「大海獣?」
 白魔道士の少女、キアラは眉をひそめた。いつの時代も、超巨大海洋生物の噂は絶えないものだ。しかしまさかそれを一国家の元首たる黒龍少女、バハムートが口にするなどとは思ってもみなかったのである。
「うん、最近その海域を通過する船がことごとく沈んでしまって……官民問わず、軍艦も商船も。おかげで輸出入が滞っちゃって大変なのよ。飛空挺を飛ばせばいいんだろうけど、船に比べたら輸送コストは跳ね上がるし……このままじゃ帝国全体が飢餓に陥るわ」
 黒龍の少女、バハムートはまだ幼さの残る可愛らしい顔を暗く曇らせて愚痴をこぼす。身長149メートル、人間の100倍もの巨大な体躯をもってしても帝国臣民の生活は背負うに重いものらしい。
「潜水艦とかではなくて?」
「私も最初はそう思ったんだけどね。海の中から巨大な何かが現れて、一瞬にして船が転覆するさまを偵察機が捕らえているのよ。あぁ、海は怖いわ……何がいるか分からないもの」
 バハムートは巨大ながらも華奢な身体をブルブルと震わせ、袖なしのミニスカドレスから伸びるほっそりとした腕で自分をぎゅっと抱きしめた。彼女は水が大の苦手なのである。水深120メートル程度ならば足がつくため普段はなんの苦労も無いのだろうが、海となってはそうもいかない。
「船を沈めるほどの巨大生物ねぇ。それってさ、もしかして貴女やクレアと同じ……」
「その可能性はあるわね……現場海域には近寄れないし、船体のサルベージも出来ないから相手の正確な大きさも分からないの」
「それじゃぁ、とりあえずクレアをけしかけてみたらどう?」
 キアラは風を捲いて空高く(といってもバハムートの顔の前までではあるが)飛び上がり、この村に住むもう一匹の龍、白龍のクレアを探す。生憎今はどこかへ遊びに出かけているのか、175メートルの巨体はどこにも見当たらなかった。
「いやね、そう思ったんだけど……やっぱりこれは私一人で何とかしなきゃいけないと思うの。仮にも私は皇帝で、そしてこの国の軍事力そのもの。私がやらなきゃ、私が臣民を守ってあげられなければ意味が無いのよ」


「――とは言ったものの……強がるんじゃなかったなぁ……」
 数刻後、バハムートは直属の飛行艦隊を引き連れて問題の海域上空に到達していた。見渡す限り360度の海。水平線のその果てまで、島影一つ見えやしない大洋のど真ん中だ。
「うぅ……ぶるぶる。落ちたら死ぬよね……」
 高度1キロメートルから見下ろす海は恐ろしく広く、そして黒い。水の透明度が高く、差し込んだ光が深海に吸い込まれて消えていく真っ黒な海。海域の水深は実に6000メートルにも及び、身長149メートルのバハムートですら簡単におぼれてしまうほどの深さ。下を覗き込めば暗く広がった暗黒に飲み込まれてしまいそうな錯覚にとらわれ、バハムートは思わず自分が腰掛けた空中戦艦の艦橋をぎゅっと抱きしめた。金属がひしゃげる甲高い悲鳴が大空に響き渡り、きな臭いにおいがあたりに満ちる。可愛らしい黒ドレスに覆われた彼女の慎ましい胸。柔らかいはずの優しいふくらみは、その圧倒的な質量を持ってオリハルコンの装甲をぐにゃりと歪め、いとも簡単に押し潰してしまった。
「あわ、あわわ……手加減するの忘れてたっ!!」
 コントロールを失って傾きかける空中戦艦。バランスを取ろうとじたばた足を動かせば、彼女の白く美しい太股は弦を破壊して船体にめり込み嫌な音を立てる。あわてて艦橋と乗組員を復元してどうにか事なきを得たが、もはや女帝の威厳はどこへやら。14歳という歳相応のあどけなさを露呈させ、その表情はただひたすらに不安そうであった。
「姫様、どうかご安心ください。我等第一航空艦隊はかならずや姫様をお守りします」
 戦艦の拡声器から、励ましの声がかかる。抱きついただけで潰れてしまう玩具のような戦艦に安心しろだの守るだの言われても……と、いつものバハムートならばそう思うところなのだが。
「う……うん、ちゃんとやってよね」
 今日この時に限っては、涙目で頷くことしか出来なかった。まさしく藁にすがり付いている状態である。眼下に広がる一面の青い海。このどこかに船を沈めるほどの怪物が潜んでいるかと思うと、背中に生えた立派な竜の翼も縮こまってしまって飛び立つことなんて出来そうにない。
つまり、この頼りない飛行戦艦を落とされるようなことがあれば、泳ぐことができないバハムートはほぼ間違いなく溺れてしまうこととなる。正しく一巻の終わりだ。
「そうよ、落ち着きなさい私! 相手は海の中、こっちは上空1000メートルにいるのよ。大丈夫、だいじょう……」
バハムートがそんな独り言でどうにか自分を奮い立たせようとしたその刹那、艦隊の後方から、何とも形容のしがたい轟音が鳴り渡った。
「何だ!??何があった!!」
「最後尾、9番艦大破! 墜落していきます!」
バハムートが抱きしめた艦橋があわただしくなる。もうすでに血の気も引いて真っ青になった顔で恐る恐る振り返れば、問題の艦が黒々とした煙の尾を引いて急降下している最中であった。魔力タンクに誘爆したのだろう、船体のそこかしこに鉄と炎の入り混じった紅蓮の花を咲かせて散っていく。
「っ! 戻れ、戻ってきなさい!」
バハムートははっと我に返り、撃墜された戦艦の時を巻きもどそうと魔力を集中させ対象空間を絞り込む。魔法が功を奏して無残に破れた装甲はたちどころに修復され、動力は復活し危ういところで海面への激突を免れた。ほっと安心し息をついたバハムートであったが、しかし次の瞬間。
海面を割ってそれは現れた。たった今難を免れたばかりの戦艦を狙って。数百メートルにも及ぶ波しぶきを上げ、照りつける海の太陽で虹を描いて。白く、美しく、それでいて恐ろしいそれは女性の手のよう、いや、それそのもだった。細くしなやかで流麗な指が武骨な戦艦に絡みつき、そしてそのまま絞め殺すようにして握りつぶす。皆呆気にとられて、その手が船の残骸を握りしめたまま海の中に消えていくのを見ていることしかできなかった。
「で、出た……どうしよう、どうしよう……!!」
おろおろと慌てふためくバハムートの目の前で今度は別の艦が轟音を上げて傾く。今度は何が起きたのかを辛うじて知ることができた。超高速高圧の水流ジェットがオリハルコン合金の船体を貫いたのだ。
このままでは全滅も遠くない。
「に…逃げるわよ! 高度を上げて振り切りなさい!」
戦艦の魔道エンジンの稼働音がゴウと轟き、艦隊は徐々に高度を上げ始めた。だが、いかに帝国の技術力の結晶といえど所詮は戦艦、大型ゆえにその機動力は高くはない。これでは逃げ切ることなど到底不可能。いや、それどころか逆に海面に引き寄せられているような……。
「知らなかったんですか? 龍からは逃げられないんですよ」
落ち着いた、アルト声域の声が轟きわたる。それは巨大であるはずのバハムートの鼓膜を激しく打ち据えるほどのものであった。
「っ! やられた、エンジンが焼き付いたっ!」
必死の抵抗もむなしく船は徐々に高度を落とし、波しぶきを上げて着水する。どうやらフル稼働のエンジンンに余剰な魔力を流し込まれたらしい。
膨大な質量の着水で乱れる海面。しかしそんなものなど比べ物にならないほどのうねりが艦隊の旗艦、つまりバハムートの目の前に現れた。それはまるで山のよう。海を押し上げ水面を突き破ってそれはいよいよ本体を露にした。
「ふふっ、ようこそいらっしゃいましたね、バハムートさん」
太陽をとらえて眩しく輝く水泡を巻き上げ、幾筋もの滝を従えて現れたのはやはり予想通り巨龍の少女であった。白磁の肌は水に濡れてキラキラと眩しく輝き、まるで真珠のよう。大量の海水を滴らせて艶やかに煌めく髪は海そのもののような蒼。長く伸びた後ろ髪はポニーテールに纏められ、それ自体が巨大な海龍のようであった。
 服装は海にいるだけあってか水着そのもの。海の上から見える部分で身に着けているのは、豊満な胸を重たげに支える青い胸当て。それから黄金の腕輪のみだった。髪留め、そしてほっそりとした腕に巻かれた腕輪は何れもまばゆい黄金で、その少女がバハムートと同じようにそれ相応の地位にあるらしいことが伺い知れた。ただ、明らかにバハムートと違うのはその大きさ。戦艦を片手で握りつぶせてしまうほどの巨体は実にバハムートの10倍近く、本来巨大であるはずのバハムートですら人形のように弄べてしまう。魚のひれのような半透明の翼膜を有する翼は、天球を覆いつくさんばかりの偉容で見るもの皆を圧倒した。
「な……どうして私の名を?」
バハムートはその巨体に圧倒されながらも、どうにか負けじと問いかける。その巨体は海面から出ている部分だけでも首が痛くなるほど見上げなくては
「敵の名前くらい、覚えていて当然です」
 超巨大な竜の少女は琥珀のような目を細めてバハムート見下ろした。その突き刺さるような視線にバハムートは思わず震え上がる。物腰は丁寧だが、視線やその口調には逆鱗に触れられた龍の狂気を孕んでいる。善悪とか理性ではない、話の通じない本能を。
「数週間ほど前のことです。この海域にある私の都が飛行戦艦による攻撃を受けました。私は応戦し、鹵獲した戦艦からあなたの名を得たのです」
「そんな! 私はやってないわ! まずそれ以前に、この付近に都なんて存在しない!」
「そうですね、海図にも地図にもありません。でもそれは私がずっと隠し通してきたからに他ならないのです」
 超巨大少女が、大砲のような衝撃波を放って指を鳴らす。強烈でありながら不思議な響きを伴ったその音は、大海原を駆け渡り場の空気を一転させた。この空間に満たされていた魔力のヴェールが剥がされていく。これほどまでの魔力が充満していたというのに、バハムートすら気づくことができなかったほどの完璧な偽装。たった今の今まで大海原だったというのが信じられない光景が目の前に広がる。
 海の上に並び立つ数千棟もの石や煉瓦造りの家。そのいずれも、高さはバハムートのくるぶしよりも少し高い程度ながら、それらはどんな都市にも劣ってはいなかった。歴史を感じさせる街の中を縦横に駆け巡る運河。入り組んだ裏路地ですら美しく、水と空と人の営みが完全に調和した風景は羨望すら覚える。ましく水の都を体現したような美しい街並みが現れたのだ。
 しかも、それは陸の上に建っているわけではなかった。都の下にはそれを支えるものなどない。ここは水深6000メートルもの深海。支柱ではなく、バランス制御のための構造物がこの巨大な浮島の下に逆摩天楼となって釣り下がっているのだ。
「申し遅れました。私はリヴァイアサン。この水都、レムリアの守護者にして支配者です。故に、私はこの都を守るためであれば何も厭いません。たとえ、同族を殺めることであれ」
 リヴァイアサンと名乗った少女の瞳から、フッと光が失せる。いままでどうにか保っていた理性の灯が消えるのがはっきりと分かった。頭の先からつま先までを駆け抜ける冷たい痺れ、筋肉の弛緩。本能的な恐怖がバハムートを襲ってその場に留めつける。
「クスッ、怖くて動けなくなっちゃいましたか? 逃げてもいいんですよ? あなたは最後にしてあげますから」
 嘲るような笑みを浮かべて、リヴァイアサンは戦艦をその手に掴んだ。全長200メートルもの巨大な鉄の塊が、海面から引き剥がされるように持ち上がる。膨大な量の海水が瀑布のごとく流れ落ち、白い飛沫が艦隊を覆う。肌に感じるその冷たさ。伝わってくる冷ややかな現実感に、いよいよバハムートは泣き出してしまった。
「お願い、やめて! 冤罪よ……私はここに都があることすら知らなかったわ!」
 バハムートの必死の訴えに一切耳を傾けず、リヴァイアサンは冷酷な笑みを浮かべて戦艦を両の手で握った。徐々に締め付ける握り拳。金属の裂ける歯の浮くような嘶きに混じって聞こえる船員たちの悲鳴。
「ふふっ、聞こえますか? みんな貴女に助けを求めていますよ?」
「や、やめて! お願い! 何でもするから!」
 涙ながらの懇願。けれども一国の姫が誇りを投げ打って発したその言葉は無残にも握りつぶされた。バハムートの目の前で、彼女の忠臣達を載せた船がひしゃげ、油と魔力の入り混じった赤黒い燃料を撒き散らす。鮮血のような飛沫に重なる喪失の実感。
 それだけのみならず、リヴァイアサンはその残骸をくしゃくしゃと丸めて投げ捨てた。バハムート数少ない理解者たち。その骸を、まるでゴミ屑のように。
「あ……あぁ……」
 湧き上がる怒りと悲しみは、最早声すら結ばなかった。
「どうですか? 守るべきものが自分を置いて先に逝ってしまうというのは」
 畳み掛けるリヴァイアサンの挑発。龍であるが故に、何が最もつらいのかをよく熟知した攻撃だった。
 刹那。大気が轟と啼いた。急変した気圧、衝撃波が海面を凪いで渡っていく。怒りの臨界に達し、彼我の力量差すら眼中に無くなったバハムートが動いたのだ。
 リヴァイアサンの蒼髪が数本宙に舞い、陽光を捉えてきらりと輝く。龍の目を以てしても捉えきれないほどの超高速にリヴァイアサンは敵の本気と、予想以上の力にひやりとする。一瞬遅れて、首筋に感じる鋭い痛み。手をあてがってみれば、焼けるような痛みと血の感触。リヴァイアサンの白い首を深さ50センチもの傷が20メートルに渡って走っている。だが、浅い。
「なるほど、流石にあれだけの戦艦を造れる国の姫。その小さな体でそれだけの力を出すなんて」
 リヴァイアサンはそれでも余裕の姿勢を崩さず、次の攻撃を待つ。今度はきっと背後から、もう一度首を狙うに違いない。ならば。
 バハムートは翼から魔力のジェットを噴射し、勢いをほぼそのままに反転した。今度は深く、確実に頸動脈を断ち切らなければ。狙いを定めて再突入するバハムートの目の前で、海が盛り上がった。慌てて翼を翻し、翼爪から魔力ジェットを逆噴射するも、すでに手遅れ。4万トンにも及ぶ体重では軌道変更すらままならず、相対的にコンクリートのような硬度と化した海水に激しく全身を打ち据えることになった。
「速さはお見事。ですが、突っ込んでくるのが分かっているのですから、事前に攻撃を置いておけばいいのです」
 衝突で砕けた海が成層圏にまで舞い上がり、雲一つない空に虹を描く。盛り上がった海は激しく荒れ狂い、動力を失った戦艦たちをまるで木の葉か何かのように翻弄した。同時に、海を持ち上げたそれの正体が海水を脱ぎ捨てて露になる。
 それは魚の尾だった。光をとらえて屈折させ、見る角度によって様々に色を変える虹色の鱗。そんな美しくも堅牢な鱗に覆われた巨大なリヴァイアサンの尻尾だ。その尾ひれにバハムートは力なくぶら下がっていた。ほとんど引っかかっていると言ってもいい状態で、その様子や既に満身創痍。
「ふふっ、残念でしたね。筋は悪くありませんが、しかし相手が悪すぎました。」
 リヴァイアサンは尾ひれに引っかかったバハムート尻尾を摘まんで、顔の前にぶらーんとぶら下げた。こうして持ち上げられて初めて、バハムートは相手が自分の20倍近い大きさを誇るのがわかった。大きく開けられた口は全長149メートルもあるバハムートを飲み込むことができてしまう。だが、抵抗しようにも尻尾を掴まれてはとっかかりが一切ない。必死で翼をばたつかせ、翼の骨格から激しく魔力をほとばしらせて暴れてみても掴まれた尻尾が痛むだけで、全くの無駄。難なく口の中に押し込まれてしまった。
「い、いやあああ! 嫌よ、こんなの……っ。食べられたく……ない……」
 自分の体と同じくらいの舌にぎゅうぎゅうと押し付けられ、息ができない。まるで味わうみたいに、バハムートの巨大なはずの肢体を嘗め回す。その超巨大な肉の怪物はビルですら粉砕してしまうほどのバハムートの脚を難なくこじ開け、口蓋に押し付け潰れたカエルのような惨めな姿勢を取らせた。そして八重歯のあたりでその足首をぎゅっと噛みしめる。その数万トンもの圧力にバハムートは声にならない叫びを上げ、ビクンと痙攣した。
 そして今度はその頭を奥歯の間に。
 殺される、噛みつぶされる……! こんな事になるんだったらくだらない見栄を張るんじゃなかった。恐怖と後悔が次から次へと湧き上がってくる。
「ごめん、クレアちゃん。私、もうダメみたい……」
 せめて最期にあの子の顔が見られたら。そんな願がかなわないことくらい分かっているのに、そう思わずにはいられない。
 いよいよ死を覚悟したその時であった。
「その子を出して」
 くぐもった、けれどはっきりと分かるあの龍の声。いよいよ死の恐怖に耐えられなくなった脳が幻聴を作り出したのだろうか。こんなタイミングで、いくらなんでも都合がよすぎる。
 けれど、バハムートの頭を今まさに噛みつぶそうとしていた奥歯の力が緩んだように感じ、あれこれ考える前に体が動く。一度は死を覚悟しただけあって、その動きは驚くほど的確。力任せに頭を引っこ抜き、そしてリヴァイアサンの舌の奥に思いっきり右手を突っ込んだ。押してダメなら引く、出してもらえないなら奥に入る。嘔吐反射は龍にもある。リヴァイアサンの怪物のような舌が暴れ狂い、バハムートは暗い口内から一転眩しい海に吐き出された。
 けれど、これで助かったわけではない。バハムートは泳げないのだ。どれほど必死に水を掻いても体は沈むばかり。キラキラと光る水面が遠ざかり真っ暗な深海へと引きずり込まれていく。重く冷たくまとわりつく海流は浮かばれぬ死者の怨念そのもの。深淵へ、死の淵へ。今度こそ終わりかと覚悟を決めたバハムートを、何かやわらかいものが包み込んだ。
 浮上、明転。死者の手を引きちぎるかのような力強さ。安心感、暖かさ。間違いない、夢や幻ではない。クレアだ。クレアが助けに来てくれたのだ。
「よく頑張ったね、バハムートちゃん。もう大丈夫だよ」
 少し遅れた明順応、白んだ視界が元に戻る。そこには焦がれに焦がれたクレアの顔がいっぱいに広がっていた。
 優しそうな眼差しの青い瞳。白磁の肌に、花びらを浮かべたような頬紅いらずの頬。瑞々しい唇。無防備であどけない、けれどとても美しく誰しもが見とれるような美少女。
「クレアちゃん! ……もうダメかと思ったよ」
 バハムートはクレアの手の上でぺたんと座り込み、真紅の瞳にうるうると涙をためて愛しの龍を見上げる。とても大きい。人間から見れば大巨人であるはずのバハムートですら、今のクレアと比べるとまるで小人のよう。さっきまでバハムートを口の中に入れていたリヴァイアサンですら、海に突き立った柱のようなクレアの太ももと比べればただの魚に過ぎない。
「そんな、ここは水深6000メートルの深海ですよ……足がつくなんて、そんな……あり得ない」
 先ほどまで涙目でえずいていたリヴァイアサンが震える声で呟いた。そのままたじたじと後ずさり、自分の都にこつりとぶつかってはっと我に返る。
「……っ! それでも、この子たちを守るためなら私は闘います!」
 琥珀色の瞳に覚悟を宿し、両の手を広げてリヴァイアサンはクレアを睨み付ける。
「勝負になるかな?」
 そんな彼女を見下ろして、クレアはクスクスと嗤った。大切な友人を傷つけられ怒り狂ったクレア。そのサファイアのような美しい瞳の中に冷徹な怒りの炎が燃え上がり、その光彩を鮮やかに輝かせる。
 それだけ。たったそれだけで勝負はついた。クレアが目をやった海面が、キシキシと啼いて白く固く凍り付いていくのだ。万物を凍てつかせる絶対零度の氷の視線。当然海の中にいるリヴァイアサンは下半身が氷漬けとなり一切動くことができなくなってしまう。
「きゃあああぁっ、痛い、痛いぃっ!」
 半身を包む超低温に耐えかねてリヴァイアサンが悲鳴を上げる。彼女の目から零れ落ちた涙は空中で凍り付き、氷から脱出しようとついた手も無慈悲に凍徹してしまう。龍ですら耐えかねるほどの圧倒的な冷気。力の差は歴然であった。
 けれどクレアはすぐに相手を楽にするつもりはなかった。
「クスッ……動けなくなっちゃったね」
 厚さ1000メートルの氷をいともたやすく引き裂いて、クレアの脚が持ち上がった。水深6000メートルというのに、海は彼女の膝より少し上をなめる程度。オーバーニーブーツの筒口は遥か上で、下着を申し訳程度に隠すクレアのパレオを濡らすことすらできない。
 故に高々と持ち上げたその巨大な足は凍りついた海面の上にその全容を表すことができた。海水を滝のように滴らせながら現れたそれは、リヴァイアサンの右前方2キロメートルほどに踏み下ろされた。2キロ。人間であればとても遠い距離ながら、巨大なリヴァイアサン、ひいてはさらに巨大なクレアにとってはまさにすぐそこである。その超巨大な白亜のブーツが地響きを伴って氷に触れる。氷は難なく割れ砕け、反作用で周囲の氷がめくれ上がる。その破片一つ一つが人間にとっては山のよう。巨大なはずのバハムートから見ても岩のように感じられるほど大きい氷山。であるにもかかわらず、クレアのブーツはそんな氷塊を次々と作り出しては跳ね上げてずぶずぶと沈んでいく。そのさまを、逃げることができない哀れな獲物に見せつけるかのようにわざとゆっくり、クレアは足を沈めていった。ブーツの紐が海面を通過するたびに上空数百メートルまで飛び散る水しぶき。自分の体を半分も覆い、動くことすらままならないような氷をいとも簡単にその自重だけで突き破る巨大な脚。クレアのむっちりとした太ももを飲み込みブーツの筒口が目の前に来るころには、既に生きた心地すらしなかった。この巨竜であれば、氷の牢に捕らわれたリヴァイアサンを氷ごと踏み砕くことなど何の造作もないという事実をありありと思い知らされる。
 そして持ち上がる、反対側の脚。いよいよリヴァイアサンは覚悟を決めて目を瞑る。けれど、その足は彼女を踏み潰すことなく、左足と同じようにリヴァイアサンから少し離れた場所を踏み抜いた。
「あはは、そんなにすぐにはやらないよ。これからあなたには、私たちの玩具になってなってもらうんだから」
 クレアはガタガタ震えているリヴァイアサンを冷たく見下して嗤った。そして、自分の手の上にいるさらに小さな龍、バハムートに唇を寄せる。クレアの手の中で、ぐんぐんと巨大化していくバハムート。人間の1000倍、2000倍、リヴァイアサンよりも大きく、大きく。クレアに抱きかかえられていたバハムートの足が、ついに氷に接触する。華奢で可愛らしい、しかし今のままでもリヴァイアサンなど簡単に蹴倒せるほど巨大な脚。黒光りするハイヒールが氷を圧で叩き割り、分厚い氷に底の見えないクレバスを穿つ。そして沈み込むバハムートの脚。巨大化の力に任せてクレバスを押し広げ、そしてその太ももの間にあった都の1区画を挟み込んで粉々に粉砕してしまった。柔らかな少女の肉の間から、石の砕ける音が漏れ出る。別に意図してやったわけではなく、降り立った股の間に町があったことすらバハムートは気付かなかった。そのあまりのギャップにリヴァイアサンは身震いする。この超巨人たちの身動き一つで、自分だって同じようにされてしまうのだ。
「クレアちゃん……」
 バハムートは恍惚とした表情で最愛の龍の名を呼んだ。既に海底に足はついているらしく、バハムートは精いっぱいに背伸びしてクレアに2度目のキスをせがむ。
「いいよ、二人でもっと大きくなろ?」
 クレアはそれに応じてバハムートの唇に自分の唇を重ねた。莫大な魔力が流れ込み、一度は止まった巨大化が再開する。それは二人の間に挟まれたリヴァイアサンにとってはまさに脅威となった。ぐんぐん巨大化していく脚。それに押し広げられた氷が隆起し、海の上に巨大な山脈を作り上げる。当然リヴァイアサンも有無を言わさずその造山活動の巻き添えとなり、標高5000メートルもの超巨大氷山の真ん中に突き刺さったオブジェのようになってしまった。勿論リヴァイアサン自身も体長3キロメートルもあるのだから、氷山を砕いて脱出することなど容易いように思えるが、しかしこれはクレアの魔力が充満した氷。龍の力ですら凍てつかせてしまう。
 くちゅっ、ちゅっ……。はるか上空で交わされる熱い接吻。その衝撃音がリヴァイアサンの鼓膜を激しく揺さぶり、恐怖させる。この二匹はもうすでに互いの足の間にいる小さな海龍のことなど忘れ去っているのではないか、このまますりつぶされてしまうのではないかと。その予想は強ち外れでもなかった。バハムートが、愛しのクレアの脚に自身の脚を絡ませようと悶える。凍りついた海面は最早彼女らのくるぶし程度。氷から抜き出したバハムートの超巨大な足の甲が迫る。このままではあの足に蹴飛ばされて砕け散ってしまう! けれどそれはあまりの大きさに狂った距離感が生み出した錯覚。バハムートのつま先はリヴァイアサンのはるか頭上を通り過ぎ、クレアの股の間に着地した。衝撃に海は暴れ狂い、身動きの取れないリヴァイアサンを激しく打ち据え体力を奪う。
 水深6000メートルの深海がまるで水溜りのよう。二匹のサイズは人間の5万倍、片や74キロメートル、片や87キロメートル。リヴァイアサンなど小人も同然。熱く激しいキスがようやく終わり、二人の間にツゥと引く唾液の糸。その球が、高度70キロメートルから落下し、リヴァイアサンのすぐ真横の氷山山脈を消し飛ばした。飛び散る破片に皮膚が切り刻まれ爆風の痕を模るような傷をつける。格が違いすぎる。二匹が愛し合った副産物、その雫ですらこの威力なのだ。もはや逃げ出すことすらままならない。
 抱き合っていた二匹が離れ、そして足元のリヴァイアサンを見下ろした。そして氷山ごと、彼女を掬い上げる。
「あはは、どうかな? さっきまで口の中に入れることができた小人に逆に見下ろされるっていうのは」
 上品な黒の長手袋に覆われたバハムートの手。その中にいるリヴァイアサンに、クレアが語り掛ける。
「バハムートちゃん、それちょうだい」
 クレアはバハムートの手首に手を添え、自分の口元にリヴァイアサンをもっていく。そして何のためらいもなく氷山からはみ出した上半身を口に咥えて引っ張った。咥えこまれたリヴァイアサンのくぐもった悲鳴。あの美しい虹色の鱗がバリバリと剥がれる音がする。クレアはものの数瞬でリヴァイアサンがどれだけ暴れても抜け出すことができなかった氷から、無理やり引き剥がして見せた。リヴァイアサンの魚の下半身が、ちゅぽんという間の抜ける音を立ててクレアの唇の向こうに消える。
 そしてクレアはそのままその唇をバハムートの唇に押し当てた。ずしん、と重々しい音ともに二匹の唇が溶け合い、そしてそれを無理やりこじ開けてクレアの舌がバハムートの口腔に侵入する。もちろん、たった今口の中に仕舞い込んだリヴァイアサンを乗せて。
 びちびちと暴れるリヴァイアサンの感触が何ともこそばゆい。バハムートはクレアの舌に自らの舌を絡ませて暴れるリヴァイアサンをぎゅうぎゅうと締め付けた。どんどん弱弱しくなっていく抵抗。もう頃合いだろうと思ったバハムートは、リヴァイアサンを自分の口の中に完全に引き入れ、そしてクレアをそっと押した。クレアのほうはまだまだ遊び足りないのか、少し不満げな表情。けれども、バハムートの訴えかけるような視線に、渋々と引き下がった。
 とても蒸し暑く、暗い。ほんの少し前までは、自分よりもはるかに小さな小人だったはずの龍。その龍の口の中に放り込まれ、岩山のような歯に取り囲まれ舌で弄ばれる。なんという屈辱。
 出して……ここから出してください。
 涙ながらに、リヴァイアサンは必死で念じる。こんなところで死んでは、海龍の加護を失った都はあっという間に滅んでしまうに違いない。彼らを守りたい、その一心であった。
 ――出してあげてもいいわよ。
 その念に答えたのはバハムート。無論、但し書きがつくのは承知のこと。リヴァイアサンは答えず、次の言葉を待った。
 ――選びなさい。自分の命か、あの都か。
 およそ予想通りだった。ならば答えは決まっている。
 リヴァイアサンは自ら、バハムートの喉の奥へと滑り込んだ。そのまま、10キロメートル以上ある食道を落下していく。やがて永遠に思えた真っ暗な食道から、開けた空間に出た。体内の魔力で明るいバハムートの胃。その胃液の海に、飛沫を上げて体長3000メートルの海龍が落ちる。
 そこは体内というには幻想的で、そして残酷な美しさがあった。強力な魔力を帯びて青白く輝く胃液の海。そして鮮やかな胃壁。喰われたものがその物としての形を失う存在の墓場だというのに、なぜか愛おしさを感じる。それはこれから一体となるこの龍への憧憬がそう思わせるのかもしれない。もはや、逃げ出そうとも思わない不思議な力がそこにはあった。
 染み出す強酸と魔力。酸の海の底から体がドンと突き上げられる。いよいよ消化が始まるようだ。
 ――あの子たちを、頼みましたよ。
 焼け付くような痛みの中、胃のぜん動に激しく揺られて。リヴァイアサンの意識は闇に解けた。


 それから一か月。魔の海域は変わった。様々な商船が忙しく行き交い、海の上に浮いた美しい都へと様々な物資を運ぶ。リヴァイアサンの水都レムリアは姿を隠すことをやめ、たった一か月で東西大陸間の貿易拠点となって目覚ましいほどの発展を遂げた。
 無論、あれだけの巨龍が自分の大きさをあまり考えもせずに抱き合ったりしたものだから、海底についたその足跡は周囲よりもさらに2000メートルほど深く地理的にもだいぶ変わった。
 けれどバハムートにとってはそれ以上に大きく変わったことがあった。友達が一人、増えたのだ。
 船着き場を丸々二つ押しつぶして腰かけ、海に脚をつけてぶらぶらやっていたバハムートの隣で水柱が空高く吹き上がる。
「バハムートさん、いらしていたんですね!」
 蒼い髪をポニーテールで纏めた竜の少女。リヴァイアサンが飛沫の中から現れ、そのままバハムートに抱き付いた。傾いたバハムートは危うく倒れ込みそうになり、危ういところで手をついて難を逃れる。初対面時のあの大きさではなく今はバハムートとさしてかわらない、150メートル程度の女の子だ。
「ちょ、濡れる濡れる! 抱き付くのは構わないけど体拭いてからにして!」
「あはは、ごめんなさい。嬉しくてつい」
 リヴァイアサンはざばぁと大量の水を撒き散らし、大波を起こしながら隣とさらにその隣の船着き場を押しつぶしてバハムートの右に掛ける。バハムートが再生魔法の名手と知ってからは、リヴァイアサンはこんな感じだった。今も、バハムートの手の下で倉庫が一つ潰れてしまったのだが気にしている様子もない。
 結局先の一件は何者かに仕組まれたことであるらしいことが発覚し、和解した二匹。以降、リヴァイアサンはバハムートにべったりであった。飲み込まれたときに吊り橋効果みたいなものでも働いたのかもしれない。
「変わったね……」
 眩しい太陽に目を細め、はるか彼方の水平線を見据えてバハムートは呟いた。
「私ですか?」
 リヴァイアサンは可愛らしいく首をかしげてバハムートに聞き返した。
「うん。前はめったに人前に姿を見せない厳格な神様やってたみたいじゃない。巫女まで使って」
「そうですね。神様ごっこはもうやめにしました。あなたたちを見ていたらもっと自由でいいんだって思えちゃって」
 二匹ともしばらく黙って、水平線に湧き上がる入道雲をぼーっと眺める。海鳥たちの鳴き声が耳に優しく心地いい。
「重たかったんだね」
「はい、貴女と同じです」
 潮風に混じったバハムートの呟きにリヴァイアサンが答えた。
 リヴァイアサンの白い手に、バハムートの手が優しく重なる。
「もう、一人じゃ……」
 と、バハムートが言いかけたところで、再び海が爆ぜた。白龍の少女、クレアが海中から飛び出したのだ。どっぱあぁん、とド派手に水飛沫を上げて周囲の町に突然の大雨を降り注がせる。
「バハムートちゃん、リヴァイアちゃん! どぅお? びっくりした!?」
 クレアは屈託のない笑みで、たった今びしょ濡れになった二匹に聞いた。
「クレアさん! いつの間に……」
「ちょっとー! 今いいところだったのに! ってうわぁ!」
 ふくれっ面のバハムート、そしてやや驚いた様子のリヴァイアサンに、クレアが飛び込み押し倒した。けっきょくのところ、港の倉庫街は二匹の龍の背中に完全に押しつぶされてしまった。
「もう一人じゃないんだよ、ってね」
 クレアは両の手で抱きしめた二匹に甘くささやいた。
「なんだ、聞いてたの……って、私のセリフ取られたぁ~っ!」
「あはは、良いじゃないですか。今のはクレアさんの完勝ですよ」
「……そうね」
 バハムートは満足そうに眼を閉じて、ほっと息をついた。
 帝国を良く思わないものはごまんといる。今回の件はそれが露出したほんの一例に過ぎないのだろう。でも人生万事塞翁が馬。今は、こうして新たな仲間と出会えた幸せを噛みしめることにした。




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リヴァイアサン
年齢 だいたい1000歳
全長 3400メートル
体重 4億4千万トン
 半身は魚、半身は人。いわゆる人魚。海にいる間はめっちゃ強いが陸に上がるとたいして強くない。一応脚も出せる。
 普段はとてもおとなしく、今回の件があるまで存在も知られていなかった。都直下の深海で暮らしていたため大変色白。

リヴァイアサン(縮小時)
全長 170メートル
体重 5万5千トン
 バハムートと接するようになってからはこの大きさで暮らしている。頻繁に都に姿を現すようになった。


龍の強さについて
 龍には基本的に魔法攻撃が効かない。龍自体が莫大な魔力の塊で、簡単に相殺されてしまうため。故に龍にダメージを与えるには物理で殴るか、あるいは相手の魔力を遥かに上回る量の魔力で圧殺するしかない。要するに人間には無理。
 そんなわけで体形に恵まれず、魔法を得意とするバハムートは実は龍の中では弱い部類に入ってしまう。いろいろ便利なのだが、対龍戦闘は苦手。
 逆にクレアは龍の中でも桁違いの規格外。巨大化して物理で殴る。これ最強。体が大きく、魔力もほぼ無尽蔵。チート。多分誰にも止められない。
 リヴァイアサンは海にいればかなり強い。陸に上がるとバハムートと同じ程度。