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世界中のいかなる超高層ビルよりも巨大になった気分というものは、そんなに良いものではない。
むしろ不自由で、不快で、辛い。
ハンナの鼻がある高さは空気が薄く、息苦しかった。
狭く窓のない部屋に閉じ込められているようなものであった。
ハンナの目線から地上のことはよくわからない。
道路の近くに自分が立っているということくらいしか分からない。
地上をよりしっかりと観察しようと思ったら、体を横にして、目を地面に近づけなくてはならない。
しかし、そうやって観察する地上の光景は、ハンナにとって楽しいものではない。
ハンナの体はあまりに巨大すぎて、少し動くだけでも多大な被害を及ぼすのである。
そして、ただ地上を見たいと思って横になり、地上を見れば、そこには災害の事後が見える。
そして、ハンナは再び、地面の点々が人間であり、
自分が非常に深刻な脅威となったことを再確認するのである。
ハンナの周りは、あたかも戦争が起きたかのように荒れ果てていた。
ハンナはその光景を見て、泣いた。
しかし、ハンナには何もできない。
それどころか、ハンナには絶望への道しか残されていないのだ。
これ以上巨大化すれば、世界は滅亡する。
そして自分は、その終末世界で最期を迎える。
仮に巨大化が止まったとしても、ハンナを養えるだけの食事があるはずがない。
世界は、数多くの尊い命を残しながらも、ハンナによって壊されてしまったのだ。
ハンナは地上の人を見て、話しかけてみた。
「こんにちは、調子はどうですか? 私に何か、手伝えることはありますか?」
しかしその声は、まるで隣に稲妻が落ちたように巨大で、ショックなものであった。
その衝撃で、人々は地面に倒れ、鼻や耳から血を出した。
ハンナと人間のコミュニュケーションは、当然叶わなかった。
巨大化の際に大半の物は破壊された。
しかしハンナに辛うじて壊されなかったものもいくつかは残っており、
それらはたいていひっくり返っていた。
ハンナはそれを、元々の状態に戻した。
車、トラック、戦車などが横になっていたら、それを普通の状態にした。
そして人々は、ハンナが立たせた乗り物に乗って、ハンナから遠ざかり、ハンナを1人にした。
これが何を意味するか。自分はもう、決して人の役に立つことはできない。
ただ、邪魔なだけ。ハンナはそうなのかと思うと、非常に恐ろしくなった。
そして、空腹になっても食事を持ってきてくれる人はいない、
ハンナは腹を下にして寝ていた。
その体制に疲れ、ハンナはゆっくりと転がり、脇。腹を横にし、立ち上がる。
被害を最小にできる立ち上がり方である。
そしてハンナが立ち上がると、周りにいた軍の人は退散した。
ハンナは以前に転んで、多くの車や戦車を破壊したことがあった。
当然そこには、人が乗っていた。
気持ちが悪くなり、吐こうとしても吐けない。
ハンナの胃袋には、もう何も残っていなかった。
ハンナはふらふらと立ち上がり、周りを見渡す。
今のハンナであれば、何マイルも遠くを見ることができる。
そして、地平線の向こうには街があるのだと、ハンナは思った。
自分から人を踏みに行くほど、ハンナは気が狂ってはいなかった。
しかし、街があれば、そこには食べ物があると、ハンナは思いついたのだ。
ハンナは今、アトランタから240kmほど離れたところにいる。
しかし今のハンナなら、10分から15分くらい歩けばそこに着く。
軍隊は、アトランタの南で防衛線を張っていた。
そして、迫りくるハンナとコミュニケーションを取ろうと、軍隊は必死になっていた。
軍隊の使命は、ハンナを街の手前で止め、ハンナを服従させることであった。
もしこれに失敗したのなら、軍隊は武力で持ってハンナを足止めすることになっていた。
ハンナによる犠牲者数は、まだ正確には分かっていない。
しかし、ハンナの最後の巨大化の際に、3000人は死んだだろうと推測されている。
科学者の見解では、ハンナの巨大化が終わる予兆は感じられなかった。
さらにハンナの巨体に十分な食料もなく、また国が管理することも厳しい。
ハンナは、かつて地球に存在した全ての生物よりも巨大であり、
しかもさらに巨大化を続けている。
科学者の推定では、あと1週間で北アメリカよりも巨大になり、
次の週には地球よりも巨大になる。
そこまで進まなくとも、ハンナが国ほどの大きさまで巨大化すれば、それは人類の終わりを意味する。
ハンナの巨大すぎる体重は地球の軌道を変える。
それからまもなく、地球上の全生物が死ぬということには、説明の必要もないだろう。
18歳の少女を、その巨大さ故に殺すという事実は、誰も望んでいない。
しかし人類存亡の危機ともなれば、これはもはや殺しではなく、防衛である。
南の防衛線を、ハンナは通り抜けてしまった。
そこには巨大な電光掲示板があり、文字がピカピカと点滅し、巨大な音楽が流れていた。
しかしハンナは、全く気づくことなく通り過ぎた。
そして、人々が何かを言いたそうにしているのを見て、足を止めた。
ハンナはやっと、巨大電光掲示板に気がつく。そして点滅している文字を読んだ。
「ハンナさん、立ち止まってください。
皆の平和のためにも、これ以上北に行かないでください」
ハンナは首を縦に振り、小声で「はい」と言った。
地上では大音量が響き渡った。次の文字が表示される。
「街に多大な被害を出すので、街には入らないでください」
ハンナは再び首を縦に振り、「はい」と言った。そして、次の文が表示された。
「アメリカの市民を守るためにも、ハンナさんにはとにかく、我々と縁を切ってほしい。
どうかご理解をおねがいします」
ハンナは大きなショックを受けた。
そしてもしハンナが街に入れば、軍はハンナを攻撃するのだろうか。
そう思えば、ハンナの頭には怒りがふつふつと湧いてきた。
冷静に考えれば、これは市民を守るための軍の使命である。
しかしそれでも、ハンナはこの理不尽で急な判断に、怒りを抑えることはできなかった。
ハンナは軍に、食事を要求した。軍隊は再び、文字を表示した。
「手配します。しかし、ハンナさんを満足させるだけの食べ物を集めることは不可能です。
ご理解をおねがいします」
ハンナの頭に血が上った。怒りで顔が赤くなった。
しかし、軍隊の言わんとしていることが、ハンナにもだんだんと理解できてきた。
最後の文字が、表示された。
「ハンナさん。どうか理解してください。
もし貴方がさらに巨大化すれば、我々は貴方を攻撃します。
我々が生きるためには、そうしなくてはならないのです。
どうか、ご理解をお願いします」
ハンナの頬を、涙が伝った。
遅かれ早かれ、米軍はハンナを攻撃する。
ハンナはただ、平和に生きていたいだけであった。しかし、こうなってしまった。
ハンナは祈った。戦いが始まった時、この小人たちが勝ちますようにと。
世界は、ハンナほど巨大な人間を養えるようには、できていないのだから。
ハンナは涙を流しながら、そう祈った。
その時を待っていたかのように、ハンナは再び巨大化を始めた。
軍隊の宣言通り、遠くの方から、ジェットエンジンの轟音が聞こえてきた。
地面ではところどころ、小さな爆発が起こった。
戦争の、始まりであった。