間の街 ver3

作:湯田

 このお話は、以前上げていた「間の街」の更新版のそのまた更新版です。
また、巨大な女の子は、顔すら出てきません(汗)
なんだそりゃ、という方や、以前読んでつまらなかったという方は、
申し訳ないですが読むのを控えていただいた方がよろしいかと存じます。

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 もうお昼にほど近い時間、ある修理工の店で電話が鳴りました。
ある公園の街灯の明かりがつかないという知らせです。
「はい、承知いたしました。ええ、上の公園ですね。判りました、ではすぐ向かいます」
修理工は電話を置くと、工具箱を取り上げました。
この中には、彼が仕事で使う道具が全部入っているのです。
中身をさっと確認すると、修理工は立ち上がって店を出ました。
彼は口笛を吹き吹き、工具箱を抱えて街中を歩いていきます。
賑やかな街先には、いろんな店があります。
雑貨屋に果物屋、文房具店に時計屋さん。
靴屋の店先には高そうな靴が置いてあります。
洋服店では店員さんが熱心にお客さんに説明していますし、
花屋さんの前には沢山の花が飾ってあります。
食べ物屋の傍を通りすぎる時、漂ってきた美味そうな匂いに男は鼻を鳴らしました。
やれやれ、昼飯は遅くなりそうだな。
まあ、いいや。仕事が終ってからの楽しみさ。
修理工は道を急ぎます。

彼が向かっている公園は、街の高台にありました。
坂にさしかかっても、修理工は元気よく登って行きました。
さほど高い丘ではありません。直ぐに公園の木々が見えてきました。
さて、着いたぞ。
修理工は工具箱を街灯の根元に置くと、仕事の前に大きく伸びをしました。
それから、ぐるりと周りを見渡してみます。
北の方には山々の姿が、南には湖の湖水がきらきらと光っています。
一帯を広く見渡すことができるこの公園は、彼のお気に入りの場所です。
眼下には、街の家々がよく見えます。
あちこちを歩き回っている人も、小さく見えました。
お昼時ですから、きっとみんな、ご飯に向かっているのでしょう。
きゅう、と鳴った腹を、修理工はポンと叩きました。
こら、ちょこっとだけ我慢しろ。
彼は仕事に取りかかりました。

修理は直ぐに済みました。
上まで登らなければならないかと思っていたのですが、街灯の蓋を開けて調べてみると、
下のほうで線が切れていたことがわかったのです。
線をつないで試しにスイッチを入れてみると、真昼の明るい日の中でも、
ちゃんと明かりが灯ったのが分かりました。
スイッチを切ってから、修理工は満足そうに頷きました。
これでよし。あとは、こいつをしっかりと取り付ければ…

突然の揺れが街を襲ったのは、ちょうどその時でした。
「な、な、なんだぁ!?」
修理工は慌てて街灯の柱にしがみつきました。
地震はふつう、小さな揺れから始まるものです。
そして少し経ってから、大きく揺れはじめます。
ところがこの時は、前触れもなしに、いきなり大地がぐらぐらっと動きました。
いきなりの揺れに、街の人は立っていられません。
修理工のように手近な物にしがみつけなかった人は、みな転んだり、尻餅をつくかしていました。
だから、それを見ることができた人は限られていたのです。
修理工は、街灯の柱につかまったまま、周りを見渡していました。
「なんだい、あれは?」
北の方に目をやった彼は、異変に気づきました。
何か、見慣れないものがあります。
真っ黒くにぶい光沢を放つ、とほうもなく大きな物が、北の山々よりもなお高々と聳えているではないですか。
その上、修理工が目にすることができたのは、そのごく一部でしかありませんでした。
黒々と拡がっているその上は、対照的に真っ白な柱の形になっていました。
柱といっても、似ているのは形だけで、それはどんなに大きな雲よりも悠々と聳え、
その先は青空を遙かに貫き、人間の眼を笑うように、高みに上り詰めていました。
その先がどれほどの高さにあるのか、修理工には見当もつきません。

街のごくわずかの人が、その物と、さきほどの揺れを結びつけて考えることができました。
あれが、遙か先の地面、三つは先の街のある辺りに現れて地面を踏みしめたときの揺れが、
この街まで伝わったのだ、と。

ほとんどの人が立ち直ることもできない間に、それはゆっくりと動き出していました。
いえ、その動きがゆっくりに見えたのは、彼我の大きさの差からの錯覚であることに、
修理工は気づきました。
一つ数える間もなく、ずっと上まで行っちゃったぞ!
どんな速い飛行機だって、いいやロケットだってあんなに速くは動けない。
あれは大きさに相応しい、とてつもない速度で動いているんだ。

物体を眺めていた人間だけが、気づくことができました。
あれはこの街に近づいてきている!
そう判ったのは街の中の数十人、そして行動を起こせたのはその中のたった数人でした。
といっても、できたのは、せいぜい数歩を歩いたぐらいでした。
そうです、時間にすれば、一秒あるかないか。
真昼だというのに、街は大きな影に、すっぽりと包み込まれていました。

近づく物体は、ぐんぐんと大気を街に追いやっていました。
追い詰められた空気は必死になってもがき、風となって街に逃げ込もうとしていました。

ごぉおぉおおおおおおおお。

家々の屋根の上を、木々の梢を、線路や川を通って、突風が吹き抜けました。
運良く街から逃れることのできた風は、ほっとしながら周辺の街や草原を走って逃げていきました。
でも、物体の下に押し込められてしまった大気は、逃げ場を求めて懸命に暴れ回りました。

満足に動き出す前に、人々は吹き出した風に翻弄されました。。
つむじ風が窓を叩きますと、何軒かの家では窓ガラスが風との戦いに敗れて砕け散り、
破片がそばにいた人間に降りかかりました。
吹き上がった血が空気を赤く染め、体を切り裂かれた悲鳴が上がりましたが、
その声は風にさらわれて辺りに響くことはありません。
揺れの後に何かをつかむことのできた運の良い人は、かろうじてそのまましがみ続けることができたのですが、
支えを持たない人は立ちあがることすらできず、吹き付ける風にただ翻弄されるしかありませんでした。

そうして人々がもがいている間にも、物体はずんずんと近づきつつありました。
街は物体が創り出した真っ黒な影に完全に飲み込まれました。
突然の夜。
光さえ奪われた人々は、もう自分の指先すら満足に見ることが出来ません。
「明かりが?」
修理工の上で、いきなり街灯の明かりが点きました。
街灯には、周りが暗くなったら自動で点灯する機能があります。
こんな時にも、それは律儀に動き出したのす。
修理工は街灯をかたく掴みながら、呆然と物体を見上げていました。
見上げる。
いつのまにか、物体はこの街の真上に君臨していたのでした。

青空も雲も大気も踏み抜いた物体は、恐ろしい速さで地面に近づいていました。
巻き上がる風はいよいよ強く、家の外にいる人間達は、ある人は道を転がり、
あるものは壁に叩き付けられ、ある物は空中に舞い上がりました。
そして、大きな炎が上がりました。
ちょうど炊事時、火を使っていた家もたくさんあったのです。
こんろやかまどから、幾つもの火が飛び出しました。
それだけではありません。
「なんだか、暑いな」
修理工はつぶやきました。
できれば上着を脱ぎたいところですが、今は街灯から手を離すわけにはいかないので
彼はじっと我慢しました。
そう、急激に押し込められた空気の温度は高くなっていて、
いつもよりもずっと、物は燃えやすくなっていました。
一度点いた火は風に煽られて、次々にいろいろな物に燃え移っていきます。
紙やカーテンやじゅうたんが、思い思いの色で炎を吹き上げました。
そして、燃え始めた中には、人間の着ている服や、髪の毛などもありました。
消そうとしても、吹き暴れる風に煽られて火はいよいよ強くなるばかり。
叫び声は、あっという間に風が運び去りました。

そんな中、修理工には、周りの惨劇は目に入っていませんでした。
彼が見ていたのは、ただ頭上の物体だけだったのです。
そしてじっと見つめるうちに、彼はあれが何か、気づきました。
あれは、靴だ。
信じられないほどに大きいけれど、あれは靴だ。
間違いない。靴屋さんにおいてあったような、高級な靴じゃないか。
あの色、艶、形。
女性が、それもまだ年の若く、家柄が良い女性が好んで履く靴さ。
そうさ、靴に違いない。
薄くしか見えないけど、底には溝だって彫られているじゃないか。
靴なんだから、そこには滑り止めの溝があるのが当然だ。
そうだ、思い出した。
この前修理に出かけた家で、ちらっとだけ見かけた赤い服を着た令嬢。
彼女がちょうど、あんな靴な靴を履いていたっけ。
この街は、あの靴に踏まれようとしているんだ。
あの、信じられないほど大きな靴底が降りてきたら?
この街は地面に深く深く押し込められ、そこにいた人間も建物も何もかも、
信じられないほど小さく薄く潰されたものに変わり果てるんだ。

なぜ?どうして?
その疑問は、修理工の頭に浮かぶと、あっという間に吹き飛ばされて消えてしまいました。
周りでごうごうと渦巻く風。修理工の服も千切れそうにはためきます。
迫ってくる靴底を見ながら、彼は思いました。
あの靴を履いているのは、どんな女の子だろう?
判るわけもないけど、でも、知りたい。
一目、その顔を見てみたい。
…無理か。
靴すら満足に見通せないのに、その顔を拝むことなど許されないのさ。
でも、やっぱり見てみたいよなぁ。
まてよ。
あの下に踏まれれば、彼女と一瞬でも、一緒になれる。
せめてその瞬間を楽しみにしよう。
…変だな、俺。何考えてんだろ。

ま、いずれにしろ、あの靴が落ちてきては、こんな街なぞひとたまりもない。
あたりはいよいよ酷いことになってる。
そうさ、みんなもう、お終いだ。
どうせ一瞬のこと、痛くも苦しくもないだろう。
修理工は自分にできる最後のこと、つまり目をつぶりました。


最初の揺れなど、針が落ちたようなものでした。
巨大な靴が地面に着地した瞬間、辺り一面は上下左右、ありとあらゆる方向に激しく飛び回りました。。
大地はあちこちで引き裂かれ、その上に乗っていた何百件もの家は崩れ、木々は倒れ、
川の水は跳ね上がって溢れ出しました。
殆どの建物はあっという間に崩れて瓦礫の小山になり、
かろうじて崩壊を免れた家の中でも家具という家具が、壁と壁、天井と床の間を自らを分解しながら跳ね回り、
家の中にいて難を逃れた人のほとんどが、その動きに巻き込まれて絶命していました。
家の外にいた人も、ある物は倒れてきた壁に押しつぶされ、
ある物は地割れに飲み込まれ、またあるものは荒れ狂う突風に吹き飛ばされた物々に
体を直撃され、次々と命を失いました。
街は一瞬にして崩壊しました。
ですが、絶対的な破壊、巨大な靴が途方も無い圧力を持って街を地に踏み沈める瞬間は、
ついに訪れなかったのです。

「?」
修理工は、静寂に気づいて目を開けました。
…俺は生きている?
衝撃で壊れたのか、街灯はもう光を失っていました。
靴底の闇が町の上を覆い尽くし、遙か先に、青空が小さな姿を惨めにさらしています。
でも、なぜ…
修理工が唖然としているうちに、靴は、また動き始めました。


南の方から、強く押しつけられた地面が上げる悲鳴が響きました。
足の運びに従って、靴の爪先が柔弱な大地を容赦なく攻めつけていました。
爪先がぐい、と地面を抉ると、かかとはさらに上空を目指してぐんぐんと上に昇り始めました。

ごぉおおおおおおおおおおおおおおおおお

先ほどまで、街にぐいぐいと押しつけられていた大気は、今度は靴底に着いてくるように
命じられ、またも悲鳴を上げました。
大気のか細い抗議などまったく意に介さず、靴はぐんぐんと上に、さらに上へと昇っていきます。
靴が占めていた空間はどんどん上空に上がっていきました。
その空間を埋めるため、嫌々ながら、空気は靴底を追いかけて上へ昇っていきました。

修理工の周りで、凄まじい風が吹き上がりました。
若い男、瓦、木々、犬、赤ん坊、馬、縄、車、麦わら、ガラス、牛、
布団、木の葉、小麦、年寄りの女、豆、猫、敷石、娘、板きれ、小石…
街にあるありとあらゆる物のうち、地面との縁が弱かったもの、
しっかりとつながれていなかったもの、ほとんど全てのものが、
靴の後を追って空中に舞い上がりました。
「ああっ!」
足元に置いてあった工具箱がぶるぶるっと揺れると、風に乗って浮かびます。
修理工は片手を伸ばして懸命に工具箱をつかもうとしました。
でも、その手をすり抜けてしまった工具箱は浮かび上がると、
風に乗って舞い上がり、あっというまに見えなくなってしまいました。
修理工は街灯にしがみついているしかありません。
真っ青な顔をして彼はつぶやきました。
もう、駄目だ。


風と一緒に持ち上げられたものは、どうなったのでしょうか?
ぐるぐるとつむじ風の中の木の葉のように吹き飛ばされた挙句、空気が上るのをやめるのと同時に、
今度は下に向かって落ちていきました。
中には街から遙か離れたところまで飛ばされたものもあります。
またあるものは…何処とも無く消え去ってしまいました。
ですが、ほとんどのものは、そのまま真っ逆さまに街に落ちていったのです。
至る所に、凄まじい勢いで物が降ってきました。
落ちてくるもののなかには粉々に壊れているものもあれば、
飛ばされる前のままのものもあり、右手と左足と首だけがついた人の体もあれば、
真っ黒に焼け焦げた犬の体や内臓が飛び出した猫の姿も、
五体満足のまま、目を見張って声も出せない人もいたのです。
はるか上から落ちてきた物は、地面に叩き付けられ粉々になって砕け散ります。
修理工の周りにも、様々な物が降り注ぎ、大小さまざまな音とともに地面を揺らしました。
まるで雹だな。
こんな勢いで降ってくるんだもの、一々気にしちゃいられないぜ。
彼は一所懸命に自分に言い聞かせました。
ですが、遥か高みから人間の身体らしいものが真っ逆さまに落ちてきて、
公園の中でぐちゃりと潰れたときには、流石に身を硬くしました。
あれと同じようなものがぶつかってきたら、こんどこそ終わりだ。
修理工は固く目を瞑ったまま、街灯を堅く抱きかかえていました。

地面を物が叩く音も、風の吹き荒れる音も、いつまでも続くかと思われました。
ですが、少しづつ、少しづつ引いていき、やがて静けさがやってきたのです。
そっと首を傾けて、修理工は上空を見渡しました。
「終わった、のかな?」
どうやら落ちるべきものは落ちきったようで、空を舞っているものは見当たりませんでした。
彼はほっと一息をつくと、街の周辺をぐるりと見渡し、そして眼を見開きました。
無い。
無くなっている。
北の山は、南の湖は?
どうなっちゃったんだ?
北にあるのは、角を持った四角い窪みでした。
南にあるのは、先は丸く半円を描き、街に近い方は柔らかい曲線を描く凹みです。
誇らかに立っていた峰々は、きらめく光を放っていた湖水は、もうどこにもありませんでした。


修理工は知りました。
あの巨大きわまる靴のかかとが山を、爪先が湖を踏みつけて、
そして、彼とこの街は、爪先と踵が形作る、あの優美な空間に収まって永らえたのです。

修理工は笑い出しました。
靴底のくぼみに、悠々と収まってしまう街。
そんなちっぽけな空間に滑り込んで、生きのこってしまえる街。
俺には、この街には、踏み潰されるほどの大きさもないというのか。
何と滑稽で、惨めなんだろう!
そう思うと、笑わずにはいられません。
ほとんどの生命と形を失った街の上で、修理工はひとしきり、笑い続けました。

修理工の笑いはやがて止まりました。
「腹、減ったなぁ」
見てみると、街はひどい有様です。
昼ごはんどころか、食事ができるのはいつになることでしょう。
いえ、果たしてこの先、食べ物を口にできる日が来るのでしょうか?
修理工は、今までつかまっていた手を街灯からそっと離しました。
助けてくれたお礼に、せめて修理でもしようかと街頭を点検しようとしましたが、
よく見ますと先の明かりの点くところがぽっきりと折れて無くなっていました。
これでは治しようがありません。
それに、彼には工具箱ももうないのです。
道具は…
修理工は街の様子をちらりと見て、顔をしかめました。
この街はおしまいだ。
もうこの光景は、見たくない。
修理工は空を見上げました。
そういえば、あれはどこにいったんだろう?
あれほど大きな靴と、それを軽々と履く足、その先にはもっと大きな体があるのです。
ちょっとばかり遠くにいったところで、見えなくなるはずはないのですが、
その大きさにふさわしい速さで、どこかに去ってしまったのでしょうか。

修理工は公園に座り込んで、あてもなく、ただ空をぼんやりと見ていました。
「ん?」
と、何か、小さい点のようなものが見えました。
それは少しづつ、彼の方に近づいてきます。
危険なものなら、直ぐに逃げ出さないといけません。
でもなぜか、彼にはそれが、とても身近なものに感じられました。
少し身構えながら、修理工はその点を見つめました。
「…あれは!」
修理工は息を飲みました。
落ちてくるのは、四角の箱でした。
その形と色に見覚えがあります。
そうだ、あれは、俺の工具箱だ!
工具箱はそのままするすると落ちてきますと、すとんと修理工の目の前の地面に着地しました。
傷一つなく、まるで何も起きなかったような顔をしています。
修理工は素早く工具箱を開きました。
間違いないぜ。これは俺の工具箱だ!
彼は急いで中の工具を確かめました。
何一つ、なくなった様子も、壊れた気配もありません。
こんどは修理工は、静かに微笑みました。
「これさえあれば、ご飯は食べられるさ」
修理工は工具箱を抱えて立ち上がりますと、しっかりと前を見て、街に向かう坂道を下っていきました。