ソメイヨシノは悲しんだ。まだ齢60という若さにしてこの世を去らねばならない理不尽を憂いて。本来300年を超えようかというソメイヨシノの寿命であるが、この人里においては天寿を全うすることなど到底かなわない。踏み固められて息の詰まるような土の中で、蝕む病毒にその身を侵され若くして命を落とす。なのに人間は花ばかり見て気づいてはくれない。ソメイヨシノの声なき声に。人間が人間の都合で人間のためだけに作った花だから。
 だれが生んでくれと頼んだ。誰が作ってくれと願った。私は私を生んだすべてを恨む。だからこれは、宣戦布告でも攻撃でもなく。人間たちへの逆襲だ。
 ――などとそれらしく語ってはみたものの、実際のところソメイヨシノにはどうすることも出来なかった。せめて最期は美しくと、ありったけの力を込めて咲かせた花ももうすぐ散る。
「ソメイヨシノ、貴女は良く頑張りました。最期に3つだけ貴女の願いをかなえましょう」
 ソメイヨシノの意識の中に、なにやら声が聞こえてきた。これがお迎えというやつなのだろうか。幻覚なのか現実なのか、そもそも植物に宿った意識たる彼女には分かりかねた。けれど、せっかくだから彼女はその声に答えてみることにした。
「そうですね。では……人間に、思い知らせてやりたいです。私の苦しみを。それができる力がほしい」
「そんなものでいいのですか……わかりました。願い事はあと二つありますから、考えておいてくださいね」


「あー、えっと……うわ、声が出た!!」
 ソメイヨシノは驚いた。驚いて自分の口元に手を当てて……そしてそこで初めて、自分が人間の姿をしていることに気がついた。あれほど憎らしく、しかし羨ましくもあった人間の姿に。
 けれど、見ている世界の高さは先ほどまでと何も変わらない。ソメイヨシノの60年間分の観察が正しければ、人間という生き物はもっとずっと小さいはずだ。
 あたりを見廻してみると、自分と同じ桜の木が、自分と同じ目線で淡い桜色の雲を連ねている。そんな桜の木々の中に一人、まるでスケールを間違えた模型の中に迷い込んだかのような自分が一人、ぺたんと座り込んでいる。
服装は和装。どことなく巫女装束のようであったが、それにしては袴ではなくスカートで、しかもその丈は驚くほど短く太ももを少し隠す程度。対して、足袋は驚くほど長く、膝の上まで伸びている。すこしばかり浮世離れした衣装ではあるが、しかし可愛らしく扇情的だ。
 薄紅色の足袋に覆われた足はソメイヨシノが一生を過ごした土を押しのけ掘り返し、周囲のすべてを上書きするように押し潰していた。それはもちろん、木の根元で花見をしていた人間たちも例外なく。
ソメイヨシノの膝元で悲鳴が上がる。目を落としてみれば、ソメイヨシノの足に半身を押しつぶされた人間を別の人間が必死で助け出そうとしている最中であった。ここにきて、彼らの慌てぶりを見て、ソメイヨシノはようやっと自分に与えられた力の大きさを知る。あれほど焦がれた、自由に動く体。しかもこんなに大きな。それさえあればなんだってできる。もう苦しい思いも我慢もしなくていいのだ。
試しに、その人間に手を伸ばしてそっと握ってみた。人間はじたばたと暴れ何やらギャーギャーと泣きわめいたが、どうやらソメイヨシノの手の力には敵わないようで簡単に捕まえて持ち上げることができた。一本一本が丸太に相当するような巨大な指に臓腑を締め付けられ、その人間はあっという間におとなしくなる。さらに力を加えると、一旦大人しくなった人間はまた狂ったように暴れだし……そして嫌な感触とともに潰れてしまった。
この力があれば。今まで散々な扱いをしてきた人間に目にもの見せてやれる。ソメイヨシノは不敵に笑い、地響きと土煙を伴って立ち上がった。


突然の巨大少女の出現に、花見の公園は当然騒ぎに見舞われた。だが、突然現れた巨大な少女が人間を肉塊に変えてしまうというあまりにも現実離れしたその絵面に、何が起きたのか目では見ても頭で理解できずに呆然と立ち尽くす人ん立ち尽くす人も少なからず。
最初、少女は長く艶やかな黒髪を風にたなびかせて呆然と座り込んでいた。まだ状況を飲み込めていなかった風で、整ったかわいらしい顔には当惑の色を浮かべるその姿はまさに美少女。誰しもが声をかけたくなるほど、見とれずにはいられないほどの。けれど彼女は人間を一人その手に取って、そして何のためらいもなく握りつぶしてしまった。少女のあどけない表情が、冷酷な微笑へと切り替わっていくその様は見るものを戦慄させ、強烈な嫌悪感と恐怖を与える。
そして少女は立ち上がった。立っていても感じる程の地震を引き起こし、砂嵐を巻いて。立ち上がった少女の足袋。その脛には、赤黒く所々黄色の脂肪が混ざり合った汚い塊がへばりついている。それが人間であったものだなどと信じられるものは皆無だった。ただ、正体が何であれその肉塊は本能的な恐怖と吐き気を催すほどの嫌悪感を呼び起こす。ここに来て、人間たちはまるで蜘蛛の子を散らすようにわらわらと逃げ始めた。
「ふふっ、逃がすと思いますか?」
少女がその足を持ち上げる。振り返ってはならないと知りながらも、人間たちは振り返ってしまった。まるで塔のような足が持ち上がり、そして上体の重心が移動する。まるで建物が倒壊し覆いかぶさってくるかのような威圧感。あり得ないほど巨大なものが傾く。その視覚情報は平衡感覚を狂わせ、人間たちは次々に地面に倒れ込んでしまった。そして折り重なるようにして倒れた人間たちの上に何の迷いもなく踏み下ろされる少女の足袋。太陽を背に空を切り取る眩しい影が近づく、まだ近づく。視界を覆ってもまだ。
あまりにも重い一歩に舞い散る、花吹雪。足の下で一度に8名もの人間を合い挽き肉にした少女はその感触にだろうか、冷たい笑みをわずかに緩めた。
「温かい……。人間さんたちの体はあったかいんですね。そんな温かい体を持っているのに、どうしてあなたたちは私たちにひどいことをするんですか? どうして理解してくれないんですか。私たちの苦しみを」
少女は笑みを浮かべながらも、その唇を噛んで少し悲しそうに言う。今踏み潰した人間をぐりぐりと踏みにじって悔しそうに。
「だから、知ってください。私の苦しみを!」
そんな必要もないのに高々と足を掲げ、そして彼女は桜の枝を縫って人間たちの上に……今度はそっと足を下した。しかしそれでも人間には十分すぎる重量。すでに腰も砕け這って逃げる人間を押さえつけることなど容易であった。
「踏圧って分かりますか? 分かりませんよね。人間の皆さんには植物なんて地面から上。普段木を踏みつけて生きているなんて思いもしないことでしょう」
段々と、足の下に敷かれた運のない人間たちに加える力を加えていく。けれどすぐには楽にしない。
「苦しいでしょう? 息ができないでしょう? 60年間ずっと、私は踏まれ続けてきましたよ」
足袋の親指と人差し指の間に、はみ出した人間の頭をぎゅっと締め付けて彼女は語り掛ける。
「逃げたくても逃げられませんでした。そう、死ぬまで」
もうよかろう、と思ったのだろうか。彼女は足の下に捕らわれた哀れな人間たちを楽にしてやった。鮮やかな動脈血が飛び散り、一瞬の花を咲かせる。
そして、次の標的へと踏み出す一歩。どれほど必死で這って逃げてもまるで離れた気がしない。10階建てのビルほどのある巨体はの影は変わらず人間たちを覆っている。這いつくばった地面からじかに伝わる殺戮の衝撃。逃げても、逃げきれない。ならばせめて、一矢報いてやろうと立ち向かう決意をした者が何人かいた。人間は群れで生きるように設計された生き物。個体が死んでも群れの生存を優先するように出来ているのだ。
「おや、殊勝ですね。けれど無駄ですよ?」
少女は足元へ向かってくる男を見下ろして哀れむような、蔑むような何とも微妙な表情を浮かべた。
「皆、ここは俺に任せて先に行け! 大丈夫、俺も必ずあとから行く!」
屈強な男が少女の足袋に組み付く。当然ながらびくともしない。けれどこれで少しでも皆が逃げる時間を稼げれば。自分の命は今ここで皆を、一人でも多く助けるためにあったのだと使命に燃えて。
「どこのだれかは知らないがあんた一人にやらせるかよ!」
その男の行動に勇気づけられてか、一人また一人と立ち向かう人間たちが増えていく。
「やめてくれ、こんなことに付き合う必要はない! 死ぬぞ!」
「ここで逃げたら俺は死ぬんだよ。人間として一番大事な部分が……魂が折れちまうんだよ」
必死で超質量の足と組み合いながらそんな三文芝居を繰り広げる彼らを、ソメイヨシノは冷ややかに見下ろして笑う。彼らの希望はつま先をくいと持ち上げただけで脆くも崩れ去った。80キロは有りそうな重量級のファイターがいともかんたんに宙に浮き、咲き誇る桜の黒々とした幹にぶつかって飛沫を散らす。
そしてそのまま持ち上げたつま先を下してもう二人、足の下に飲み込み押しつぶす。それもわざわざ踵を上げ、つま先に体重を乗せてぐりぐりと踏みにじって。形のいい、足袋に覆われた扇情的な足が繰り広げる残虐な殺戮は見るものを震え上がらせ、反転した感動さえも刻み付けた。
そして今度は反対側の足にたかっていた人間を手に取り顔の前まで持ち上げて語り掛ける。
「人間さんはそんな勇気があるにに、仲間をかばって死ねる優しさがあるのに。植物には冷たいんですよね。あなたたちは私たちの花にしか興味がない。その花のためにどんな苦しい思いをしているかも知ろうとすらしない。あまつさえ、その枝を折って持ち去るなんてひどいとは思いませんか? ほら」
少女に持ち上げられて言葉すら失っていた人間が、のども張り裂けよとばかりに絶叫する。腕が、あり得ない方向へ曲がっていた。でもそれだけでは終わらない。もうすでに骨が折れたその腕を、さらに引っ張るのだ。ミシミシと肉が裂け筋肉が剥がれる音がする。少女の手の中でおもちゃのように弄ばれるその人間はもはや人とは思えない、声にすらならない悲鳴を上げ泣き叫ぶ。誰しもが目をそらしたくなるような残虐な絵面だった。
「痛いでしょう? 千切れてすらいないのに。でもわかればいいです……もう楽にしてあげましょう……って、あら?」
ソメイヨシノが手を下すまでもなく、彼はその手の中で既にこと切れていた。有り余る痛みによるショック死だ。
彼らの命は結局のところ数分と持たずに無駄になった。ソメイヨシノは地響きを轟かせ、血と泥ですっかり汚れた足袋を交互に踏み出して赤黒い血だまりを次々に作り出していく。まさに悪夢のようであった。
そうして彼女は公園の端までやってきた。大きな道路に、色とりどりの車が忙しく走り回っている。
「……排気ガス! こんな近くにこんなに沢山あったんですね。これがなければもっともっと長生きできたのに……」
ソメイヨシノは恨めし気に車列を見下ろすと、何のためらいもなくその中に足を踏み入れた。雷鳴のような激しい音を立てて、白いセダンが一台きれいにスクラップにされる。
「あはは、意外と脆いものなんですね」
電線に足を引っかけて電柱をなぎ倒し、ソメイヨシノは交差点に踏み入った。折り重なるようにして倒れた電柱が意図せずして交通を封鎖する。アスファルトが砕け、柔らかな足の肉を伝ってややくぐもった破壊音を響かせ煙を巻いた。
それでも逃げ出そうとする車を、ソメイヨシノの足袋が横から蹴倒す。別段力を入れて蹴ったわけではないのだが、蹴り飛ばされたワゴンはまるでおもちゃのようにくるくると2回転半、激しく火花を巻いて交差点を滑る。蹴られたときにドアが歪んでしまったのだろう。中の人間は脱出もかなわないらしい。
ただ踏み潰しても面白くないと思ったのか、ソメイヨシノは腰を落として座り込んだ。勿論、そのワゴンの上にだ。
瑞々しく張りのあるお尻が、そして可愛らしい桜色の下着が白いワゴン車にのしかかった。勿論全体重などかけてはいない。足の裏にちょうどおさまってしまう程度の大きさ、椅子にすらならないのだから。
ソメイヨシノはそのまま、お尻を少し動かしてみた。ガリガリ、お尻に引きずられて動くワゴン車が削れる音。鉄とアスファルトが火花を散らすきな臭いにおいがあたりに満ちる。
しばらくの間ソメイヨシノはそうしてお尻でワゴン車を弄んだ。中にいる人間はどんな気持ちなのだろうと想像しながら。
削れていく車体。このままいれば程なくして自分ももみじおろしにされてしまう。けれど、脱出しようにも反対側は巨大な女の子のお尻に塞がれていてどうにもできない。それも、そいつの正体は人間が動物よりも下等で原始的と見下す植物だ。どんなに情けなく、屈辱的だろうか。
やがて飽きたか疲れたか、ソメイヨシノは交差点の真ん中で腰を落とした。お尻の下で自動車が潰れる感触。これはこれで癖になりそうであったが、しかしソメイヨシノの中にはどことなく満たされぬ思いが燻ぶっていた。投げ出した足が乗り捨てられた車を転がしたが、そこに人の姿がないだけでまるで面白くない。
「皆逃げないで……」
ひとしきり暴れて冷静になったソメイヨシノの口から洩れた、あまりにも自分勝手で、けれど切実な願望。60年分の思いを人間にぶつけてみて、感じたのは底知れない虚しさだけだった。
違う。自分が求めていたのはこんなことじゃない。
人間のことが憎いかと聞かれれば憎い。でもなぜ憎いかを考えると、人間が嫌いなわけではなかった。愛してやまない、愛されたくてたまらない。けれども分かってくれない、そんな人間が憎くてたまらないのだ。
「私のことを分かって……!」
重く、苦しく、吐き出すエゴイズム。
振り返ってみれば、一生を過ごした公園では仲間たちが未だ苦しみながらも精いっぱいに咲き誇っている。栄養不足に、迫る寿命に、幹から直接花まで咲かせて。理解されないながらにも、いつか届くと信じて。持てるすべてで自分を表現している。
「もう一度……もう一度咲きたい……!」
頬を伝う苦い樹液。けれどそれはもうかなわぬ願い。
ならばせめて。
「残りの二つの願いは決まったようですね」
ソメイヨシノの願いを聞き入れて彼女を巨大な少女へと変えたあの声が意識に直接響いてくる。
「はい。まずは……さっきまでのことはなかったことにして下さい」
「本当にいいのですね?」
ソメイヨシノは静かに、けれど深く頷いた。
自分のつけた足跡が、血だまりが、そして自分自身が薄れて幻となり、いつもと何も変わらない現実がその上に覆いかぶさる。
「そしてもう一つ……木の苦しみを分かってあげられる人が一人でいいから増えたらいいな、って……」
「一人でいいのですか?」
「はい。多くは望みません。きっかけでいいんです。あなたがだれかは知らないけれど、あなたが大きな力をもってして無理やり変えたって意味がないって思うんです。私はかないませんでしたが、今も私の仲間たちはそうして頑張っていますから」
「分かりました。では一人だけ」
その声を聞き届けると、ソメイヨシノは安心したようにそして満足げに瞼を閉じた。ホログラムのような幻像となった彼女の体が、キラキラと輝く花びらになって散っていく。
花吹雪。万感の思いを込めて、桜散る。









なんだかとても暖かい。暗闇の中をさまよっていた意識の中に、光明が差し込む。
「4月4日、4時46分。元気な女の子です。よく頑張りましたね、よく頑張りました! もう大丈夫ですよ」
体が持ち上がる感覚。ぼやけた視界に、人間の顔が映る。何だかとても辛そうで、苦しそうで、それでもとても幸せそう。はっきりとしない意識の中で、そう感じた。
ここはどこ? あなたは誰? 私は……私は何?
「さ……くら」
消え入りそうな声でその人は言った。
「サクラ。この子の名前は……サクラ」

おわり