旧地獄。生前罪を犯した者が堕ち、灼熱の炎でその身と業を焼き償う場所。もちろん旧とつくからに
は既に地獄としての役割を後進に譲り、今は別の用途で余生を送っている。旧地獄が地獄としての
役割を終えて火が抜かれる際に、地獄の淵には蓋がされた。その蓋が、地霊殿という巨大な建物。
霊殿という名前からして神社のような和式の建造物を想像する者も多かれとは思うが、この地霊殿
は意外にも洋風。窓にはステンドグラスがはめ込まれ、太陽のない地底の薄明りにぼんやりと浮か
び上がる。
「旧地獄街の人々は明るいのに、物理的に暗いのはちょっと応えるわね……」
そんな地底の街を訪れた少女がいた。黄昏の薄明りの中、ややおぼつかない足取りで歩いている。
ときおり僅かな光源に反射して、彼女の腰まである蒼い髪の毛が暗闇の中にきらりと筋走る。名を比
那名居天子。
 彼女は夜目があまり利かなかった。それもそのはず、彼女の暮らす天界は曇ることが無いのだか
ら。昼は太陽光が眩いばかりの光を投げかけ、夜は満天の星空が天界の大地を照らす。敷き詰めら
れるように咲き並ぶ花々はどれも一様に白。地上の人間が天界に行けばその明るさに夜も眠れぬと
か。それに比べてこの地底ときたら。灯りと言えば地霊殿の中庭から漏れ出す旧地獄の火と、街道
沿いの店の軒につるされた提灯ぐらい。いや、今はその灯りすら届かない。
「年がら年中あんなところで暮らしていたら目も悪くなります」
闇の中に映える銀髪。闇に溶ける黒服とそれを縁取る白いフリル。暗闇の中に断片的に映し出され
るその姿は、メイドの物。天人とは違い、彼女はよく夜目が利いた。それもそのはず、彼女の仕事場
は常に暗い。なぜならば雇い主が太陽光にめっぽう弱いからである。闇によく慣れた彼女の眼は、旧
都の裏路地においてもよく良く機能した。ちなみに妖怪ではない。れっきとした人間である。名を十六
夜咲夜。自称完全で瀟洒可愛いメイド。
「普通は暗いところにこもってると視力が落ちるもんだけどね~」
天子は足元の段差に気がつかず、それに足をつっかけてバランスを崩した。危ないところで咲夜さん
に支えられて事なきを得たが、実はここは階段になっていてこのまま転んだ場合階段の角に顔面を
打ちつけることとなっていた。
「あ、あり……がと……」
天子は心底、自分を情けなく思った。戦闘能力や頭脳には自信があるのだが、目が見えないとなる
と全く役に立たない。
「いいえ、どういたしまして。もう、このまま私が貴女の手を引いていきましょうか? 貴女、この状況
下だとまさに無能ですし」
無能っ! 咲夜の言葉が鋭いナイフとなって天子のプライドに突き刺さる。
「ちょっ! 私は無能なんかじゃ……ない……わ。多分」
天子は言いかえしたい気持ち半分、言いかえせない気持ち半分で中途半端な返事をした。すると咲
夜はにっこりと笑顔で。
「じゃぁ、2人で手分けして探した方がいいですね」
天子の手を放してどこかに消えてしまった。
 2人が探しているもの、それは他でもない今回のゲストだった。地底の街を適当にぶらぶらしている
らしいという事で、捜索に駆り出されたのである。もちろん、猫を探すというのは容易なことではない。
どこにでも行くし、移動の際には音もたてない。天子は階段に座り込み、彼女にとっては自分の体す
ら満足に見えない闇の奥を見据えた。
「けれど所詮は猫……。見つけられないならば向こうから近付くようにしてやればいいのよ」
天子はいつも被っている帽子を手に取り、そしてその中から何かを取りだした。
「ふふ……これぞ最終鬼畜猫捕獲兵器、カツオブシだぁっ!」
最近はあまりお目にかかる機会がないかもしれない、まだ削られていない状態のカツオブシである。
猫と言えばこれ。日本の猫でこれが嫌いな者はいない。
「そんなものがあるならなんでもっと早く出してくれなかったんですか?」
真正面から咲夜の声がし、天子は驚いて跳び上がった。
「い、いたの?」
「はい、置いていこうと思いましたがやっぱり心配なので……」
と、咲夜が天子に見える位置まで歩み寄ったところで、闇の中から何かが飛び出し天子の手にある
鰹節を掻っ攫った。あまりに一瞬のことなので、咲夜も天子もそれに対応することが出来なかった。
「なっ!?」
天子が驚いてそちらを見ると、そこには闇の中でもよく映える赤い髪。おそらくあれは今回の探し人
……いや、探し猫だ。彼女の後を追うように、怨霊の鬼火がふわふわとやって来て周囲を照らす。
「ふふ……アタイの狙いがカツオブシじゃなかったら、今頃貴女は綺麗な死体だよ」
たった今天子の手から奪った鰹節に口づけをし、天子を振り返る彼女。緑のドレスに、おさげに纏め
た赤い髪。そして人にあらざる尖った猫耳。間違いない。紫に探せと言われた猫、火焔猫燐その人で
ある。



「事前にちゃんとアポ取ってくれればそんな大変なことしなくてもよかったのに」
見知らぬ世界に連れて来られたお燐は八雲紫にそうこぼした。
「そうね。突然で申し訳ないわ。けど今回も引き受けてくれるでしょう?」
紫は既に1000倍に巨大化した少女の耳元で会話に応じる。
「えっと、ここで壊したもの、殺した者は全てあなたが元通りにしてくれるのよね?」
そこに存在しているだけで既に多くの建物を踏み潰しているお燐が確認するように彼女に問い返し
た。
「えぇ、全てなかったことにしてあげるから存分に暴れて頂戴」
それを聞くと、彼女は安心したように一歩を踏み出した。重々しい足音と共に踏み下ろされたその靴
は、数十棟もの家々をその下に納め、消し去った。
「了解。それにしても……ここは外の世界じゃないね?」
お燐は足下に耳を傾け、そして首を傾げる。猫の優れた聴覚はそこにいる人々が何を言っているか
を正確に聞きとることが出来た。が、言葉が全く分からないのである。
「そうね、ここは外の世界よりもずっと魔法や科学の研究が進んだ世界。ちょっと次元のずれた場所
にある世界よ。そう、翻訳するの忘れてたわ。ちょっと言語の境界弄ってくる」
耳元で紫が答える。別に耳元で無くても彼女の聴力ならば聞き取れるのだが。
「そう……それは」
彼女の視線の先で、何やら立ち上がるものがあった。それは、街のどんな建物よりも巨大な、カニの
ような機械。物々しい砲台やら何やらをその背中に沢山背負い、砂煙を盛大に上げて。
「運びがいのある強い死体がいっぱいいる世界ってことかな」
お燐はその機械に正対し、にやりと笑った。巨大な兵器と巨大な少女が向かい合う。どちらが優勢か
は、目に見えて明らかなのだが。
 この世界の人間は地球の人間より遥かに勇敢であった。または好戦的ともいえるが。無駄な説得
に時間をかけることもなく、速やかに兵器がお燐の周りを取り巻いていく。それはお燐の目に目立っ
て見えるカニ型の機械の他に、建物の間を縫うように走る道路に沿って次々と戦車が展開している
のだった。
「ちょ、ちょっと……何よこれ。この世界は戦争が絶えなかったのかしら……」
カニ型の機械がその足を動かして、移動を始める。ここで被害を押さえるべきと考えたのだろうか、そ
の鉄の脚は民間人の物と思われる家を踏み潰して強引に踏み下ろされた。
「あ~あ、可哀想に。報われないね、今のは」
天子はその巨大兵器の移動に伴いその真下に位置することとなった。彼女の経験からするに、この
兵器の大きさは概算で120メートルほど。こんなもので巨大娘を倒せるような調整を紫がするとは思
えない。
「ふふ……猫ってさ」
お燐がその巨大な足を持ち上げ、不敵な笑みを浮かべる。天子の位置からだと、首が痛くなるまで
見上げないとその足の裏を見ることすら適わない。まして全身を見上げようと思うのなら、かなり距離
を取らなければならない。
 故に、同じような距離に展開した機械達の放火も必然的にお燐の脚に集まることとなる。しかしそ
の威力が半端ではない。搭載兵器はどうやらビーム兵器のようなのだが、発射の際の熱で空気が爆
発的に膨れ上がり、周囲の空間がレンズのように歪むほどなのだ。そんな強力なレーザーが、持ち
上げられたお燐の足に集中する。
「そういう動くもの見るとね、どうしても襲いたくなっちゃうんだ」
降り注ぐレーザー弾幕を物ともせず、お燐の足はその内の一機に向かって踏み下ろされた。カニ型
のその機械は、お燐の靴を受け止めたかのように思われた。が、思えば猫と言う生き物は相手を一
撃で楽にするような性質ではない。おそらくお燐はまだまだ重さをかけていないのだ。
「ふふ……。もっとしっかり押し返したら? ほらほら、潰されちゃうよ」
お燐はじりじりとその機械に体重を乗せて行く。それはもう、いたぶる様にゆっくりと。
「さっきからアタイを攻撃してるみたいだけどね~。もっと頑張って攻撃しないと、大事なお友達がアタ
イの足の下で潰れることになるよ?」
くすくす。相手の必死の抵抗を嘲笑うお燐。余裕の表情の彼女に対して、靴の下でその重さに耐える
機械には限界が近付きつつあった。鉄の脚を折りたたみ、地面との間でギシギシと金属質の悲鳴を
上げている。
「ほらっ」
ずずん! お燐が全体重をその足に移動した瞬間、その重みに耐えきれずに機械のカニは地面とお
燐の靴底の間でスクラップになった。もちろん被害はそこだけではない。踏み下ろされた足の下はも
はや観測不能として、被害はその周囲にも及ぶのだ。強烈な爆風と地震によって巻き起こる砂塵。そ
の中には、家を構築していた柱や家具が混じって飛散し、さらに遠くの家に落下して被害を生む。彼
女の一歩の破壊は、散弾さながらに、超広範囲に被害をばら撒くのだ。
「あ~あ、潰れちゃったよ。クスクス。アタイがいけないんじゃないのさ。弱すぎるあんたたちがいけな
いんだからね?」
ずっしいいぃぃん! 今度は思いっきり、別のカニをふんずける。さっきのカニからの距離は700メート
ル。だが、お燐にしてみればそれは足を開けば容易に踏みつぶせる位置にあるのだ。踏み潰した巨
大兵器を、足の下でぐりぐりと踏みにじるお燐。
「そんなに弱いと、あなたたちが護ろうとした物も何一つ守れないよ?」
ずっしいいぃぃん、ずっしいぃぃぃん! 兵器たちの砲撃が続く中、それを全く物ともせずにお燐は街
の中を歩いて見せる。
「あ~、あれはもしかしてこっちに来ますか?」
咲夜は先程まですごく遠くにいるように思えたお燐がたった2歩でものすごく近くに来たことに気がつ
いた。見上げても、もう視界には彼女の巨大な足しか映らない。美しい曲線を描くふくらはぎに、ほど
良く締まった太腿、そして黒色の下着。それが空の全てだった。だが、咲夜は視界がお燐の靴底に
覆い尽くされるまで決して逃げようとはしなかった。
「幻世『ザ・ワールド』。時は止まる」
なぜならば、彼女にはこの能力があるから。紫が自らの式神を紅魔館に貸し出してでもこのメイドを
借りてきたのにはそんな理由があった。
「ふ~。止められるとは分かっていても物凄い迫力ね、本当に」
咲夜は視線を戻し、周囲の様子を観察した。超音速で踏み下ろされたお燐の巨大な足。それが生み
出す衝撃波の爆圧に耐え切れず、既に家々の屋根は押し潰され、電信柱は傾いている。
 逃げ惑う人々も同様に衝撃波の影響を受けていた。さすがに爆弾ではないので皮膚がはがれるよ
うな事態にはならない物の、鼓膜は既に無事ではないだろう。まぁどの道いまここにいるのだから間
に合うはずもない。そんな人々の中をのんびりと歩く咲夜。靴の下を抜けるだけでかなりの時間がか
かる。にも関わらず、人はこの靴の下から逃げようと必死になるのだ。
 1分ほど、咲夜はお燐の靴の下を歩き続けようやくその踵の部分にたどり着いた。そこから見上げ
るお燐の脚は、塔なんてものではなかった。そもそもが、柱状にすら見えないのだ。それがあまりに
も大きい故に、この近さからでは。もう少し離れてやっと、咲夜は今見ている部分がお燐のふくらはぎ
なのだと確かめることが出来た。
「さて、ここまで離れれば時を動かしても問題ないわよね?」
離れていた咲夜の歯車と、世界の歯車が再び噛み合い凍りついた時が動き出す。お燐の足が、さっ
きまで見てきた景色を粉々に踏み砕いた。衝撃は周囲に伝播し、頑丈そうに見えた住宅がそれに負
け壁だった部分は幾つにもひび割れて吹き飛び、残された鉄骨は爆風に折れ曲がった。
「きゃ、きゃあぁぁぁっ!」
咲夜の読みは若干甘かった。そもそも、口にしたセリフその物がフラグだった。咲夜は吹き荒れる暴
風に吹き飛ばされ、宙を舞う事となった。なんとか体をひねって体勢を整え着地すると、今度は衝撃
よって吹き飛ばされた瓦礫が重力に引かれ、放物線を描いてばらばらと落下してくる。いつもやって
いる『弾幕ごっこ』におけるスペルカードには必ず避ける方法がある。が、この瓦礫の弾幕は避けら
れるように設計されてはいない。運が悪ければ積んでしまう。
 ボムorノ―ボム。咲夜は瓦礫の軌道を見据えてどう動くべきか判断した。かなりの気合避けになり
そうだが……さっきも時を止めたばかりだしここはボムなしで抜ける……。
「やめた方がいいですよ。あの子は次に踏み出した足を元に戻す」
不意に後ろから声をかけられ、飛び立とうとしていた咲夜はびくっと肩をすくめた。
「想起『マスタースパーク』っ」
少女の声と共に、空中の瓦礫が眩いばかりの閃光に焼き払われて消滅する。今の技は、見覚えが
ある。たしかあの白黒の……。そんなことを考えているうちに、今しがた踏み出されたお燐の足が咲
夜の頭上を物凄い速度で通過していった。もし瓦礫の雨を普通に避けていたらふくらはぎぶつかって
潰れたトマトのようになっていたかもしれない。
 咲夜が振り返ると、そこには彼女のイメージした人物とは違う妖怪がいた。
「こんにちは、十六夜咲夜さん」
地霊殿にお燐の居場所を聞きに行った時に応対した少女だ。淡い紫色の髪に、ハートの飾りがつい
たヘアバンド。どことなく幼稚園児を彷彿とさせるような服装に、スリッパ。胸元には人の心を見透か
す第三の目。
「えっと……古明地さとりさん、でしたっけ?」
「はい。私が地霊殿の主、古明地さとりです。次回は私と妹があのサイズになるらしいのでよろしくお
願いしますね」
そう言ってさとりはふわりと空中に腰かけ「では私は安全なところから見物させていただきますね」と
言い残してどこかに消えてしまった。
「あれ~っ? 何、逃げるってわけ?」
と、休む間もなくお燐の声が周囲の大気を震撼させて轟く。振り向けば、素履きの靴をつま先に引っ
掛けて飛ばそうとしているお燐の姿。そしてその狙う先には、牽制程度に砲撃を行いつつ全速力で
逃走する巨大兵器があった。
「戦略的撤退ってやつかい? けどね……アタイから逃げようだなんて思わない方がいいよ」
お燐がくいと足を後ろにやって勢いをつけ、そして超音速でその靴が放たれた。時速900kmで飛ぶピ
ストルの弾丸でさえその運動エネルギーは恐ろしいというのに、この大質量の靴が超音速である。音
がエネルギーを運びきれなくなったことにより衝撃波が発生し、その軌道下にあった市街地を容赦な
く爆砕して巨大兵器を直撃した。いくらエネルギーに無駄があるとはいえ、その威力はお燐のキック
を受けたに相当するものであり兵器はばらばらに砕け散って宙を舞う事となった。靴は相手を粉砕し
てもなお街の上を滑り続け、帯状に破壊の範囲を引きずる。
 もう片方の靴も同じようにして飛ばし、裸足になる彼女。ゆっくりと足を地につけて、ぞくぞくっと体を
震わせる。
「はぁ、やっぱり気持ちいい……。靴の上からじゃちっとも感じられないけど、裸足なら潰れていく貴方
達の感触がしっかり感じられるよ……」
ずしん、ずしん。一歩踏み出すごとに、小さな小さな建物たちが足の下で潰れていく。そのこそばゆ
い感触と、人が英知を集めて作った物をたったの一歩で幾つも壊しているのだという実感が、彼女を
さらに興奮させた。
 逃げ遅れたのか放棄されたのか豆粒みたいに小さな戦車が、足の指の間に挟まった。ちょっと指
に力を入れてやると、それは簡単に潰れて爆発してしまった。
「きゃっ……くすぐったぁい」
お燐は小さく身悶えして、足の指をぱっと開いた。かつて戦車だったものが、炎に包まれて街中に落
下し路面に突き刺さる。
「あぁ、そうだ。あたしたち猫って言うのはさ、実は前足よりも後ろ足の方が器用な生き物だって知っ
てた?」
ほら。と言ってお燐は片足で立ち、頭を少し下げて自らの猫耳を足の指でつまんだ。器用であること
は間違いないが、それ以前に体が柔らかさに驚きを覚える。もっとも、これが出来ないと猫は自分の
体を掻くことが出来ないのだから当たり前だろうが。
 しかしその様子は壮観だった。地上から天に向かって伸びる白い柱。理想的な美曲線を描く女性ら
しく長い脚。それを上へと辿って行けば、黒い下着に覆われた股間があり、それを継ぎ目にしてさら
に上へと反対側の足が伸びている。もはや軌道エレベーター。
 よっこいしょ、とお燐は足を降ろす。なぜかどや顔で。
「どう? 猫ってすごいでしょ?」
そう言って足を踏み出すお燐。人間状態の時に足と手のどちらが器用なのかは分からないが。
「たとえばこんなこともできる」
親指と人差し指の間をぐっと開いて踏み下ろせば、丁度そこには一軒の家が収まった。そしてそれを
崩さないように慎重に持ち上げる。家と言うのは普通横向きの力には対応していないが故に普通に
力を込めたら持ち上げる前に崩れてしまうのだが、彼女はその足の絶妙なパワーコントロールによっ
てそれを可能にしていた。
「中にはまだ誰か……いるみたいだね。悲鳴が聞こえるよ」
お燐は足の指の間に囚われた小さな箱にちょっと力を込めた。すると、ほんの少し力を加えただけに
もかかわらずそれは簡単に爆ぜ、お燐には認識できない小さな瓦礫となってばらばらと地上に降り
注いた。
「それにしても。気配が少ない」
猫の耳をピンと立てて、首を傾げるお燐。彼女の優れた聴力ならば小人の足音までも逃さず聞き取
ることが出来るのだが、今はその数が明らかに少ないのである。
「う~ん、どこかに避難しているね? まぁあれだけ兵器がすぐ出てくるような国って事は敵の目に触
れないような緊急時避難先はあるか……」
お燐はさらに気を研ぎ澄ます。一番良く聞こえる音は、自分の心音と呼吸音。それに次いで地上の
人間達。その足音の中に、さらに霞んでよく聞こえない物があることに彼女は気がついた。
「なるほど、地下か」
耳をすまして探れば、彼女の両耳はその位置を特定することが出来た。
「そこだね?」
お燐は足の指をぐいと曲げ、そして音のするところに突っ込んだ。するとそこの地面はほとんど手応
え無く、お燐の指を通してしまった。そう、貫通したという事はやはりその下に空洞があったのであ
る。
「ビンゴーっ! み~っけた!」
そのまま足を引き、べりべりとシェルターを剥がすお燐。住宅街の下に露わになったのは、大勢の
人々がひしめく巨大な防空壕だった。
「何人ぐらいいるかな~。ざっと5000人はいるかな?」
お燐はその上に足をかざして恐怖をあおる。片足。たった片足だ。それが踏み下ろされるだけでその
下で5000の命が散り果てる。そう考えると自分の力の強大さにぞくぞくとする。
「ふふ……アタイが怖い? 憎い? けれどね、感謝して。貴方達はこれで『遺族にならなくてもいい
権利』を得たんだから」
ゆっくり、ゆっくりと足を降ろしていくお燐。天井を覆っていたシェルターのかわりに、少女の足が視界
を覆い尽くす。
「あ~、この圧迫感はすごいね。密閉空間ってだけあって」
その人ごみの中にいた、比那名居天子が呟いた。ここに来た時、人々は完全に安心しきっていた。こ
こならば見つからないし、爆弾を一切通さないこの最新のシェルターなら踏まれてもきっと大丈夫に
違いない、とばかりに。だがこうして破られてみれば、安心と信頼の城塞は阿鼻叫喚の地獄となる。
なにせ逃げ場がないのだから。ないわけではないがこれだけの人間が一斉に出口に殺到しては逃
げられるものも逃げられない。
「そうやって、自分が真っ先に助かろうとする。故に誰も助からずに終わる。どこの世界でも人間って
のはそんなもんかしらね」
天子が呟くのと同時に、このシェルターにひしめいていた人々は皆お燐の足に押しつぶされて文字
通り弾けた。あまり些細に描写するとあれだが……人間と言うのは内臓が多い。
「ふ~、危ない危ない」
天子はその寸前でお燐の土ふまずに逃れ、血とアレを頭から被ることだけは避けられた。こうも密集
しているところで踏まれるとなるといつもとは事情が違う。やはり彼女も女の子。そういうのは御免
だ。
「よっ……と」
そのまま飛翔してお燐の足の甲に回り込む。次に彼女が何をするかなど、考えるまでもない。
「ふふ……良い悲鳴だったよ。ごちそうさま。ちゃんと順番を整理してれば結構な数助かったと思うん
だけどね。まぁ、どうせ後で全てなかったことになるんだけど。それじゃぁ本当に戦争で壕を割られた
時誰も助からないよ」
そう言ってぐりぐりと足を動かすお燐。さっきまで天子が立っていた場所も、その他踏まれなかった場
所も全て均一に踏みつぶされ、すり潰される。
「まぁ言ってることは間違いじゃないけど。当人たちが死んでるし記憶にも残らないから忠言にはなっ
てないわね」
トン、と天子がその淵に着地してお燐を見上げた。
「うん、アタイは天人でも何でもないから」
お燐が砂粒みたいな天子を見降ろして言う。いや、音で分かるだけで見えてないのかもしれない。何
せ猫は視力がよくない。狙った獲物との距離を計る能力は高いが、物の境界は若干ぼやけて見える
のだとか。
「あ、聞こえてた」
「聞こえるよ、猫だし。それじゃ、まだ壕がいくつかあるみたいだから私はそっちも踏みに行くね」
お燐は壕から足を引き抜いて彼女が音を感知した場所へと歩いていく。彼女が足を引き抜いたその
後を天子は見降ろした。もはやグロでも何でもない。ただただ、血肉の赤と脂肪の黄色が一面に広
がっているだけ。詰まるところがひき肉のカーペット。これを下から炙ったら、人肉ハンバーグの出来
上がりである。幻想郷の妖怪たち全員に配給できそうなほど大量の。
「う~ん、このひき肉の平原が全員泣いたり笑ったりしてた人間だってことを考えると何ともねぇ」



「今度も当たりだね。みんなこんにちは。此処の人たちはちゃんと順番をまもって効率よくアタイから
逃げられるのでしょうか~?」
ばりばり。お燐が地下15メートルに埋められたシェルターの天井を剥がす。するとそこには、さっきよ
り遥かに沢山の人がひしめいていた。
「酷な話だな~、もう既に避難してここにたどり着いたって言うのにこれ以上どこに避難しろっていう
んだよ~」
前回は欠番となっていた河童の少女、河城にとりが呟いた。今回は最初から光学迷彩スーツに身を
包んでいるため、姿は見えないが。
「あ、河童さんの声がする」
「ひゅぃ!? バレタぁっ!?」
「そりゃ、猫だし。あの時は強い死体のお姉さんの武装を介しての会話だったけど、ちゃんと声は覚え
てるよ」
お燐はそう言って、足の親指で声がするところを突っついた。1本で民家一つを押し潰すことが出来る
指につつかれ、光学迷彩スーツが一撃でお釈迦となる。
「いってて……うわぁ、またスーツ壊れたぁ。これ直すの大変なんだぞーぅ」
そんなにとりを尻目に、お燐はシェルターの中に足を踏み下ろす。柔らかく、暖かい人々の感触。今
からこれを踏み潰すのか。お燐の中に迷いに似た何かが生じる。彼らは今生きている。足を踏み下
ろせば、それだけで死ぬ。そう考えると、踏みたくないとも思えたし、踏み潰してやりたい衝動にもか
られる。そう、彼らの生殺与奪の一切を握っているのだ。この葛藤の中で、それを強く、より強く感じる
ことが出来る。自分の力の大きさを、それを振るう事自体に迷いを感じるほどの力なのだと実感でき
る。あぁ、ぞくぞくする。
 そして葛藤の末に導き出される結論は毎度同じ。
「まぁ、紫が全部なかったことにしてくれるんだからいいよね」
無かったことになるなら一万の群衆もその足の下に踏み潰すことが出来るのか? そんな疑問も無
いではなかった。けれど、これはつまり夢なのである。物凄くリアルな夢と言い換えられるのだ。誰に
も被害は出ない。ならば、暴れないという選択肢はないのだ。
「それじゃ、みんな。さようなら」
体重を移動し、そして足の下で感じる無数の死。狂気だろうか、笑いが込み上げてくるのは。いや、こ
んなに強い力を得ては誰だってそうなるだろう。力を振るう事は楽しい。その力が圧倒的であればあ
る程。
「ふふ……あははっ……皆、良い声で鳴いてくれるじゃない!」
はたしてこれは本性なんだろうか。少し認めたくないような気がする。けれど、そう。拒んだって仕方
がない。
「どうせなら、どうせ消えてなくなる夢ならば。もっと、もっと派手に……」




 気がつけば、お燐は漆黒の宇宙空間にいた。目の前には、見なれない球体。けれどお燐は、それ
が自分がさっきまでいた星であるという事が直感的に分かった。
 紫は自分を試している。そう感じた。ならばやらねば、妖怪が廃るというものだろう。
「綺麗な星だね……。こうしてあげるよ」
お燐は無重力の空間で体をぐるんと回し、足と足の間に星が来るように体勢を立て直した。そして、
股を開いて足の裏同士を合わせる。もちろん、その間にはあの星が挟まって。
「貴方達の最期は、女の子の足の間さ」
地殻が形を歪める。もう既に、崩壊は始まっていた。蒼く美しいその星は表面に幾筋もの赤い光が走
り、マスクメロンのようになっている。その光の一筋が、幅数キロに渡る巨大な地割れなのだが。その
星の様子からして、掛る力は段々と大きくなっていっているらしいことがよくわかる。海が、お燐に向
かって流れて行く。星より巨大なのだから、その星の重力よりも強い重力を持っているのだ。しかし岩
石の方は、お燐の足に圧迫されているためそう簡単に砕け散ることは無い。
「ふふ……アタイの足はどう? もしかするとおっぱいの方が良かったかな~? どっちも自信ある
よ」
けれど、足の方がいいかな。お燐は足の間で星を転がすように弄び、そしてどんどん力を強くしてい
く。温かい溶岩が、そして硬い鉄の核が感じられた。それすらも難なくすり潰し、お燐は足を開く。そ
の動きについてこれなかった溶岩やかつて海だったものが彼女の足を離れ、虚空に浮いた。
「紫……アタイを舐めないで。これでも妖怪なんだから」
お燐はその欠片を手に掬ってギュッと握り締め、彼女の名を呼んだ。
「ふふ……最近の妖怪は不甲斐ないわねぇ。実質何の被害も出さない破壊に葛藤を覚えるなんて。
まぁ、幻想郷の内側にいる以上貴方達が恐れられなくなっても消滅することは無いでしょう」
紫の声は意外にも、お燐の背後からした。さっきまで誰もいなかったのに。振り向けば、そこにはお燐
の10倍ほどの大きさの彼女がいた。
「その葛藤も楽しみの内なのよ。判断に迷う時こそ、生きていて面白いと思う時」
お燐は紫にそう返し、彼女の開いたスキマの中にしなやかな身のこなしで飛び込んだ。
「そうね。生きることとは迷う事。この私ですら、迷う事があるものね。けれどそれは楽しく、時に辛い
物。今度のゲストは、そういう意味では他の人よりもよく”生きている”2人かもしれない」
紫は扇を一打ちし、全てを元に戻して何やら考えにふける。
「はたしてあの二人、一緒に現代入りさせて大丈夫かしら」