<10 全ての終わり>
一度壊れたものはめったに元には戻らない。そして今回のハンナの一件で壊れたものは『世界』そのものである。
アメリカ合衆国は崩壊し、人間も大半がいなくなった。
かつての共和制を、この焼け野原の灰から復活させようと奮闘する派閥も存在した。
しかし、現在のアメリカでは、ダムや川からはすでに大量の水が失われ、どこに流れ水というものは存在していないのである。

ハンナは現在、30歳半ば。デイビッドと共に、ジョージアのある居住域でひっそりと生活していた。
そこのリーダーはできる限りハンナたちを2人きりにして、ハンナが常備する成長抑制剤の確認以外には何もしなかった。
そしてその時にはいつも、薬が用意されなくなる日について話し合った。

ハンナの存在は世界中が知るところであり、またハンナの暮らすこの居住域はかつて、熾烈な戦いの起こった場所だ。
ジョージアはハンナを抱えるのにうんざりしていた。薬の製造についても、国にたいして僅かな税金を課すことを、さも当たり前のように要求していた。
しかし国も、ハンナが巨大化して誰かに兵器として利用されることを恐れていたため、それに従っていた。

ハンナは、この街が好きであった。しかし、心のどこかで、ここは自分が生まれ育った『あの』街ではないと感じていた。
ハンナは、いつか政府が薬を支給しなくなる日を想像しては、物思いにふけった。ハンナはその日が来るのが怖かった。
ハンナはどんな時でも、この世界に絶望をしたことはなかった。心のどこかで、信じていたのだ。
崩壊した後の世界であっても、その信念は、変わっていなかった。

また、ハンナとデイビッドの選択の自由も、制限されていった。
デイビッドは、自分たちの居住域が徐々に軍事関係の色が強くなっていくのに反対した結果、南部政府の幹部から外されてしまった。
その結果、ハンナとデイビッドの自由はこの10年間でほとんど0にまで制限されていたのだ。
現在、2人は国に対して一切の発言もできず、言ってしまえばイジメのような扱いを国から受けていた。
居住域はアラバマ、フロリダと合併して巨大化し、さらにはケッタッキー、南カロライナの一部をとり込もうとしていた。
それは、ハンナと地域の緩衝地帯になろうとしてのことであった。

絶え間なく続いた戦争は、数多くの犠牲者を出し、それに伴いジョージアの軍隊は、かつての共和制を渇望し、革命のための準備を刻々と進めていた。
かつての疾病予防管理センター(CDC)は、現在武器製造工場に再利用されているという噂が立っているほどであった。
ハンナの居住域は、かつての安全地帯から一変して、軍事施設や医療施設で栄える『北部』の一部となってしまった。
そこの病院でデイビッドは働いており、ハンナはそれを補佐しているのだ。

ある夕方、ハンナとデイビッドはベランダで話していた。
「ねえデイビッド、子どものことだけど・・・・・・本当に、後悔していない?」
この手の話題は、ハンナがしょっちゅう投げかけるものである。デイビッドは一寸のためらいもなく、返事をする。

「ハンナ。君との生活を、僕は一度も嫌に思ったことはないよ。確かに君は過去に過ちを起こした。
でも、それがなかったら僕らは今、こうやって一緒に過ごすことはなかったじゃないか」

そして2人は共に微笑みあった。・・・・・・しかしハンナは時々、自分の運命を嘆くのだ。
薬の力を借りなくては自分の大きさを維持できず、その副作用として生殖器が子どもを作れないようになってしまうのだ。
もちろん、子どもがいなくても幸せになれると、ハンナは思っていたのだが・・・・・・2年ほど前までは。
自分の髪に1本の白髪を見つけた時、ハンナは自分の運命というものを嘆き、自分をこのようにした神の意志を恨んだ。
ハンナは今直ぐ薬の服用をやめて、子どもを作ろうと思った。しかしそれをすれば、ハンナの成長は再開するのである。

巨人女が歩きまわって世界が終わるというのと、子どもが巨大化し、無邪気に辺りを破壊し尽くすというのは同じことである。
そう思い、ハンナは子どもを作るのを諦めた。そして今にいたり、ハンナは夫のデイビッドさえも子どもを持てなかったということを非常に申し訳なく思っていた。
ハンナは時々、自分の結婚式の場面を思い出しては、デイビッドが他の誰かと結婚していたらと想像を巡らすのだ。
そして想像しては、頭を振って無理やり気を逸らす。こうしていつも、ハンナは自分の正気を保ってきた。

病院からサイレンが鳴り響いた。ハンナ夫婦の家から病院までは数キロ離れているが、それでも問題なく聞こえるほどのサイレンである。
そしてそれを聞くなり、ハンナとデイビッドはベランダの椅子から立ち上がり、急いで階段を駆け降り、病院の方へと急いだ。
聞き覚えのあるサイレンであった。これは、他国の襲撃を知らせる類のものである。そして他国の狙いはもちろん、ハンナの捕獲か殺傷なのである。
ハンナは覚悟を決めて、ここよりも安全だと考えられる北の方へに進んだ。

ハンナは、辺りを破壊し尽くす男たちの姿を見た。きっと、ハンナ以外の誰人も想像できない、すさまじい様子であった。戦争は、こんなことも可能にしてしまうのだ。
病院に近づくにつれ、ハンナは今の状況というものが益々不安になってきた。病院に向かっているのは自分たちだけであり、皆、病院から逃げ出しているようなのである。
ハンナの居住域の人は皆、応急処置程度のの医療行為はできる。かつて、軍病院のスタッフとして収集されたことがあるためだ。
あちこちから聞こえる、人々の叫び声。誰もが顔を青くして逃げている。・・・・・・軍は何をしているのだろうか。
作戦に失敗し、ここ北部が乗っ取られてしまっているのだろうか。それとも、想像をはるかに超える規模で侵略が進んでいるのだろうか。
ハンナは足を止めた。後ろについてきていたデイビッドも、ハンナの隣で止まる。

「ハンナ、どうしたんだい? 早く病院に行って、人々の治療をしないと。皆、僕らの到着を待っているはずさ。さあ、早く行こう!」

ハンナはデイビッドを見下ろして、言う。

「・・・皆、病院から逃げようとしているわ。私達はむしろ一刻も早く、この辺りから離れる必要があるんじゃないかしら」

デイビッドはハンナの大きな手を取り、ハンナを説得する。

「なら一層、病院に行かなきゃ! 行って、君の薬をできるだけ多く確保しなきゃ。
病院はこの辺りでは一番安全なところだ。軍隊がそこで援軍の準備ができるまで待機しているはずだよ」

デイビッドの言い分はよくわかった。しかし周りの人は皆、病院から逃げているように思えたるのだ。ハンナはデイビッドの憶測は間違っているのではと思った。
しかし、ハンナはデイビッドに従う。それは、デイビッドが最愛の夫であるからだ。ハンナはこの場で、デイビッドと離れたくないのだ。

2人は病院に到着した。その瞬間、銃撃の音は高まり、病院内部からの叫び声が辺りに木霊する。ハンナとデイビッドは、お互いの顔を見た。
疑惑の色が、デイビッドの顔に浮かんでくる。デイビッドは、米国の軍隊の到着が、デイビッドの予想よりもはるかに遅れているということを察したのだ。
それはつまり、病院に避難したことは全くの見当違いであったということを意味する。

「・・・・・・親愛なるイエス様へ。私達はどうなるのでしょうか・・・・・・」

マシンガンの銃声が、病院中に響き渡る。

「・・・・・・ここはどうなってしまうのかしら」

ハンナがそう、デイビッドにつぶやいた。デイビッドは、肩をすくめる他はない。人の悲鳴が、銃声を一瞬だけかき消した。
・・・・・・ぬっと、上の階に病院職員の姿が見えた。制服姿でライフル銃を構え、腕と首から血を流していた。
それを見て2人は階段を駆け上ったが、その男は転び、階段から落ちていった。
骨の折れる音が、2人にも聞こえた。大量の血が、その男から流れ出てきた。
ハンナとデイビッドは、その男のそばに近寄る。男の腕と首には無数の噛み跡があり、そこから血がにじみ出ていた。
男はハンナの腕にしがみつき、デイビッドは止血しようと試みる。

「奴らはなぜ死なないんだ! 俺はライフルの弾を3ケース使ったが、ちっとも効かない。胸に命中させたのに・・・・・・」

ハンナはどうにか男を落ち着かせようとしたが、男の心臓は徐々に弱まっていく。・・・・・・血を出しすぎたのだ、残り時間はもう少しであった。
ハンナは男に質問を投げかける、答えてくれることを祈りながら。

「・・・・・・誰が、こんなことをしたんですか?」

答えは大体予想がつく。しかしハンナは、はっきりとそれを知りたかった。男はゆっくりと静かに息をしながら、その質問に答える。

「・・・・・・奴らはくる。そして奴らは死なない」

2人が最初に来た頃に比べて、銃声は小さくなってきた。しかし、病院内部からの悲鳴は激しさを増している。ハンナはデイビッドの手を取り、一緒に男から離れようとした。

「・・・・・・彼はもう旅だったわ。さあ、もうここから出ましょう」
「ハンナ、僕はこの場を去る気はないよ。僕は医者さ、残っている人を助けるんだ。」

デイビッドは、ハンナの腕力に抵抗しながら、そう言った。
デイビッドのこの正義感は、デイビッドの良さの1つである。しかし、もしも今この場から離れなければ、2人は死んでしまうのだ。

「あなたは、さっきの言葉を聞いていなかったの? ここはもうおしまいよ。早く逃げないと、私達も、彼と同じ運命をたどることになるわ」

ハンナはデイビッドに尋ねる。その時、病院のエントランスに大勢の人がよろめきながら、そして唸りながら入ってきた。
目はウツロであり、口をパクパクさせている。ハンナはその光景を見た時、映画の一場面が頭に浮かんだ。・・・・・・ゾンビ映画の一場面であった。
恐怖心が体中を駆け巡り、アドレナリンが噴出する。
ゾンビが階段を上ってきて、腕を伸ばし背伸びしてデイビッドの右腕に噛み付こうとした。ハンナはデイビッドを腕に抱えて、逃げようとしたが・・・・・・時すでに遅し。
デイビッドは悲鳴を上げ、ゾンビを払おうとしたが、ゾンビはデイビッドの右腕を、ビーフジャーキーのように噛みきった。

ハンナはそれを見て、頭が真っ白になった。10年間共に歩んできた、ハンナの最愛の夫デイビッドが、この瞬間にバケモノと化してしまったのだから。
ハンナの心臓は、ここ数年で一番の高まりを見せていた。
ハンナは自身の強大な腕力の全てを込めてデイビッドの腕を引っ張り、ゾンビからの束縛を開放する。
ゾンビはどうにか立ち上がろうともがいているが、まだ「人間」であった頃に頭の大半が破壊されたらしく、それはできない。
ハンナは、デイビッドと共に何かができる気がしなかった。デイビッドを救うことができず、本当なら、この場に置いていく他ないのだ。
・・・・・・ハンナはデイビッドを腕に抱えて、走りだす。家まで数キロメートル、ハンナは走りだした。

病院から逃げてきた人々の死体にいくつも出会った。ハンナの最愛の友人の中には、瓦礫の下に埋もれてそのまま亡くなってしまった人もいた。
そして残された人は、この非常事態で生き延びるべく死体の骨をしゃぶり余った肉を食べていた。
ハンナは、目の前の光景に対して目を逸らそうとした。さらに、どうにか家に戻った時には、デイビッドの意識は消えようとしていた。

「お願い・・・・・・目を開けて・・・・・・」

ハンナはデイビッドをリビングの椅子に寝かせ、声を上げて、デイビッドを励ました。
デイビッドは返事の代わりにただうめき声を上げるだけだ。ハンナはデイビッドをそこに寝かせ、安全のため、ドアを見張ることにした。
・・・・・・外では、妙なことが起こっていた。あちこちに落ちている無数の死体。ハンナがそばを通ったのに気が付き、一斉にハンナの家の方へと動き出したのだ。
ハンナはそれに気が付き、心臓を一層バクバクさせた。この緊張はよくないものだ、極度の緊張によって、薬でもハンナの巨大化を止められなくなってしまうのだから。
ストレスは巨大化の引き金だ。そしてゾンビの歩みは、ハンナのストレスを極限まで引き上げる・・・・・・

ハンナの後ろで音がする。デイビッドが、椅子から起き上がってきたのだ。ハンナは振り返り、デイビッドを見た。
・・・・・・光のない目で、唇を震わせていた。病院での光景が、ハンナの脳裏に鮮明に蘇ってくる。
ハンナの頬を涙が伝う。そして、ここ10年間感じてこなかった、あの、懐かしい感じが、ハンナの体の奥から沸き上がってきた。
ポキポキと骨が鳴る。巨大化が始まる合図だ。ハンナの巨大化によって、人々は迷惑を被ってきた。しかし今は違う。
世界は終末を迎えるのだ。それは決して、ハンナの手に寄るものではない、ハンナはただ、この終末に招かれたに過ぎない。

これは、ハンナの唯一の事故防衛の手段でもある、ハンナは、自分の巨大化を急いだ。奴らの仲間になってしまう前に、巨人となりたいと思った。
デイビッドは立ち上がり、すり足でハンナの方に向かってくる。ハンナのふくらはぎは膨張を始め、スボンを圧迫し始めた。
ハンナのシャツの裾はスルスルと上の方に上がっていき、お腹が丸出しになる。そして上の方のボタンは、パチンといってはじけ飛んだ。ハンナはの身長は数メートルに達した。デイビッドはハンナに近づいてくる。ハンナはそれをつかみ、投げて玄関のドアを突き破る。ゾンビの歯では、すでにハンナの皮膚を噛み切ることはできない。
ハンナの巨体は階段を下り、玄関を突き破る。その勢いでそこにいたゾンビたちの大半を蹴り飛ばし、地面に叩きつけて地面を不快に湿らせた。

ハンナの靴は今の一撃で擦り切れてしまい、ハンナはそれを少しばかり残念に感じた。
この靴は、多分最後の女性用15サイズ(30cm)の靴なのだ。側面はちぎれ、先端は指が突き抜け、足首のあたりにプリントされたトレードマークの星は擦り切れている。
部屋がハンナの体でいっぱいになった。部屋の端から端までは3.6mであり、それ以上なのは確実だ。
・・・この家でハンナが過ごした時間は10年以上。たくさんの思い出が、壁に染み込んでいた。
しかし今のハンナにとって壁は脆く、そして邪魔なものである。ハンナは壁を突き破った。ハンナは、自分の人生を壊したものが何かを探るべく、ハンナは動くのだ。
ズボンや尻の布は引きちぎられ、袖の布は上の方まで上がっていき、やがて縫い目からビリビリと千切れていく。
ハンナは膨らんだ胸と手で前の壁を押し、壁を破壊し、家を倒壊させる。それでも残っている巨大で邪魔な木材は手で2つに折った。
・・・実はこの木は、屋根を支える大黒柱だったのだ。しかし今のハンナにとってこれは棍棒である。

ハンナは家を破壊して外に出た。4.6mのハンナにとって、家から離れるのは別に怖いことではなくなっていた。
ゾンビがあちこちからハンナの方を目指してやってくる。ハンナは棍棒を振りかざし、それらを容易に叩き潰した。
ハンナは潰れた死体を飛ばすものの、奴らは再び立ち上がり、ハンナの方に向かってくる。
今のハンナからは、町の火事が見える。そして、苦痛や恐れの叫び声がハンナの耳に届く。
ハンナはそれを見て、皆を助けたいと思った、しかし、死体の匂いがあまりにキツく、辺りに漂っている。・・・・・・すでに大多数の人は、息絶えているのだ。

ハンナはゾンビの群れを足でひたすた叩き潰す。できるだけ多くのゾンビを、踏みにじり、全体重をかけて圧迫する。それでも奴らは這い上がってくる。
いつまで、こんなことが続くのか。日は落ち、空はすでに暗い。炎は好き勝手に燃え続け、煙は充満し、叫び声は絶えることを知らない。
ハンナの棍棒は数カ所を破損し、武器と言えるものは、ハンナ自身のみであった。ハンナの身長は現在6mで、一糸まとわぬオールヌードである。
彼女の美しく長い脚の下には、ゾンビの生ごみが溜まっている。

数少ない生存者は、ハンナを見つけるや、できるだけそばにいようとした。しかしこれは長続きしないなと、ハンナは思った。
ハンナの近くにいることによる安全は、ハンナが眠りにつけば崩れる。また、ハンナの食事の問題もある。ハイリスクローリターン、バカな話だ。
辺りが暗く、穏やかになってきた。色々なことがあった1日だった。もっとも、それはハンナに限った話ではないが・・・・・・

バラバラバラバラ・・・・・・バラバラバラバラ・・・・・・
ヘリコプターの音が近づいてきた。生存者たちはヘリコプターに向かって口々に、生きたい、助けてくれと叫んだ。
生きたい気持ちは、ハンナも同じだ。もしかしたら、ヘリコプターが自分たちを助けてくれるかもしれないと思った・・・そのヘリが、戦闘用であることに気づくまでは。
ヘリは地面に銃口を向けてハンナを、そしてハンナ周辺の生存者たちを撃ち始めた。

状況は最初と何も変わっていないのだ。周りにあるものは全てが崩壊し、ゾンビは人間を食べようとし、軍隊は相変わらずハンナを殺そうとしている。
ハンナの心に炎が灯る、ずっと忘れていた、あの時の感情が蘇ってきた。ハンナの手によって、この世は再び地獄と化するのだ。
ハンナはさらに巨大化する。うまく使えば、この体は人助けになるが、もう、救いの必要な人間はいない。権力にすがる者にとって、ハンナは今でも邪魔者であった。
人食いゾンビの群れよりも恐ろしいものが、冬眠から覚めてしまった・・・・・・