「ようこそ、比那名居天子のブーツの中へ。歓迎するわ」

 楕円の筒に切り取られた空から、少女の声が降り注ぐ。狭い空間の中に幾重に
も反響するソプラノの美声は、ブーツの中に放り込まれた町を震撼させ、人間達
の鼓膜を激しく打った。

 切り取られた視界を埋め尽くしているのはまだ幼さの残るあどけない少女の顔。

 少女がにっこりと目を細めて首を傾げれば、その少女の艶やかな蒼髪が何本
か、さらさらとこぼれてブーツの壁に滝を描く。

 きらきらと光を伴ってブーツの闇の中へと落ちる彼女の長い髪は、奈落に差し
伸べられた蜘蛛の糸のようであった。

 運の良い者はその美しくも丈夫な髪にすがることが出来た。彼女、比那名居天
子の髪は細く柔らか。しかしながら、ブーツの中に閉じ込められた人々から見れ
ばその一本一本が頑丈に編みこまれた注連縄のようであった。

 この地獄から這い出そうと必死に手繰る蜘蛛の糸。しかしそんなことをせずと
も、天子が顔を上げれば髪は一緒に持ちあがり、彼らはいとも簡単に奈落を抜け
出すことが出来た。

 けれど、天人の少女は彼らを見逃すつもりは無かった。

 この靴の中に納まっている1000分の1サイズの町は八雲紫より託されたもの。
歴史修正やら何やらではみ出した世界の町であった。

 本来なら破壊されて、夢として記憶に統合されるはずの世界。それが部分的に
破壊を免れて残ってしまった場合、しっかり手動で破壊して元の世界に統合しな
ければならないのだ。

「ふふ……必死で可愛いわね。けれど、あなたたちは一回死なないと元の世界に
返れない。ここで生き延びても、辛い夢が長引くだけよ」

 まるで釣り針に喰らいついた魚のようね。天子は桜色の唇を緩めて笑う。

 もみ上げの髪を一束つかみ、何の躊躇も無くその唇に咥えた。

 瑞々しい唇の向こうに、髪の先が呑まれる。もちろんその中の数本には先ほど
救いを求めてすがった人々がいたはず。

 けれど天子が唇から髪をそっと抜くと、そこには既に誰もいなかった。

 ブーツの中の人々が事の顛末を見届ける中、比那名居天子は白く華奢な喉をご
くりと鳴らす。女の子らしい小さな喉仏がぴくりと動くその様は、食道を下る人
間たちの末路を否応なしに見せつけ町を阿鼻叫喚の騒ぎへと陥れた。

「いいわよ? 怖がって。とっても可愛いわ」

 ブーツを覗き込んで、比那名居天子は甘やかな笑みを浮かべた。その混乱の様
を満足そうに眺めると、彼女はゆっくりと立ち上がる。まるでその大きさを魅せ
つけるように。

 丸く切り取られた空を覆いつくしていた美しい巨人の顔が遠く離れ、そして彼
女の体が丸い画面の端から姿を現す。見上げていた者は、あまりにも大きな物体
が動くその様を、自分が落ちているのだと錯覚した。

 今自らが立っている町は彼女のブーツの中にあり、そしてそれは彼女の体の一
部分に過ぎない。圧倒的で大きすぎる力の差を実感させられる。

「どうかしら? 胸はぺったんこかもしれないけれど、それ以外は結構自信ある
のよ?」

 彼女の服装は、町の人々から見れば随分と芝居めいていた。純白のブラウスの
胸元には紅く大きなリボン。そしてフリルをあしらった空色のスカート。腰の辺
りからそれに重なる前掛けは虹色の宝石をその淵に飾り、その白さと相俟って水
面に写る虹の霊峰のよう。彼女が全身を魅せるためにくるりと回ると、その前掛
けを留めている蒼い大きなリボンが可愛らしいお尻を隠して飾る。

 けれどその芝居めいた衣装を着こなせるほどに、比那名居天子は現実離れして
美しかった。

 腰まである髪が遠心力に花開き、さらりと天を覆う。

「あなたたちはこんな可愛い子に踏み潰されて夢を終え目覚める。それってとっ
ても素敵なことだと思わないかしら。

 死んでしまえば夢になるけれど、今はまだ現実。私の足を、肌を、その身に実
際に感じることが出来るのよ」

 膝丈のミドルスカートを摘んで裾を持ち上げる天子。雪のように真っ白で締
まった美しい太股、その幕が上がる。

「ふふ……これじゃぁ下着が見えちゃうわね。けれど、そう。あなたたちは下着
が見えたところで私に手出しなんて出来ないんだっけね」

 クスクスと嘲るように笑いながら、天子はつまんだスカートをひらひらと弄ん
で挑発した。それでも足りず、ブーツを跨いで仁王立ち。

 白、そして紐。優しく張り出した腰に掛かるその蝶結びは、こんな状況にあっ
てもそれを引っ張りたいと思わせるほどに魅惑的だった。

 けれど、誰一人それをすることが出来ない。たとえこれを自ら外したとして、
比那名居天子を犯せる男などこのブーツの中にはいないのだ。

 その圧倒的な力の差が彼女を嗜虐的な、そして性的な興奮へと誘う。

「情けないわね、チビ虫。せっかくあなたたちの目の前で、こんなに可愛い女の
子がえっちな気分になっているのに……ね」

 スカートを完全にめくり上げて、細くしなやかな指が彼女の股間をなぞった。
わざとらしく下着を割れ目に噛み込ませ、町全体を振るわせる喘ぎ声を漏らして。

「見てみたい? 私の……私がするところ。見てみたいでしょ? けどね、ダメ
よ」

 ずしん、ずしぃん、と重たい足音を立てて彼女の股間が遠ざかる。ブーツの中
を見下ろす彼女の顔がはるか上空に見え、嘲るような、けれど愛でるような表情
が伺えた。

「どうかしら。もうそろそろ我慢も辛くなってきたんじゃない? 触りたくなっ
たでしょう、この私に」

 持ち上がる白い足。滑らかな曲線を描く脹脛、そしてすらりとした足。どれも
が華奢で美しく、しかしそのどれもが余りにも大きく。

 その指一つをとっても、その町にある最も大きなマンションを押しつぶせてし
まうほどの大きさなのだ。

 その足が、やや勿体無さげにブーツの筒口に翳された。

「さぁ、愉しみましょう。最高の幕切れをプレゼントしてあげる」

 ゆっくりと、天子の白い足が空を覆って入り込んでくる。途中で彼女の足が
ブーツの筒にぶつかる度に激しい衝撃と振動が街を襲い、触れてもいないのに古
い家屋たちを倒壊させた。

 天子にしてみれば、僅かに掠っただけに過ぎないのにである。

「どうかしら? 怖い? 怖いわよね。いいのよ、もっと怖がって」

 小波のようなざわめきとなって耳に届く微かな音は、幾千もの人間が発する恐
怖の叫び。それが全て自分のブーツの中で沸き起こっているのだと思うと、興奮
がじわりと沸いてくる。

 ブーツの中にはびっしりと家々が繁茂していた。住宅街をブーツの中に持って
きたのではなく、ブーツが住宅街を覆いつくしているといったほうが形容がつく
かもしれない。

 そして幸か不幸か、この町は他よりも一歩進んでいた。街灯などは太陽光電池
と蓄電池を内蔵し、発電所からの電気が絶たれても独自に活動を行うことが出来
るだけの能力があった。

 だから、彼らには見えてしまった。ゆっくりと迫り来る比那名居天子の足の裏が。

 それはとても柔らかそうであった。スレンダーな彼女だが、体の各所はやはり
女の子らしくやや丸みを帯びてふっくらしている。

 影を帯びる溝は足の紋。その一つ一つがはっきりと見て取れるほどに近づいて
も、まだまだ大きくなる。視界を全部多い尽くして、全てを圧倒して。まだ、まだ。

 その間一体どれぐらいの時間が流れていたのだろう。もしかすると一瞬であっ
たかもしれない。長めの足の指が、いよいよ地面に降臨した。

 柔らかそうな親指がマンションの屋根に触れる。しっとりとした肌はそれを愛
しげに抱きとめるかのように見えた。けれど次の瞬間には、その弾力に負けたマ
ンションが地面に飲まれるようにして崩れ去る。

 朦々と煙を上げて瓦礫を撒き散らし、周囲の家すら巻き込む大崩落。数百人規
模のカタストロフ。けれどそんな大惨事を巻き起こした当の本人はそんなことを
一切気にせずさらに小さな家々を爆ぜるように押しつぶして、無残な地図へと書き換える。

「きゃん! やっぱりくすぐったい!」

 びくん、天人の少女が体を震わせる。するとブーツの中の足も当然ぶれて、紙
一重の差で何を免れたはずの家々を巻き込むようにして轢き潰した。破砕された
家の破片――それも数メートルはあるようなものが舞い、降り注いで町を破壊す
る攻城弓となる。

「ふふっ、私の靴の中で家がつぶれちゃった」

 そんな惨事を足の指で感じながら、そしてそれが自身の靴の中で、自分の足の
指によって起こされたものだと知りながら。天子は噛み殺すように笑う。

「私はただ、ブーツを履こうとしただけなのにね。随分と滑稽な話よね。私が
ブーツを履くだけで、そのブーツの中の町で千人単位の死人が出るなんて」

 まずはブーツの底面に足の指をずらりと一列全部つける。たったこれだけで、
天子の指に押しつぶされて事切れた人間がどれほどいることか。

 そして足をさらに奥へと滑らせた。

「ひゃぅ、足の指の間に小さな家が入って弾けて……とっても気持ちいいわ。あ
なたたちには悪いけれど、もうちょっと愉しませて頂戴」

 足の指をぎゅーっと握りこむと、指の下の僅かな空間に難を逃れた低層の建築
物や車、電車がそこに捕まって、何もかも一緒くたに圧搾される。そうして出来
た町の残骸。足の指をぐにぐにと動かすと、その間に挟まったそれらは当然粉々
にすり潰されることと相成った。家も車も人も等しく、原型が分からないほど。

 体の、ほんの末端をちょっと動かしただけでそれだけの破壊――もはや消去だ
が――をやってのけた少女は、興奮に頬を染めて無邪気に笑う。靴の中ではこの
地獄だというのに、震え上がるほどのギャップだった。

「ちょっとは抵抗してみたりしないの? さっきからまるで手応えが無いわ。そ
んなんじゃぁ何一つ護れないわよ? ほらほら、私を止めないとあなたたちの町
が、大切なものが全部踏み潰されてしまうわよ!」

 挑発してみるも、返ってくるのは悲鳴だけ。あれだけ大勢いて、歯向かう事す
らできない。そこに自分の優越を見出す。

「もちろん逃げたって構わないわよ? ま、あなたたちみたいなチビには無理だ
ろうけどね」

 だってそこはどこまで逃げても私のブーツの中なのだから。

 さらに奥の方まで足を突っ込むと、いよいよ足が全て底面についた。体重をか
けてみれば、しっかり履けている事が分かる。

 ブーツの中で生き残っていた人々はとりあえず胸を撫で下ろした。天子の指先
が目の前に迫り、その体温、足から蒸散される桃の香りがむわっと覆う空間。
ブーツのつま先、そして土踏まずの真下はどうやら難を免れたらしい。

 けれどそれは町を押しつぶしている本人、比那名居天子も知るところであった。

「ちょっとこれで歩いてみようかな」

 ブーツの紐をきゅっと縛り、そして天子は足を持ち上げた。その何気ない動き
で掛かった加速Gは生き残った人々を地面に叩き伏せ、崩れかけた家をぺちゃん
こに押しつぶす。

 コツ、コツ。硬いブーツの底が床を叩く。天子からすれば、ただそれだけのこと。

 けれどもその中にいる人々からすればそれはとんでもないことであった。圧し
掛かるだけで全てを圧壊させるほどの質量を持った足が、町を丸ごと“履いて”
歩いているのだから。

 ずしいいぃん、ずしいいぃぃん!

 彼女が一歩踏み出すたびに、地面との間に生まれた衝撃が町を吹き飛ばす。ま
るでポップコーンみたいに家が弾け飛び、あるものはブーツそのものにぶつかっ
て砕け、またあるものは天子の足の指の間に弾けて消える。

「ううぅん、気持ちいい! 小さな粒が足に当たってパチパチ弾けて……これは
面白いわね」

 何よりも、自分が町を履いて歩いているのだという事実が面白くて面白くて仕方が無い。

 天子は町の感触が無くなるまで、部屋の中を歩き回った。ただ歩く。自分の何
気ないその行動に、沢山の人が翻弄され恐怖しているその状況を愉しんだ。

 やがてそれらを感じなくなると、天子はブーツを脱いでその中を確かめてみ
た。逆さに振っても、瓦礫一つ落ちてこない。

 どうやら、全て綺麗に破壊されて修正後の世界に夢として統合されたらしい。

 結局のところ比那名居天子は誰一人として殺していない。それをしっかり確か
めると、天子はほっと胸を撫で下ろす。と同時に、少し寂しそうな表情が過ぎる。

 もう少し一緒に遊びたかったな、と。祭りの後のような寂しさを覚えたのだった。

「う~ん、これはクセになりそうだわ。また今度紫に頼んで適当な町貰ってこよ
う」