年の瀬。この一年を締めくくる大切な時期。人も神も妖怪も皆大掃除に仕事の決算、次の一年を迎えるためにてんてこ舞いの大忙しに見舞われる師走の末のことである。
 妖怪の山、守矢神社の石段を早足に登る靴音があった。磨かれた石段を叩く、可愛らしい編み上げブーツ。空色の髪を風になびかせ、頬を寒さに紅潮させて、一人の少女が楽しげに階段を駆け上る。
「早苗! 今日も神社を乗っ取りに着たわよ!!」
 数百段にも渡る石段を駆け上り、鳥居を潜るなりその少女は息も尽かさず元気に叫んだ。まるで友達の家に遊びに来た子供のよう……いや、それそのもの。
 少女の名、比那名居天子。常に暇を持て余している天人で、暇が故にかつて博麗神社の乗っ取りを画策して事件を起こした人騒がせ者でもある。
 近頃はそっちの神社はすっぱり諦めたらしく、その代わりなのか守矢神社に毎日入り浸っている次第。なんでも、こうして毎日入り浸る事で穏便に、しかし少しずつ着実に神社に根を張ることにしたのだとか。
「……れ? 早苗~?」
 が、どうやら彼女の企みは、少なくとも今日のところは失敗したらしい。いつもであれば、この神社の巫女、東風谷早苗が社務所から出てきて相手をしてくれるのだが、待てども待てどもそれらしき人影は現れない。
「いないのかしら……?」
 このまま出迎えを待っていても仕方がないので、石畳の参道を歩き出す天子。そういえばなんだか、神社の様子もいつもとは違って見える。手水舎の柄杓は綺麗に整えられているし、落ち葉ひとつ落ちていない。
 社務所の前に来るまでに、一抹の違和感を覚えた彼女であったが、とりあえず誰かいないのか社務所の戸を叩いてみる事にした。
「誰かいるかしら? 誰でもいいから私に構いなさい!」
 どんどん! ノックも元気よく、遠慮なく、自信満々に。
 すると社務所の奥から駆けて来る足音。でもこれは早苗のものではない。
「あら、天子ちゃん。早苗なら今出かけてるよ?」
 戸を開けて現れたのは金髪の少女であった。この神社の神、洩矢諏訪子だ。
 彼女の答えに、天子は首を傾げる。
「出かけるって、どこに?」
「天人には関係のない話かもしれないけどさ。今は大掃除の時期なんだよ。神社の掃除が終わったからって、スキマ妖怪に頼んで外の世界にある分社のほうを掃除しに行ったのさ」
 あぁ! と天子は手を打った。ここに来るまでに感じた違和感の正体、それが大掃除だったのだ。確かに天子には関係のない話で、そんなものは全て侍女たちに任せてしまっているためすっかり失念していた。怠け者は節句も暮れも働かない。
「外かぁ、それじゃぁさすがに仕方がないわね」
「ごめんよ。まぁお茶ぐらいは出すからゆっくりして行きねぃ」




 とても、掃除と呼べるほどの事はできなかった。人の手が一年間入らなかった社というのはここまで荒れ果てるものなのかと、毎年毎年ここに来るたびにあきれ返る。
 雨に朽ち、苔が生し、ツタが絡んで周りの木々と同化している祠。その戸を開けてみれば、御神体の鏡も同じように錆び、その輝きを失いつつあった。
 それはまるで、今の世界から失われつつある信仰をそのまま示しているようで、東風谷早苗の心をざっくりと抉る。
 それでも彼女は、まだこの神社にも役割があるはず、信仰は完全に失われてはいないはずと、希望を込めてその鏡を拭くのだった。
 重く小さく消え入りそうな溜息が、白い霧を結んで森の空気に溶けていく。
 心が、重く暗い黒に塗りつぶされていくのを、早苗は感じていた。この社の荒廃は、まるで自分自身の存在が否定されているかのように感じるのだ。
 誰も神を信じない。
 誰も私を見てくれない。
 この世界に、東風谷早苗の居場所はないのだと。
 拭けども拭けども錆びは落ちず、朽ちた祠は戻らない。仕方なく金槌と釘で板をあてがえば、腐食した木は釘をずぶりと飲み込み、余った勢いは殺しきれずに指を打った。
「いっ……!!」
 痛みに思わず金槌を取り落とし指を咥える。まさに泣き面に蜂、不恰好に修理された祠もあって余計に惨めに感じる。
「はぁ、せめて誰かが参拝してくれれば……」
 と、幾度目か分からない溜息をついたその時であった。
 木々のざわめきに混じって、車のエンジン音が聞こえてくる。この社の、落ち葉に埋もれた石段を降りた先。めったに車の通らない細い林道だ。
 もしかして……いや、そんなまさか。この神社の存在なんてそもそも気づかれないに違いない。ただ通り過ぎるだけに決まっている。
 淡い期待が胸の中で膨らみ、けれど現実を振り返って早苗はそう考えた。
 次第に近くなる音。その音は早苗の予想に反して神社の付近で減速し……そして止まった。反して、早苗の胸の鼓動は早く強くなる。
 ドアが開き、そして閉まる音。この空間にあって、それは異様に大きく聞こえた。
 けれども、どうにもそこからこちらに向かってくるような気配がない。いや、それだけではない。なにやら様子が変なのだ。なにやら重たいもの、それも硬いものを地面に投げ出す大きな音が聞こえてくる。
「これってもしかして……」
 期待に膨らんでいた胸を、ナイフで突かれたようであった。
 間違いない。不法投棄だ。弾けた期待の破片が、たちどころに怒りに変わる。
「ちょっと!! 何やってるんですか!!」
 半ば滑るように社の石段を駆け下りる。
「っ!?」
 石段を駆け下りた先にあった人影はびくりと肩をすくめ、早苗を振り返った。見た目は30前後くらいの男性だ。その手には、今まさに投げ捨てようとした古い電子レンジが抱えられている。
 ほかにも、ラジカセや旧型のブラウン管テレビなどが、既に車から下ろされて神社の石段の前に乱暴に捨てられている。
「ここにゴミを捨てないでください!!」
 早苗は精一杯、泣きたい心を必死で抑えて叫んだ。言葉は怒りに、そして悲しみに震え、お世辞にも迫があるとはいえない、懇願に近いものであった。
 それでも、人間には良心というものがある。指摘すれば分かってくれるものと、早苗はそう思っていた。
 だが現実はそう甘くはなかった。男は相手が自分よりもずっと弱そうな少女と見ると安心したかのように。
「あァ? いいじゃねぇか。誰もこねーんだからよォ」
自分の正当性を主張し始めたのである。
「私の迷惑です!! ここは守矢神社の分社なんですよ!!」
「知らねー」
「じゃあ諏訪大社は!」
「っせーなァ。今忙しいンだよ」
 言うと、彼は早苗が見ているその目の前で車から次々にゴミを持ち出しては、こともあろうか彼女の眼前に投げ出していくのだ。
「場所が開いてんだ、ゴミくらいいいだろ」
「それは参拝者の方が通るための……」
「どうせ居ないんだろ? 何教だかなんだか知らねェど」
 ぎりり、必死で涙と怒りを噛み殺す。その小さな拳は震え、爪が食い込むほどに硬く握り締められていて。けれど反論の言葉は出てこない。本当のことなのだから。
 出来る事ならば、この拳を今すぐにあの憎き男の顔面に叩きつけてやりたい。けれども、もはや人間離れした能力を持つ早苗がそんな事をすれば……それも怒りに任せてとあらば。その拳は豆腐を殴りつけるよりも簡単に男の頭を吹き飛ばしてしまうだろう。間違いなく命はない。
 だからといって、この男の暴挙を許すつもりは微塵もない。
「け……警察に通報しますよ!」
 そう、今ここは外の世界。幻想郷とは違い、法の支配する法治国家なのだ。何も早苗自身が手を汚す必要はまったくない。
「あのさァ。お前それ、本気で言ってる?」
 ここで男は初めて、早苗の言葉に反応らしい反応を返した。
「大人なめてっと痛ぇ目見るぞ、クソガキ」
 脅しのつもりなのだろう。男は早苗に一歩踏み寄って半身になる。いつでも踏み込め、突きや蹴りを繰り出せる体勢だ。
「嫌です! 私は私が護るものが汚されるのを黙ってみている事なんて出来ません」
 それでも早苗が引かないと見ると、男が動いた。
 バタタタッ!! 緩いズボンが風にはためくせわしない音。遅れて、鈍い衝撃が早苗の脇腹に入り込み、臓腑を駆け巡って暴れまわる。
 止まる呼吸。素人にしては鋭く重い回し蹴りが早苗を捕らえていた。
「――っ!!」
 その衝撃に抗う事もせず、早苗は地面に転がる。石段に打ち付けた肘が酷く痛むが、そんなものは胸を埋め尽くす感情に比べれば些細なもの。
「けっ、何だよ。大人相手に生意気言うくせに手ごたえねェな!! このクソガキ!!」
 まるでボールか何かを蹴るように、一切の容赦がないトーキックが鳩尾を捉える。ばすっ。鈍い音と共に早苗の華奢な体が僅かに浮いて、また力なく地面に転がった。
 防御の姿勢も、結界も、一切張らずに早苗はただただそれを受け入れる。
「ここで見た事を忘れたくなるようにしてやんよ!! あー、逆に忘れられなくなるかもしんねェな!!」
 男の下卑た笑い声と共に降り注ぐ硬い靴底。幾度も幾度も、仰向けで、無抵抗に転がる早苗の腹に。その度に衝撃に跳ね上がる四肢。破壊された臓腑から遡る血の味を噛み、それでも早苗は声のひとつもあげずにただじっと耐える。
「やけに大人しいなァ。怖くて動けなくなっちまったのか? へへっ、丁度いいぜ。生意気だがツラは悪くねぇ。使ってやんよ!」
 男は早苗の翡翠の髪をわし掴みにして引っ張り、乱暴に早苗の顔を覗き込んだ。と、そこで彼は全身を駆け巡る悪寒に似た違和感を覚える。
「てめェ……なんで笑ってやがる」
 僅かに弧を描き歪んだ唇。紅の鮮血をツゥと垂れ流すその唇の端は僅かではあるが確かに釣りあがっていて。その目は笑っているようで……決して笑っていなくて。
 人間の本能を逆撫でするような、とても美しくとても穏やかな笑み。瞳に光と呼べるものは微塵もなく、暖かさの欠片もない。心の底まで凍てついた暗黒が、開ききった瞳孔の中にあるだけ。
「罰が当たりますよ」
 早苗はただ一言。血の入り混じった言葉で静かにそう告げた。
「罰だァ? ンなもんねぇよ! テメェの信じる神なんてもんは、最初っからこの世界にはいねェンだよ!!」
 その不気味さに怯むまじと、唸りを上げて男の手が襲う。
 ばきっ!!
 静寂の林道に、乾いた音が響き渡る。
 当然、砕けたのは……男の手のほうであった。
「あ……? う、あぁ……なん……うああああああ!!」
 あまりに突然の出来事に、男は一瞬遅れて状況を知り、そして理解はさらにその数瞬後のこととなった。
 先ほどまでまるで動く事すらしなかった少女が男の手を掴んだのだ。
 そしてその手は、あり得ない所であり得ない方向に曲がっていた。つまり、そういうことだった。
 早苗は決して抵抗できなかったわけではない。避けようと思えばいつでも避けられた。
 抵抗をしたくなかったわけでもない。この男を昏倒させて警察に突き出せば平和にことが済むことだって分かっていた。
 それでも、怒りと悲しみの渦巻く心はそれをさせなかった。彼女は望んだのだ。相手を裁く権利を。
「ここまで堕ちましたか。"人間"は」
 がくりと膝をつき、信じられないものを見るような目で自分の手と早苗を交互に見る男。ゆらりと立ち上がった早苗は男を見下し冷たく言い放った。
「神などいない……? なら私が神になって、あなた達を裁きましょう」
 足が動かない。逃げようにも、体に力が入らない。その少女の背負う負の威圧は、男より小さいはずの少女の体を何倍にも大きく見せる。
 恐怖に止めつけられた四肢を、引きちぎるように無理やり動かして後ずさるも、まるで遠ざかれない。まるで氷の上に居るかのように進まないのだ。確かにその折れた手で必死に地面を掻いているはずなのに。
 どん。男の背中が、自身の投棄したテレビにぶつかる。自業自得の行き止まりだった。
 そしてあの少女は、さらに近づいているように思えた。わりに足をまったく動かしていないのが不気味さに拍車をかけ、既に判断力を失った脳に全力の危険信号を送る。
「あ……あ……」
 息を吐く事すら忘れ、言葉を紡ごうとするも声は形にならない。まるで死に掛けのゴキブリみたいに必死で手足を動かすも、男はそれ以上後ろに下がる事は出来なかった。
 そしていよいよ、少女が足を持ち上げる。正常な判断力を持ってすれば、その時点で違和感に気がついたであろう。だが幸か不幸か今の男にはもう既にそれはなく。
「さようなら、愚かな人間さん」
 満面の笑みと共に精一杯、高々と持ち上げられた足が男の体に落ちた。
 ごしゃっ……!! 水気の多いものが潰れ、何かが砕ける音がそれに続く。
 早苗の、足袋に覆われたその脚は男の上半身を完全に踏み潰していた。赤黒い何かが、その下からじわりと滲み出る。そのまま足を後ろに引けば、かつて男だったものはもう既になく、赤い線が幾筋も地面に走っているのみであった。
 それでも彼女は満足できなかったのか、何度も何度も足を持ち上げ、その線の上に力いっぱい踏み下ろす。太ももからつま先まで、その自重だけで数百キロに及ぶであろう美麗な脚を。その重みに、精一杯の怒りを乗せて。
 森の中に、どぉん、どどぉん、と木霊する地鳴り。
 早苗は大きくなっているように見えたわけではなかった。
 実際に大きくなっていたのだ。その身に秘めた奇跡の力に、たった一つの願いを込めて――この世界の全てを滅ぼす覚悟で。
 辛うじて舗装された林道のアスファルトを粉々に粉砕し、線も地面も区別がつかなくなるほどにまでめちゃくちゃに踏みにじると、ようやく彼女はそれをやめた。
 けれどそれで気が済んだわけではない。むしろその逆であった。
 石ころみたいな廃棄家電を蹴っ飛ばし、地響きを立てて彼女は歩き出す。滅びの具現となるべく、街を目指して。