冬の虫

作:湯田

■注意とお願い
 作中にいわゆる「サイズフェチ」描写があります。
そういうものに興味のない方は、読むのをお控えいただくことをお勧めします。
またフィクションでありますので、作中の名前・地名・文化風俗等は全て架空のものです。

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一段と冷え込んだ冬の午後、授業を終えた生徒たちが学校から出てきた。
三々五々、思い思いに歩いている中に、数人の少女が混じっていた。
彼女たちは落ち葉を踏みながら校門に近づく。
居た。あの娘だ。
通り過ぎたあと、向かいの通りに居た男は目立たないように動き始めた。
「寒くなったよね」
「ねえ」
「風邪、引かないようにしなきゃね」
「冬ってやだよね。寒いし!」
「でも、あんたはいいでしょ。あんた虫、苦手でしょ?冬は虫、出てこないし」
「そうだ、それはいいな。こう寒くなると、昆虫たちは全滅かな?」
「それがね、蝿とかの中には、冬も越すのがいるんだって」
「ええっ?」
「家に帰ったらよーくみてみなよ。結構いるんだってさ、これが」
「えーー。やだーーーー」
「まあ、文人墨客の中には、これが人の哀れを感じさせるとか言って、
これを歌に詠んだりしてる人もいるんだな」
「なにそれ、ばっかみたい」
「そう、で、この冬の虫、活かしておくと、後で何百匹の子供を産むことになる。
で、それが夏になると大挙して出てくるんだって」
「げげっ」
「なにそれ、やだぁ。見つけたら直ぐ潰さなきゃ」
「でも、何だかかわいそう…」
「かわいそうって、後で虫が湧き出てきてもいいの?こう、うじゃらうじゃらと…」
「ぎゃあ、やめて!」
「うーん。退治しなきゃいけないのか。でも、潰すのやだなぁ」
「やるっきゃないでしょ」
男はしばらく、他愛のない会話を交わす少女たちについて歩いた。
怪しまれないよう距離を取り、視線を別に向けるのを忘れない。
男はバッグに隠した小型カメラをさりげなく彼女たちの方に向ける。
そして彼女の方を向いた一瞬、素早くシャッターを切った。
一見目立たないが、色白で、ぱっちりとした大きな目で、柔らかい表情を浮かべているあの少女。
彼女こそ男の目的だった。
何百枚も、何千枚も、こうやって彼女の写真を撮った。
そうやって写し取った彼女の肢体を眺める事こそ、彼にとって至福だった。
だが今はもう、それでは満足できない。
これから、もっと素晴らしい試みに挑戦する。
今日は新たなる一歩を踏み出し、新しい世界に飛び込む日だ。
「じゃあ、さようなら」
「さようなら」
「またねー」
気がつくと、少女は仲間たちと別れの挨拶を交わし、一人別の道を歩き出していた。
いけない。
急がないと、間に合わない。
男は少女と反対側に向けて駈け出した。

階段を上ってきた男は息を切らせていた。
このマンションは、エレベーターでは途中までしか行けない。
それに誰かに見られる恐れがある。
非常階段なら、壁に覆われていて外からは見えない。
何度も偵察して、掴んだことだ。
息を落ち着かせてから、男は鎖を乗り越え、最後の行程に入った。
鎖錠された扉の横の、ごく狭い隙間を通って屋上に上がる。
それはぎりぎりの幅だった。
落ちたらもちろんただでは済まない。
男は慎重に手足を動かし、登り切った。
屋上に上がっても、男は身を屈めたまま、静かに移動した。
このマンションはこの一帯では一番高い建物だ。
上から見つかる恐れはないが、うっかり見つかりでもしたら元も子もない。
それに、床にはあちこちに亀裂が見える。
引っ掛けたら面倒だ。
男はマンションの端ににじり寄った。
壁は男の腰よりやや低いぐらい。底から上は柵だ。
マンションは建築されてから、かなりの年月が経っている。
壁のところどころにひび割れが目立った。
男は身をかがめたまま、周りを伺った。
しばらくそのままの姿勢で過ごす。
よし。
周りには誰も居ない。
男は懐から、ゴーグルを取り出した。
ただのゴーグルではない。
双眼鏡と暗視、そして画像記録の機能まで備わっている、特別製だ。
こいつを手に入れるには、随分と手間がかかった。
男は含み笑いをしながらゴーグルを装着し、スイッチを入れる。
目の前に起動画面が広がり、直ぐに数カ所に表示される数字以外は裸眼と変わらない景色が眼前に映る。
いや、裸眼以上だ。
男は身を乗り出した。
街の景色が眼前に広がる。
男はそれには目も向けず、画面を微調整しながら目的へと向けていく。
もうすぐだ。
男は慎重に操作する。
画面の真ん中に、一軒の家が映った。
男はゆっくりと倍率を上げていく。
這うように男の視線は家に近づき、さらに二階の窓に寄っていった。
ガラス越しだが、部屋の様子は見て取れる。
居る。
男は、ごくりと唾を飲み込んだ。
ぼんやりと浮かぶ対象に焦点を合わせる。
居た。
それはあの少女だった。
彼女は既に着替えたらしく、私服姿で机に向かっている。
間に合わなかったか。
男は軽く舌打ちした。
まあいい。
機会はこれから、いくらでもある。
彼女は気づいていない。
彼女の居る家と男の居る建物はかなり離れている上、高さも違う。
覗かれているとは想像もしないだろう。
彼女は窓にカーテンもしていない。
覗き放題だ。
これからじっくりと、あの娘を眺められる。
着衣も脱衣も、寝姿も、裸も。
俺は彼女の全てを知りたい。
知りたいのだ。
彼女はこの部屋でなら、思うままに行動するだろう。
それはどのようなものか。
愛らしく清楚な顔に相応しい乙女らしい振る舞いか、
歳相応のだらしのない行動か。
なんでもいい。
何を為すにも、まずは観察からだ。
生のままの彼女をじっくりと眺め回し、記録する。
知りたい。
それを満たすのは、人としての本能であり権利だ。
誰にも邪魔はさせない。

男の視界の中で、少女は机に向かっていた。
何をやっているのか、そこまでは判らない。
宿題か?手紙でも書いているのか?
男はもどかしかった。
ええい、もっと拡大できないのか。
だが、今のゴーグルの機能ではこれが限界だった。
くそっ、もっと良いのを手に入れないと。

彼女はしばらくの間机に向かっていた。
やがて一伸びをすると、彼女は立ち上がった。
軽く辺りの様子を窺う。
それから戸の方に行き、鍵を閉めたようだ。
そして戸棚に向かう。
屈みこむと、奥にあった何かを取り出した。
それを持って机に向かい、また椅子に座った。
先ほどと違い、ゆったりと浅く腰掛けている。
何をするつもりだろう。
もどかしい思いで、男は少女の姿を見つめる。
もっと拡大できないものか。
それに、音は何も聞こえない。
彼女が何をやっているのかは、映像から見て取るしかない。
カメラと、マイク。
それをあの家の中に置く。
何か方法はないか?
考えないと。
食い入る様に眺めながら、男は次の手立てを頭中で巡らし始めた。

少女はゆっくりと何かの書物を眺めているようだった。
心なしか、彼女の顔が赤らんでいるように見える。
何を見ているのだろう。
彼女が見ているものは、男からは見えない。
その時、少女の右手が動いた。
机の下に入り込み、そのまま出てこない。

ひょっとして。
巡らしていたものが、頭の中から吹き飛ぶ。
男は身を乗り出す勢いで見つめ直した。

「何をやっている」
男はいきなり、背後から押さえつけられていた。
「立て」
背中から詰問する声が聞こえる。
だが男は反応しなかった。
今は大事なことがある。
視界の先の少女は息遣いも大きく、今は口で息をしていた。
姿勢はいっそうだらしなくなり、椅子の背に斜めに背中を載せている。
彼女の左手がゆっくりと動いた。

「最近、このビルをうろついてる人間がいるという苦情が何件もあったので、注意していたんだ。
今日、似たような風体のお前が入ってきたので気をつけていたら、なかなか降りてこない。
もしやと思って見に来たら、案の定だ。
おい。何とか言ったらどうだ?」

男は何も言わなかった。
抵抗するつもりはない。
だが、それ以上に、今は大切なことがあった。
この瞬間を見逃してはならないのだ。
少女の右腕は小刻みに動き、その動きに合わせるように顔の赤らみが増している。
そして、左手は服の間からそっと胸の間に滑り込んだ。

「おい、いい加減にしろ!」
詰問が怒声に変わる。
背後から伸びてきて、ゴーグルを剥がそうとした。
駄目だ!それは許さない。
男は視線を少女に向けたまま、身を捩った。
「このっ…抵抗する気か!」
男は背後の人間を振り払おうとした。
逃げるためではない。
もう少し、もう少しだ。
柵に捕まり、視線を固定しようとする。
はっきりと朱に染まった少女の顔がぼやけながらも映った。

「そこから離れろ!危ないぞ!」
腰の辺りを掴まれて、男は離れまいとなお力を入れた。
「おい、何のつもりだ!
何か、体の下の方から異音が伝わってきたが、男はそれも無視した。
そんなものはどうでもいい。
今は少女の様子を探るのが最優先だ。
「おい、危険だぞ、聞こえないのか!」
全身の力でしがみつきながらも、男は一心に少女を見つめる。
彼女は口を開け、その上半身は小刻みに上下していた。
ああ、あそこに行きたい。
あそこで、彼女の姿を思う様眺めたい。
彼女の足音を聞き、声を聞き、匂いをかぎ、肌に触れ…それが、できるのなら!
「危ない、離れろ!」
姿勢がぐらりと傾く。
男の意識はそこで途切れた。


ここは、どこだ?
意識を取り戻した男は、辺りをうかがった。
肌寒い。
男が最初に感じたのは、それだった。
周りを伺おうとして、男は戸惑う。
妙だ。
景色が、変だ。
そういえば、ゴーグルは?
今の視界に数字は写っていない。
ゴーグルはかけていないらしい。
確かめようとした男は困惑した。
手も足も、動かせない。
そもそも、手と足がどうなったのか。
何故か自分の体は見えない。
どうなってしまったんだ、俺は?
男は視界を動かしそうとした。
すると、首を動かさなくても、視線は動いた。
とりあえず、男は辺りを見て取ることにした。
ここは屋内らしい。
周りは上も下も壁で囲まれていて、空気の動きがないことからも、それは察せられた。
随分と広い空間だ。
白い壁までは、相当な距離がありそうだった。
どこかの体育館にでも、連れ込まれたのだろうか?
男は何気なく下を覗き込み、息を飲んだ。
高い。
男は、とんでもない高みに居ることに気がついた。
先ほどまでいたビルの屋上より遥かに高い。
床までどれくらいあるのか。見ているだけで目眩がする。
男は恐る恐る視線を動かす。
先の方に白い物体がある。
真っ白な光沢のある材質で作られ、端は曲線で形成されたそれは、広々とした競技場のようだった。
その上でバスケットボールかサッカーか、ちょっとした球技なら十分にできる広さがある。
その下は、ぎゅっとすぼまっているようで見えない。
さら先には、同じ材質で作られているらしい、四角い形をした物体があった。
上はくぼんでいる。その右端に、金属製の柱が立っている。
その先は曲がり、下を向いてくぼみの方に向けられていた。
男は困惑した。
何となく、見慣れているような気がする。
だが、しかし、だとすると。
男は、物体の右手に視線を移す。
そこには、金属製の物体がある。
細かいところまでは見えない。だが、それは、男の知っているものの形に、実によく似ている。
まさか。
いくらなんだって、そんな。
マンションの守衛がやるとは思えないし、警察の尋問にしても、悪趣味だ。
だいたい、何の意味がある?
ひょっとして、ゴーグルを調べ、そのデータから、彼の宝を察知したのかもしれない。
だったら、まずい。大事なデータを…
いや、大丈夫だ。
彼の宝は、幾重ものプロテクトで守られている。
あれを突破できる人間は、この世にまだ居るまい。
破れるとしても、数十年は先だ。
男はほっと安堵した。

その時、壁を隔てて、重低音が伝わってきた。
ずぅん。ずうううん。ずううううううん。
何か、大きなものが、巨大なものが、こちらに近づいてきている事を示していた。
なんだ?
重々しい響きは、そこらの乗用車のものではない。
ブルドーザー?戦車?いや、馬鹿な。
それに、カタピラの動くときの音ではない。
断続的に、どおーーん、どぉーーーーんと、何か、大きく重いものが、
地面に打ち付けられる時の響きだ。
こんなものは…男はそれに近いものを思い出そうとした。
杭打ちハンマー?
それと…
映画館で見た、スクリーン一杯に広がる、地面をのし歩く怪獣。
男は脳裏に浮かんだものをかき消した。
馬鹿馬鹿しい。

音は、いよいよ近づいてきた。
男は思わず、身をすくめようとした。
だが、できない。
今の男に自由になるのは、視界だけだ。
男は、音のする方、男の左手の壁を思わず注視した。
広い壁全体がごうと音と立てて動いて開いた。
かき乱された空気の中から、ぬぅと大きな姿が現れる。
人の形。
女。
若い。
娘。
それは、あの少女だった。
途方もなく大きい。
顔だけで、男の何十倍、何百倍もありそうだ。
だが、男がそれが少女であることを、一瞬で理解した。
男が彼女を見違えることは、ありえない。
それに、少女と男の間はまだ遙かに離れていた。
だから顔の全体が見て取れる。
間違いなかった。
だが次の瞬間、少女は扉を閉めるとためらいなく一歩進んだ。
あっという間もなく、距離が詰まる。
たちまち男は少女の顔を眺めきれなくなった。
少女の顔を構成する一部の部位だけが、なんとか視界に入るのみだ。
男はちょうど、彼女の目の高さにあった。
口は見えない。
頭の上も見えない。
後頭部の襟も見えない。
見えるのは、横向きになった少女の顔の右の目と鼻、頬、耳、そして髪の毛の一部。
それだけが男の目に映る。
呆然と、男は少女の横顔を見た。
もともと大きめの目は、今はすさまじいばかりの、信じられないほどの大きさとなっている。
男など、問題にもならない。
もしその目の中に落ち込めば、たとえ体が自由だったとしても、目の縁を乗り越えられるかどうか。
睫毛は太く絡みつく縄となって、男を絡めとるだろう。
そして、少女が軽く瞬けば、男など一潰れするに決まっている。
それほどまでに、大きい。
頬はまだ赤みを残している。
時折動く髪の毛は、束ねた針金のようにばさり、ばさりと音を立てる。
もんわりと甘ったるい匂いが男に届いた。
彼女のつける、整髪料の香りだろうか?
髪の毛の間から、ほんのり色づいた耳が、肌色の渦巻きのような姿を覗かせる。
これも、入り込んだら助かるまい。
耳の奥には、底知れぬ暗い洞窟が深く延びている。
そこから出たくとも、耳のつくる皺ひとつひとつが、複雑な壁となって立ちはだかるだろう。
耳たぶがびくり、と動いた。
巨大な耳目を前に男は縮こまろうとした。
もし、彼女の目に入ったら。もし、彼女の耳に聞こえたら。
それは、男が今まで、全力で避けてきたことだ。
彼女に悟られてはならない。
彼女に、男の事を気づかれてはならない。
彼女に怪しまれることすら、あってはならない。
今はまさに、今までの何億倍の切実さで、それが求められている。
なんとかして、彼女の目、彼女の耳、彼女の鼻の探知から、逃れなければならない。
みつかったら、お終いだ。
理由も仕掛けも判らない。
ただひとつ確かなのは、少女と男の大きさの差。
今は、少女と男では、大きさが違う。違いすぎる。
人間どころか、人形、小人。
何らかの意志ある存在と、認識してもらえない大きさの違い。
見つかったら、それで最後だ。
男は、懸命に落ち着こうとした。
できることは…見ることだけ。
それと、聞くことだけだ。
逃げることすらままならない。
慌てても、もがいても、無駄だ。
男が落ち着きを取り戻す前に、少女が動いた。
彼女の全身が、大きく揺れる。
少女の巨体が動くたび、床と大気も共に揺り動かされ、それは男にも伝わった。
振動。
男は前後左右、右に左に振り回された。
止められない。
揺れが止まらない。
止めたくても、手も足も、動かない。
視線が揺れる、何も見えない。
音があちこちから響く。
男は振り回され、揺り動かされ、ゆさぶられる。
揺れがようやく治まってきた。
懸命に視界を求める。
正面にあった、あの大きな横顔はない。
どこにいったのだ、彼女は。
左右を見て、下を見た男は屈みこんだ少女を見つけた。
彼女は、真っ白な、巨大な蓋に片手をかける。
どおん、と音をたてて少女が軽々とそれを跳ね上げると、ぽっかりと、大きな穴が現れた。
その穴の底の真っ白なくぼみに、水が溜まっている。
間違いない。
男ははっきりと理解した。
目の前にあるのは、洋式便器。
今まで何度と無く見てきたものだ。
だが、あまりにも大きいので、把握しきれなかった。
いや、了解できなかった。
それが、少女と並べることではっきりと分かる。
いやでも、そうと認めざるを得ない。
ここは便所だ。
ここで彼女が何をするのか。
決まっている。
人が便所でやることといえば、掃除と、あとは…
少女はみしり、と音を立てて向きを変えた。
彼女の顔がこちらを向く。
男は思わず怯んだ。
だが、少女の目はこちらを見ていない。
彼女は顔を下に向け、両手を腰にあてていた。
少女がスカートを引き下ろす重音が男にも伝わる。
そして、彼女はためらいなく下着に手を伸ばし、一気にそれを下げた。
ああ。
そうか。
用をたすなら、その前に。
下着を脱ぐ。
男に、ずきりと痛みが走った。
せめてここに、あのゴーグルがあったら!
彼女の下着も、股間も、その間にある陰毛も、性器も、あまりに遠方にある。
あまりに遠すぎて、仔細が捉えられないのだ。
男は悔しさに身悶えした。

少女はずしりと重い音を立てて便座に座り込んだ。
あれほど広大な面積が、少女の尻で覆われ尽くす。
その振動が、また男まで伝わった。
彼女は俯いたまま、何かを待っているようだった。
口の間でなにか、呟いている。
こもった声は、はっきりとは男に伝わらない。
それにしても。
あの広大に感じられた場所が、ぐっと狭まったように感じられる。
そうか、この空間は、少女の体で満たされたのだ。
そして、自分。
ここにいるのは、少女と自分。
二人だけだ。
彼女と自分は、ごく近いところにいる。
だが、彼女は自分に気づいていない。
気づいているのは、自分だけだ。
自分は、自分だけが、少女を想うまま見ることができる。
聞くことができる。
嗅ぐ事もできる。
男は不思議な気持ちになった。

少女の体温に暖められたか、心なしか、周りの空気まで温まったような気がする。

男はふと、我に返る。
俺は、一体どうしてこうなったんだ?
彼女は一体…
その疑念を吹き飛ばすような音が響いた。
勢い良く流れる水流。
男の遙か下で、滝やダムの放水にも劣らぬ水量が、彼女の股間から落下していた。
真っ白な壁に水がぶつかる音は、便器に反響してなお一層轟く。
便座の穴から、跳ね返る奔流から水煙が浮き上がっていた。
それはゆっくりと昇り、やがて男の所まで届いた。
彼女の出す、臭い。
汗臭、それを押さえるための、制汗剤。
化粧。
髪に噴きかけた整髪料。
そして、今放出されている、アンモニア臭。
それらが入り混じって、男を包む。
男は、むせた。
咳は、出ない。
鼻と口があるかすら、男にはわからない。
しかし男の周りは、少女の出す臭気に包まれている。
匂いが男を押し包む。
彼女の体気に圧倒された男は、動けぬままその身を捩った。

黄金の放流は一分近くも続いた。
永遠につづくように感じられた迸りは、やがて勢いが衰え、
断続的になり、滴りになり、最後に一吹きして、そして止まった。
少女は右手にある、大きな白いドラムに手を伸ばす。
円筒のガスタンクより大きなそれ、トイレットペーパーを、彼女の手は安々と回す。
帆船の帆より大きな広さの紙が、無造作にちぎり取られる。
手にとった紙を彼女は股間に当てた。
表情も変えず、少女は雫を拭きとる。
そして、紙を穴の中にさっと落とす。
その紙の行方を見ていた少女の顔が、さっと上を向いた。
大きな目が、更に大きく見開かれる。
彼女の口が動き出し、ぼうんと開いた真っ暗な口内から、赤黒い舌が踊りだした。
少女の喉の中からごうごうと吹き出した音は、男には、言葉となって伝わらなかった。
ただ、巨大な音となって男を揺さぶる。
男の体は、揺れ始めた。
もとより身動きできぬ男は、いっそう縮み上がる。
まさか。
まさか。
まさか。
まさか。
まさか。
男の五感が悲鳴を上げる。
振動と轟音を共連れに、少女は勢いよく立ち上がった。
ぐいと顔が近づく。入ってきた時と同じで、もう、顔の全体は見えない。
だが、今度は彼女の視線が男を貫いていた。
少女は両目を寄せ、しっかりと男を見据えている。
間違いなく男を見据えている。
捉えている。
捕らえている。
囚えている。
少女の吐く息が男に吹き寄せ、生暖かい口臭が男に届いた。
彼女の耳がびくりと動く。
男は固まろうとした。
だが、少女の動きが生み出す大きな、あまりに大きな動きに、男は揺さぶられるしかない。

すっと、少女の右の手が動き出した。
家を数件まとめて叩き潰せそうな大きな拳が、男に近づく。
男は見ることしかできない。
やがてそのなかから、一本の柱が飛び出した。
太い、肌色の柱。桜色に彩られた、何十畳分かの面積の爪を持つ。
人差し指。それは、名の通り、真っ直ぐに男を差していた。
指はぐんぐんと近づく。
視界が肌色で覆われる。
指先と爪と間の裂け目が、暗渠を覗きこんだ時のように広がった。
爪先が庇のように男を覆う。
指先の指紋が、大きな紋様となって顔の前に迫る。
男は固まって、それを待ち受けることしか出来ない。
指紋は大きく広がり、溝の走った肌色が男の視界をすべて塞ぐ。
指先の造る影が、男を暗黒に包む。
とてつもない圧力が、自分を押しつぶし、引き伸ばしていく。
男は途方もない苦痛に、音にならない叫びをあげた。
そして。
意識はそこで途切れた。



少女は火照った体を廊下の冷気に晒して歩いていると、消防のサイレンの音が聞こえた。
火事かな?病気の人かな?それとも、怪我をした人かな?
音の大きさからすると、少し離れたところの出来事らしい。
まあ近所でないなら、いいか。
意識をそこで切って、彼女は突き当りのトイレの扉を開け、中に入る。
寒いなぁ。
一歩進んでぶるっと震えてから、彼女は便座を上げて座った。
「やだなぁ、寒くなると、トイレが近くなって」
やがて勢い良く、股間から小水が出始める。
体から暖水が流れだすに従い、彼女の緊張も解けていく。
ふう。
放尿を終え、紙で股間を拭った彼女はふと壁を見た。
「やだ、なにこれ」
立った時、彼女の顔のあたりに、黒い小さな点がある。
思わず彼女は、下着をはだけたまま立ち上がった。
躊躇なくまだ洗わぬ右手を上げ、人差し指を伸べる。
ぷちり、という感触すら無く、それは潰れた。
いけない、染みが付いたかも。
急いで壁を見る。幸い、壁に汚れはなかった。
少し安堵して、少女は手の先を改めた。
指先に薄黒い滓が付いている。
顔をしかめ、左手だけで下着とスカートをたくし上げると、直ぐに彼女は洗面台に向かった。
石鹸を付けて両手をこすり、水で洗い流す。
汚れが手から消え去ったのを認めると、タオルで手を拭きながら少女は呟いた。
「冬の虫って、やっぱり嫌」
彼女は便器の水を流し、あらためて服装を整えると、トイレから出て行った。