東方を知らない人のためのアレ的なアレ
八雲藍→ http://dic.pixiv.net/a/八雲藍


 デスマーチ。プログラマ業界ではそんな言葉があるそうだ。納期が近くなった製品が未完成なところに、
さらに次の納期が迫っているような状況。どうにか納期までに必死こいてプログラムを組み上げても、直
ぐ目の前には次のプロジェクト。片付けど片付けどなお我が仕事楽にならず。終わりの見えない超過労
状態、あるいは人員不足で最初から計画が破綻しているプロジェクトを、2拍子・数パターンで刻まれる
行進曲になぞらえてこう呼ぶのだ。

 八雲藍は疲弊しきっていた。別に終わりの見えない仕事、と言うほどではない。一昨昨日一昨日、昨日
今日と三徹すれば余裕で片付く量の仕事だった。しかし、人間をはじめ生物に三徹以上を要求するのは
半ば死刑宣告に等しい。プログラムの仕事ではないし納期が重なる事こそ無かったが、仕事の質に関し
て言うのであれば人員不足、オーバーワークと、間違いなくデスマーチの条件に当てはまるだろう。短い
が、とても高度なコンサートマーチだ。

「はぁ~、あともうちょっと……」

無機質なPCの画面に向かって独り言。いったい幾度この言葉を呟いただろうか。作業着手3日目を過ぎ
たあたりから、もう3/4終わったんだから後ちょっと頑張れ、と自分を勇気付けてきた。もうちょっと、と言い
続けてそろそろ18時間が経過する。けれど今回のもうちょっとは本当にもうちょっとだった。あと10分持ち
こたえればいいくらい、マーチにたとえるならもうBメロも終わっていよいよ曲を締めくくる最後の1小節。

「おい、しっかりしろ私。なんか幻覚が見えてきたぞ……」

藍は頭をふるふると振って意識をはっきりさせる。帽子をかぶっていないため、彼女の狐耳が慣性を伴っ
てパタパタとはためくのが見て取れた。相当キてしまっているのだろう、耳にすら力が入っていない。

 ここにきて、キーボードの上に変なものが見え始めた。カビだ。キーボードがカビている。キーボードが
かびる筈など無い、よってこれは幻覚だろう。どうせブラインドタッチだ、別に作業に支障は無い。無視し
て作業を続ける。あと7分もしないうちに自由になれるのだと思うと待ち遠しくて仕方がない。



 藍がカビと思ったもの。その実は彼女の主であるスキマ妖怪、八雲紫が縮小転送した外の世界の都市
であった。東京、上海、ニューヨーク。名だたる都市がキーの大きさにあわせて召還されている。もちろん
この歴史は後で修正される事になるのだろうが、少なくとも今は幻想でも幻覚でもなく、人々の暮らす現
実の都市そのものであった。八雲紫自身外での激務を終えて帰還したところ故に、何かひとつやらかし
てやりたかったのである。

 藍の、白く細い指が持ち上がる。それも、恐ろしい速度でだ。けれど、街の上にいる人々はその動きを
認識する時間をたっぷりと与えられていた。小さくなればなるほど、体感時間は遅くなる。持ち上がる藍
の指を(指と認識することが出来たかは謎だが)見上げ、恐怖する。そして、次の瞬間にはそれが落ちて
くる。Dキーの上にあった街は藍の美しくも圧倒的な重量を持った中指に"プチっ”とされてしまった。メテ
オなんてものじゃない。形のいい彼女の指が街に接触した瞬間、衝撃で高層建築はまず吹き飛ぶ。そし
て残る低層住宅も、藍の指がキーを押すために力を加えると急激なマイナスGによって跡形も無く離散す
るのだ。Dの上にいた人々はまだよかった。苦しむ瞬間すら与えられなかったから。酷かったのはその近
隣だ。JISキーボードにおける配置で隣。SとFの上にあった街はDキーが叩かれたことによって発生した
地震によって壊滅的な被害を受けていた。あくまで壊滅的というだけであって、生存者が殆どだ。そして、
負傷者がその大半を占める。殺すならいっそ殺してくれ、そんな状態の人々が数多、キーボードの上の
街に転がる事となった。彼らの感覚で5km以上沈み込んだDキーが持ち上がると、その衝撃で瓦礫が
舞い上がり砲弾のように降り注ぎ、街はいよいよ阿鼻叫喚の地獄に様変わりする。

 さて、そんな大破壊が自分の指の下で起きているなどと思いもしない八雲藍はほんの1秒足らずで10以
上に渡るキーをタイピングする。見事なお手並み。彼女のすらりとした手の形と相まって、それはキー
ボードの上で披露される華麗なダンスのようであった。都市一つ一つを押しつぶしての壮烈なダンス。
 爪は、キーボードの上に乗せられた地盤をいとも簡単に引き裂く。ピンク色の、美しく艶やかな彼女の
爪は山脈すら裁断してしまえる超巨大な刃。ビルなど爪の厚みにも及ばない事を考えると、人間からは
巨大なプレス機とも受け取れるが。爪が滑り、その上の都市ごと地殻を剥ぐといよいよ次は彼女の指が
降臨する。どんな巨大な都市ですら、彼女が潰すには指先だけで十分なのであった。

 だがもちろん例外はある。スペースキー、エンターキーだ。スペースキーは親指の腹側で押される。人
によっては両手の親指を使うのかもしれないが、藍はスペースキーは決まって左手の親指でタイプする
のだった。故に右半分は安全地帯……もちろん衝撃により半壊状態なのだが。そして次、エンターキー。
スペースと同様に頻繁で押されるキーでありながら、その莫大な面積を持ってして都市はなんとか生き
残っていいると考えられる。だが、こちらに関しては少々事情が違う。九尾の狐である八雲藍には、人間
にはないものが9本もついているのだ。それを活用しない手はない。エンターキーは彼女のふさふさとし
た尻尾によって司られていた。故に、指先だけでは潰されなくても尻尾の毛が被害を拡大させるのだ。等
身大ならば、ほぼ全ての人間がモフモフしたくなるほどの魅惑の尻尾が、今は都市を掃いて捨てる凶悪
大量破壊兵器に成り代わってしまっている。なにせその毛の太さ、細いものでも実に直径10メートル。縄
文杉とかでもかなわない。こんなものにモフモフされたら、いかに獣娘大好きっ子でも1秒ともたない。故
にエンターキーの街の状況は芳しくはなかった。



 さて、転送された街はじつはキーボードの上だけに存在するわけではなかった。八雲紫に抜かりは無
い。主に需要的な意味で。藍が何の気なしに脱ぎ捨てていたスリッパの中にも都市を仕込んであったの
だ。6月とはいえ梅雨寒で夜は冷える。特に素足で仕事をしていた藍は足先に寒さを感じてスリッパの中
に足を突っ込んだ。こちらはさすがにスリッパの面積を覆えるほど巨大な都市が地球上に無かったことを
考えて、縮小倍率が5000分の1くらいに設定されている。とはいえ、それでも5000分の1だ。そこにぶち
込まれた人々は、なんだか薄暗く、ほのかに獣臭い半ドーム上の空間にいる程度の認識しか出来なかっ
たことだろう。そこに藍の足が入り込んできても、それが足だと理解できるものは殆どいないことだろう。

 次第に暗くなっていく世界の中、人々は逃げ場を求め雪崩れ込むようにしてスリッパの奥へと逃げて行
く。けれどスリッパの奥へと逃げたところで何になるというのだろうか。どこまで行ってもそこは藍のスリッ
パの中なのだ。彼女の足に履かれてしまうほどの、持ち上げてしまえるほどの小さな空間。けれど、人々
は小さすぎた。藍のスリッパはどこまでも果てしないような気がしていた。あの足から逃げれば逃げられ
るような気がしていた。先にあるのが行き止まりだと言う事実を無意識レベルで否定したかったのかもし
れない。どのみち彼らに現実離れした現実から逃避できる逃げ場など無かった。藍の、細長いが所々す
こしばかりまるっこい、どことなく獣らしい足が街を轢き潰しながら進行してくる。奥の奥まで。指の間に挟
まった街でさえ、藍の足が身もだえすると簡単に崩れ去ってしまった。

 じゃりっ……。

「あれ? 今なんか……気のせいかな」

人口1000万人を誇る都市を履き潰した藍の感想は淡白なものであった。気づいていないと言うのもある
し、彼女が大きすぎることもあった。だが、それを知ってこの事態を諦観していたものは皆震え上がること
だろう。この巨大な狐娘はまるで意図せずして1000万人を踏み潰せるのだという事実に。

「まぁいいや、いよいよオシマイだ!」

いろいろオシマイだった。長丁場に終止符が打たれる。高々と掲げた尻尾でエンターキーを、ッターン! 
と弾き、そしてデータを保存する。

「おおぉぉわあああぁぁったああああああああ!!!」

藍はその勢いの惰性でPCを終了させる。もちろんこのとき使用したショートカットキーによってまた一つ
都市が潰れた事は言うまでも無いが。さて、キーボードというのは意外と使わないキーも多いものであ
る。それは普段キーボードに触れる機会が多い諸兄も良くご存知と思う。特に藍は数字入力にはテン
キーを使わない派だった。デリートキー周辺もあまり触らない。よって、キーボードの上には生き残りの都
市がいくつもあった。その都市の人々は今頃、狐耳を生やした巨大美女を見上げ、ひとまずは胸を撫で
下ろしているに違いない。だが、この業界に通じた諸兄であれば、こんな事をしてはいけないのは周知の
事実であろう。いわゆる死亡フラグだ。

「これ……で……やすめ……」

仕事を追えた瞬間、無敵の巨大娘を襲ったもの。強烈な睡魔だった。三日と半日分の睡眠を取り戻そう
と、藍を内側から攻め立てあっという間に陥落させてしまったのだ。仕事は終わった。抵抗する必要など
無い。藍は達成感の中、心地よい誘惑に身を委ねる。

 いい知らせがある。今このキーボード世界に倒れこもうとする幼狐は大変な美女であった。次に、バット
ニュースだ。彼女は巨乳だった。それも、超がつくほど。体の幅だけならば被害は抑えられたかもしれな
い。けれど、彼女の巨大な乳はキーボードにぶつかると重みを受けてむにーっと広がる。結果、ごく一部
を残してキーボードの上の縮小世界は壊滅状態に陥った。僅かに残ったキーの上の街も、藍がもぞもぞ
と身もだえするとはみ出した乳に容赦なく磨り潰され、結果的にキーボードの上は一掃さてることとなっ
た。

「あらあら、終わったら種明かししてあげようと思ったのに……寝ちゃったのね」

その様子を影から見ていた紫は、液晶を押し倒してぐったりと眠る藍に毛布とねぎらいの言葉をかけてそ
の場を去った。

「藍、お疲れ様」