「あ、あんまりじっと見ないで下さいね…ちょっと恥ずかしいです…。
 そ、それに…えと…ほら、わたし自体が…その…巨人…なわけですから…」
「うーん、確かにそれもあるかも知れないけど、うん、やっぱり大きいよ。
 引き換えわたしが高一の頃なんてさぁ…。ってまぁ今も…なんだけどね…」
「そ、そうなんですか…?で、でも…別に大きいからってそんなに良いことなんて…!」
「あー!持てる者だけに許される贅沢な余裕発言!それって持たざる者には一生無縁の悩みだよね…」
「い、いえ…わたし…そんな積もりじゃ…!………って、あ、ああああっ、そんな、落ち込まないで下さ………
 あぅ………あ、あの…本当に何て言ったらいいか………申し訳ありません………」
「………ぷっ…あはは、ごめんごめん、そんなに慌てないで。冗談だよ、冗談!」
「え…?えっと…で、でも…わたし…配慮が足りなくて…」
「全然気にしてないって、本当に真面目なんだから。それにしても…まだ16歳…かぁ…。
 いいなぁ、若いなぁ。あ!…ってことはさ、まだまだこれから成長するかも知れないよね?」
「え…ええぇっ!?…わ、わたし…もうこれ以上はちょっと…」
「あは、もう、可愛いなぁ美咲ちゃん、真っ赤になっちゃって。あ…ほらほら、早く着替えちゃわないと。
 いつまでもそんな格好で固まってちゃ駄目だぞー?」
「あ、そ、そうでした!お待たせしてはいけませんよね」
「ん?ううん、それは全然構わないけど、ほら、あんまりにも遅いと見られちゃうかもしれないからね?
 しかも、先輩のことだから『遅いのが悪いんだ』みたいな言いがかりなんかつけたりして居直りそうだしさ」
(……………………)
一応こちらを意識しているのか声を潜めている様な気配こそ感じるものの、弥生は美咲までの距離を考えてか、
また美咲は美咲で幾ら声量を絞るにも限界があるらしく、否応無く岬の耳にも結構しっかり届いてしまう。
と同時に後ろから聞こえてくる小さな地響きや衣擦れと思しき音、それに微かに感じられる生温かい空気の流れを受け、
どうしてもどぎまぎしてしまう岬。やはり無理にでも屋内に入っておくべきだったかもしれない。
が、今更遅すぎる、もう下手に動けないし。この上ない居心地の悪さに心底後悔しつつ、
極力音が耳に入ってこないように無理矢理別の、例えば今後のことについてでも考えながら待つこと暫し。
「…どうですか?」
音が止んで小さく問い掛ける美咲の声があった。どうやら無事に済んだようだ。
(やれやれ、やっと終わったか…)
とほっとしたのも束の間。
「あーうん………あのね、美咲ちゃん…ちょっとそれ…短すぎて…」
返す弥生の声は実に答え辛そうなものだった。
「へ?…ぁ、ああっ!?………み、見えちゃってます?」
美咲もまたそれに気付いたらしい。同時に急激に動いたのだろう、少しだけ強い風が吹き下ろしてくるのを背中に感じる。
「うん、もうばっちりと…」
「ど、どうしましょう…?」
狼狽える表情が目に浮かぶようなその声。
「んー…スパッツとかはないの?」
「ありません…。それは『邪道』だって学院で授業で…」
(何だよ、それりゃ…)
思わず脱力しつつ密かに突っ込みを入れる岬。大丈夫なのだろうか、その学校。
「うーん…どうしたものかなぁ…どうしようもないかなぁ…」
「そんなぁ…」
そのまま暫く沈黙があり、岬も大いに困ってしまう。
(い、今振り返ったら…まずいよな…やっぱり)
が、やがて弥生が声を明るくしてそれを提案する。
「とりあえずさ…あの辺が良いんじゃないかな?」
「え?」
「位置的に多分大丈夫だと思うから」
「…あ、なるほど。………で、でも…良いんでしょうか?」
「うん?ああ、もう構わないんじゃない?どうせ完全に壊れちゃってるんだし。
 それに…それくらいじゃないと全体的にどんな感じかも良く分からないかも」
「………分かりました」
意を決したような声色と共に美咲が移動を始めたのが重々しい震動と気配ですぐに分かる。
離れて行っているのか。しかし一体どうして?どこに?弥生がまたロクでもないことを吹き込んだのではなかろうか?
何だか気が気ではなくなってくる。もし美咲が何かしでかそうとしているのならば、一刻も早く制止すべきだ。
とは言え、まだ振り向いても良いと言われたわけではない。もし今も美咲があられもない格好だったりしたら…
そう考えるとどうしても足が動かない。そんな葛藤に苛まれている最中、弥生の声がある。
「もう良いですよ、先輩」
慌てて向き直れば美咲は少しばかり離れた地点に瓦礫を踏みしめて立っていた。
先程彼女自身が踏み潰し、蹴散らし、果てに転んで破壊し尽くした向こうの住宅街の跡地に。
なるほど、そういう意味か。美咲が遠く離れたお陰で全体像を確認することが出来る。
一応普通の少女が目の前に立っている様に『錯覚』できないこともなかった、そう一応は。
美咲はにかむような表情で微笑むと、一つくるりと回ってから、軽く膝を折ってスカートの裾を摘んで広げ、
まるでお披露目とでも言わんばかりの仕草を見せた。なかなか可愛らしい所作、動きに少し遅れて流れる黒髪、
短めのスカートがふんわりと舞い、伴って見え隠れする健康的な太腿がなかなか眩しく感じる。
(ってどんなオッサンだよ、俺は…)
思わず心の中で苦々しく吐き捨て、微かに俯いて小さく首を振る。軽く自己嫌悪。
「あの…如何でしょうかぁ?」
そんな岬の心内など知る筈も無く、遠くからでもしっかりと届く美咲の声。
「さては先輩、見惚れていますね?」
「いや…そんな…ことは…」
すぐ横から図星を突かれて、思わず答えがたどたどしくなってしまう。
「うぅ…やっぱり変ですかぁ…?」
反応が無いことを不安に感じたのか表情を曇らせる美咲。
「ほら、感想を聞きたいみたいですよ?」
「ん………まぁ………悪くないんじゃないか?」
岬がそうぽそりと答えるも呆れ顔を作る弥生。
「…そんなんじゃ声、届きませんって…」
「こんなに遠くちゃどうせ聞こえないだろ…」
「そんなことないですよ」
と言ってからすうっと大きく息を吸い込み、
「美咲ちゃぁんっ!先輩も、凄く似合っていて可愛いってさぁ!!」
叫びつつ両手で大きく丸を作って見せれば、それが分かったのか顔をほころばせて嬉しそうに破顔する美咲。
「ば、馬鹿!誰もそんなこと言ってないだろ!しかもでかい声出しやがって」
そう言いつつも、それが概ね彼の本音を代弁していたことは間違いなかった。
それにしても、綺麗な黒髪が特徴的な彼女のこと、幾つか見た和風の出で立ちなども大層似合いそうである。
(『梅香』に『桜華』それに『仄雪』だったか。他にも…)
『何でも良い』などと無関心を装いながらちゃっかり名前まで記憶している自分に再び呆れてしまう。
それでも敢えて反応を示さなかったのは、長い裾や大きな袂(たもと)等、
その服装が今回の衣装選びの趣旨に適っていなかった事も勿論あるが、
もしそれを弥生に見られたら、絶対に黙ってはいないだろう
…というか大喜びでからかってくるのが目に見えている、そのような危惧があったからでもある。
想像するだに恐ろしい、もといとてつもなく鬱陶しいに違いない。

 それにしても、長い黒髪を思い切りよく、切り落とそうとしたときには流石に驚いたものだ。曰く、
「旦那様に肩に乗って頂いた時とか、あまり髪が長いと危ないんじゃないかと思いまして」
「いやいやいやいや、確かに一理あるかもしれないが…それだけのためにばっさり切るのはな…」
いつの間にやら取り出したハサミをあてがって、その気満々でいる美咲を岬は慌てて止める。が、
「…?どうしてですか?」
彼女の方は不思議そうに小首をかしげただけで、すぐ事も無げに続ける。
「だって、いつかまた伸びるものなんですよ?旦那様の身の安全考えれば当然のことじゃないですか」
しかし、あっさりとした口調とは裏腹にその瞳はいつの間にか真剣なものになっていて、
その表情から、自身のことを本当に案じてくれていることはすぐに分かった。
分かったものの、正直言って年頃の少女の長髪を切らせるなど、何だか心苦しさがあるばかりでちっとも喜べない。
「それは…そうだろうが…この世界では伸びないだろう?時間だって随分かかる」
「ええ、まぁ、たぶん…」
「それに、『髪は女の命』って言うくらいだしな、おいそれと切るものじゃないんだって」
「そうだよ、止めた方が良いって…折角綺麗な髪なのに。勿体無いよ!」
流石にこればかりは弥生も岬に同意する。
「はぁ…ですが…」
しかし、美咲は明らかに納得していない。顔で分かる。証拠に、まだはさみは彼女の手の中にある。
ここは攻め方を変えるべきか。
「大体…簡単に切るって言うけど、結構難しいんだぞ?やったことあるのか?」
「そうだよ、美咲ちゃん。ただ一回はさみを入れて、はい、おしまいってわけにはいかないんだよ?」
「ふふ、侮ってもらっては困ります。分かってますよ、それくらい。心配ご無用です!
 ご主人様の身の回りをお世話する一環として、授業でこういうことも習いましたから!」
意外にも元気良く自信満々の答えがある。何というか、随分とオールマイティな人材を育成している学校らしい。
「けど、それって要は誰かの髪だろ?自分のはどうなんだ?結構勝手が違うんだぞ?」
「あ…」
途端に固まる美咲。それでもまだ、どうにかもごもごと反論してくる。
「そ、そうなんですか…?…それは…確かにやったことはないですが…でも…」
もう一押し。
「で、もし目も当てられないような不恰好な髪型になったらどうするんだ?」
かなり心を込めた忠告。実は学生時代の体験談に基づいていたりいなかったりもする。ましてや年頃の娘なら尚更だ。
「勿論分かっているとは思うが、ここじゃどうしようもないんだからな?」
その上当然のことながら、この世界では彼女の髪を扱うことが出来る美容院など存在しないわけで。
「う…」
言葉に詰まる。どうやら彼女も言わんとすることを理解してくれたらしい。
「悪いことは言わないから止めておけ。いいな?」
それでも小さく目で訴えてくる美咲だったが、
「うぅ………わかりましたぁ…」
とうとう納得したらしく残念そうに一つ頷くと、はさみをポケットに仕舞う。密かに安堵のため息をこぼす岬。
が、やはり彼女の中ではこのままではいけないようで、その代わりにヘアゴムを引っ張り出すと、
結局苦肉の策(?)と言う形で美咲は長髪をまとめることにしたらしかった。
と言っても実際のところ、横髪を残して垂らしているのであまり変わらないと言うか、
危険性を考えるのであれば、そもそも岬が彼女の肩に乗ること自体が無さそうであるのだが。
彼女の気配りを無碍にするのも如何なものかと考えその辺りは黙っておくことにした。
また何か余計なことを思いついてくれても大変だし………。

 とにかく美咲はよく岬のことを気遣ってくれる。これが彼女の気質なのか、はたまたメイドの心意気なのか、
或いはこちらが余りに小さすぎるからなのか。もしかするとその全てかもしれない。
そう言えばこの役所に着いたた時もそうだった。
と言うのも彼女の指、つまり掌の厚さは1mを越えており、
ぴったり接地したとしても、その落差ゆえに乗り降りに一苦労だったのである。
それに気付いた美咲がとった行動…それが掌と地面のバリアフリー化だった。
と言っても何のことは無い、ただ単純に地に手を力任せに押し付けるというだけのものだったが。
しかも、指先の一部だけをそうすれば良いものを、急角度では危ないからとわざわざ掌の半分を沈み込め、
その上もう片方の手まで一緒に添えてくれたりした。
結果、彼女の膝元辺りには、爪先から手の甲にかけての跡が綺麗にアスファルトを窪ませて残り、
駐車スペース10台分程が使用不可能になっていたことが、こうして屋上から見下ろすことで改めて分かった。
もっとも『本体』と言うべきか、尻から折り曲げた足にかけてが引き起こしている大陥没からすれば、
それすらも本当に些末なものに思われたが。
 何にしても何気なくであれ屋上を選んだのは正解だったかもしれない。
此処ならばその段差を考える事無く、掌に移ることが出来るのだし。
…と思ったのだが、実際のところ呼びかけに応じて差し伸べられた掌は、
建物全体が軋むほどにぴったりと押し付けられるものだから、結局上は上で結構恐かったりしたのだが。