明日から高校生!
中学時代はあくまで様子見であり、今度こそ、人生初の甘いバレンタインを味わってみたい!
そんな初々しい希望など幻想であり、この先には存在しない。
客観的にそう思える余裕を持ってしまえるほど、高校生活に慣れた頃だった。

朝のホームルームまで、あと十五分。
前から二列目の自席に座り、一時限目の英語の小テスト対策として、単語帳を眺めていた。
机に突き立てたひじが切実に痛い。
薄手の白い長袖シャツは何の緩衝にもならないらしく、皮膚をはぎ取ったひじの骨を、まな板にゴリッとこすりつけている気がしてならない。

木製の机から立ちのぼる手汗の臭い。
今朝飲んだ豆乳の舌触りと混じらないよう、生ぬるいつばをゴクリと飲み込んだ。
後方にて、教室の床を削るように、椅子の脚がガガッと引きずられ、寝不足でふらつく頭に金属的ないびきが響いてくる。

それでも、今日は金曜日。
"明日は休日"という小さな高揚感が心を震わせ、ひじの骨に登る痛みをやわらげ、ナマズのように鈍い指先に単語帳を一枚めくらせた。

やがて、この時間帯になると後方から聞こえてくる会話が丸めた背中をさすり始めた。
男子二人の内、まず一人目が。
当たりさわりなく、ほとんど記憶に残らない、窒素(ちっそ)のような声で。

「俺も彼女ほしいなぁ。んで、お前、いつ森野(もりの)さんに告るの?」

窒素に続くのは、もう片方。
茶色の紙やすりに白く濁った塩の粒をまぶし、のどの内側をこすってザラつかせたような、"塩やすり"声。

「バカ。お前は何一つ理解できねえんだな。俺にとって森野さんは尊い存在。生きるエネルギーであり、心のなかで崇拝させていただいてる存在なんだよ。つまり、俺と森野さんは、すでに高貴な絆で結ばれてるってわけ。今さら俺に告白は必要ない。あと、気安く森野さんの名前呼ぶな。汚れんだよ」

「偉そうに、話したこともないくせに」
「そんなことしたら、恐れ多くて心臓止まる……」

いつもどおりの窒素と塩やすりのやり取りを聞いたからではないが、単語帳から視線をひき離し、顔を正面に向けた。
前は最前列であり、空席。銀色のパイプがくねる椅子の背と、明るい木目の机。
さらにその先には、黒板の左下、L字部分の金具が見えた。

そんな最前列の左隣に、目だけをゆっくり向けた。
そちらは窓際の席であり、青空から広がる朝日を受け、一人の女子が座っていた。
机の下で脚を組み、黒色に近い濃紺のハイソックスを揺らしている。
椅子の座面上には、挑発的な長さのミニスカートが折り目を上品に垂らしている。
背中の白いセーラー服は朝日を受け、ほのかに光っているように見えた。

この席――すなわち、窓側の最前列が森野さんの席だった。
森野さんは机の上で静かに手を組み、窓の景色を眺めていた。

青空の景色に黒い細雨が流れているような森野さんの髪に見とれていると、後方の二人も同様の会話をしているのに気づいた。
窒素の声が聞こえてくる。

「森野さんの髪型、かなりタイプなんだけど。なんつーか、女流書道家が和服姿で筆持って、視力検査の下向きをふんわり書いたみたいな」
「そう、マジでいいよな、森野さんの黒髪ボブ。ほんと似合う」

塩やすりの発言の後、奪われた心を取り戻したように、窒素が話し始めた。

「なぁ。森野さん、ほんとに彼氏いないの? あんなに美人なんだし、いつか取られるって」
「それは絶対ない。百パー言い切れる。天地がひっくり返ってもない」

「お前の願望だろ、それ」
「いや、事実だから。マジな話、これまでにいろんな人が森野さんに告ってる。でも、全員ふられてんだよ。勉強できるやつも、爽やかスポーツマンなやつも。女子からの人気がすげえ高い奴でさえ全然だめ」

ニヤついた口調の窒素。

「はぁーん、ようやく理解した。お前、森野さんにふられるのが怖いんだろ。だから告らないんだ」
「全然ちげえし。告白とかじゃねえっつの。森野さんは天地万物のエネルギーであり、俺をふる必要性がない」

「アホだ」

やがて、担任が教室に入り、一日開始のチャイムが鳴った。
そこからはいつもと変わらない時間が流れていく。

午前の授業で息を吸い、一人の昼食を味わい、午後の授業であくびまじりの息を吐ききった。
なんとか今日一日の授業をやり過ごし、後は放課後を迎えるのみ。
帰りのホームルームでプリントを受け取り、一日終了のチャイムがようやく鳴ってくれた。

チャイムと同時に、一斉に席を立ち始めるクラスメイト達。
談笑もそこそこに、早々と部活動や家路へと向かってしまった。

そんな周囲の変遷も気にせず、自席で授業の課題を解いていると、時間があっという間に過ぎていく。
部活動に所属していないため課題を終わらせるスピードには自信があった。
もっとも、テスト用紙の返却時に点数欄を見ると、あのときの頑張りは何だったのだろうと切なくなることもあるのだけど。

しぱしぱ乾いてきた目をギュッと閉じ、コチコチに固まった首を一周させてから時刻を見た。
いつの間にか、夕方の五時。
夕暮れとまではいかないが、教室の色味もそこそこ落ち着いてきた。

帰宅の準備をしようと廊下へ行き、ねずみ色のロッカーを開けた。
奥の荷物を整理しようと鼻先をつっこむ。
指の力だけで何冊もの重い辞書の移動をやっとこさ終えた、そんな時だった。

聞こえてきたのは女子の声だった。
初雪のように澄んでいて、儚げで小さく、人から逃れるように冷たい声が。
ロッカー内の右耳まで。

「興味ないから」

森野さんの声だ。
そう気づいた瞬間に、鈍い音がした。
パンパンに泥を詰めた袋を無造作に落下させたような音が足裏全体をかすかに突き上げる。

何事だろうと思い、ロッカーから顔を出し、右側を振り向いた。
フローリングの廊下に四つん這いになっている男子がいた。
ひざから崩れ落ちたのだろう。底なしの重力に飲み込まれていくように、頭部は徐々に沈んでいっている。
その先には誰もいない。森野さんはどこかへ行ってしまったようだ。

男子をよくよく見てみると、右ひざの辺りに長方形の封筒が落ちているのに気づいた。
遠くから聞こえるひそひそ声の中、封筒の中心に貼られたシールはピンク色のハートを描き、男子の古臭い短髪に似合わないラメを光らせていた。

教室へ戻り、かばんに荷物を入れ終え、席で時間がすぎるのを待った。
廊下の気まずい空気を吸い込む勇気はなかった。
たとえ、痛くなった尻がさらに自重でつぶれ、シャープペンシルの黒鉛と机の臭さが鼻一杯に満ち足りようと、まだそちらのほうがマシな居心地だった。

教室内には誰も残っていない。
怖いくらいの静寂に心を浸し、意識が何も感じなくなるまで不均質な鼻息を聞き続けた。

時間にして十数分。
どこか瞑想じみた意識が醸成されつつあったが、席から立ち上がって帰宅を決めた。
教室の後方のドアを横に滑らせる。
さすがに、廊下内に気まずい空気は残っていなかった。

教室から二歩ほど出た瞬間。
細かい光のような音が左耳をかすめた。
その方向を振り向く。

男子が四つん這いになっていた場所あたりに小さなアクセサリーが落ちていた。
その先には、音に気づかずに歩き去っていく森野さんの後ろ姿。
状況的に森野さんの落とし物だと思った。

落とし物の元まで歩き、指先で細かい光を拾った。
それは奇妙な形をしていた。
白く細長い金属が正三角形を成し、各頂点に宝石のようなものが埋め込まれている。
赤、青、緑と色とりどりだ。

第一印象としては、ネックレスの本体部分のように思える。
しかし、本来はあってしかるべきのチェーンを通す部分が見当たらない。
これではネックレスとして装着できないはずだ。
なにかのはずみで欠損したのだろうか。
それとも、そもそもネックレスではなく、袋に入れるお守りの類だろうか。

とにかく、森野さんの落とし物かもしれないので、聞いてみることにした。

廊下を歩く森野さんの背中を追い、うなじを覆う毛先が見える距離まで近づいた。
夕方の冷えた空気を取り込もうと、口を開けた。

……声が出なかった。

すぐそこにいるのは、周りの女子とは比べ物にならないほどの優れた容姿。
白いセーラー服に近づくことすら罪に思える清廉さ。
鼻先を撫でるように、ほのかに甘く巡る香り。
そのどれもが、開けた口に入り込み、のどを火傷させてから心臓へ到着し、赤い鼓動に熱すぎる蜜をトクトク流し込んでいった。

一度、生唾を飲み込む。
高校受験の面接も、入室前にこうやって乗り越えてきたことを思い出す。
何事もそうだ。どれだけ緊張しようとも、終わってみれば、別に大したことない。
そう思うことで心が軽くなり、森野さんの名を呼ぶ勇気が湧き出た。

目の前を歩く黒髪がピタリと止まる。
ゆっくり回る肩に合わせて、黒髪が静かに流れていく。

森野さんが向いてくれた。
右向きの状態から、わずかにこちらを振り向いた程度だったが。

白い美肌を無表情に固め、黒い瞳で不審そうにこちらを見ている。

胸が機能停止したようで、もはや何も言えなかった。
出来たことといえば、無言のまま手を差し出し、かすかに震える指先に囲まれた拾い物の提示だけだった。

森野さんは差し出された手を見るや否や、口をわずかに開け、

「あ」

と同時に急いで取ってしまった。

両手を握りしめ、胸元まで寄せる森野さん。
近づいたのは一瞬で、拾い物を手にした後はこちらから離れるように後ずさりしていった。
体をこちらに向けたまま一歩、一歩、間をおいてさらに一歩と下がっていく。
小さくなっていく足音。
口は固く結ばれ、目元は警戒しているように見えた。

やがて、森野さんはくるりと左を向いて駆け出し、近くにある白い柱の前で静止した。

胸元が接するほどの至近距離で、時が止まったように柱を見続ける森野さん。
しばらくした後、硬質な白色に腕を寄せ、柔らかな指先を軽く触れさせた。

ちらりと、警戒の表情がこちらを向く。

すぐさま顔をそむけ、柱に隠れるように無言で走り去っていった。

目の前には誰も居なくなった廊下が伸びている。
精神が侵食されそうな静寂の中、階段を駆け上がる足音だけが遠く響いていた。

帰宅してからはいつもどおりだった。
夜は金曜の高揚から始まり、日曜の寂寥(せきりょう)で終わっていく。
そして、月曜の朝を連れてくる。

取り立てて代わり映えのない週末だった。
ただ一点を除いては。

週明け、月曜日。

登校を終え、いつもの席に座り、いつもの時間になった。
もちろん、いつもの二人の声が背中越しに聞こえてきた。

興奮気味な窒素。

「おい、あの事件聞いたか?」

それに対し、若干の笑いを含んで答える塩やすり。

「聞いた。衝撃すぎるだろ、あの事件は」

どこか得意げに話し始める窒素。

「俺さ、実は、あの百貨店を見に行ったんだけどさ、いやーエグい。完璧にぶっ壊れてた。木を引っ掻いた感じの傷が三本あって」
「あ? その話かよ。事件つったら、先週の金曜のほうだろ。知らねえの?」

一瞬の間をおき、「あー」と察した窒素。

「もしかして放課後のあれか? 五組のあいつが」
「そう、ラブレター事件」

「いや、人の告白を事件扱いすんなよ」

話のノリに脂が乗ってきた塩やすり。

「だってあの顔だぜ? 出荷できねえボッコボコのじゃがいもみてえな顔でさ、更にラブレターって。どこに成功要因があるんだって話。色々と無理だろ。お前が女子で告られたらどうよ?」
「まぁ、軽く吐くけど」

嫌そうに答えた窒素。

「だろ? ……ま。ただ、俺的にはショックなこともあってさぁ」

溜息まじりに話す塩やすり。

「森野さん、まだ来てねえんだよ。先週の事件で体調を崩したのかな」
「ほんとだ。今日は遅いな」

「いつもならとっくに来てんだよ。この教室の半分くらいが埋まる頃にさ、森野さんが、教室の前にあるドアから入ってきて、教壇の段差に足をかけて、そん時に太ももがミニスカートをスラッと押し上げて、後は黒板を横切るふりして俺に神聖な美脚を見せつけてくる。脚に吸い付いた紺のハイソックスはシワの一つ無くて、段差の上で女神の体重が奏でられるんだよ。耳が昇天しそうなリズムでトン、トン、トンって、こっちに近づいてくる。トン、トンって。つま先で俺の心をつついてくださるみたいに。……あー、それだけが学校に来る理由なのに。今日は森野さん休みなのか!? おいこら! まさか休みじゃないよな! このクソ学校!」
「お前キモいから……、あ、来た!」

声を張った窒素。

周囲に気付かれないように、顔を伏せたまま目を右に向け、教室の前方を見た。
開きっぱなしのドアから入室してきた森野さん。
ところが、いつもの着席とは大きく異なっていた。

教壇には向かわず、わざわざ最前列と二列目の間を通ってきた。
森野さんが急速にこちらへ近づいてくる。
慌てて目線を机に戻した。

一切の減速をせず、伏せた頭上をなでるように、前方を横切っていく森野さんの太ももとミニスカート。
やがて、椅子を引きずる音が左耳まで届いた。

森野さんの着席と同時に聞こえてきたのは、興奮気味な塩やすり。

「き、きた! 何でこっちに近づいて……? まさか、つ、ついに俺の気持ちに気づいて……、森野さん、この俺のことを……!」

窒素も同様に興奮していた。

「やべっ、俺もドキドキ止まんねえんだけど。スタイル恵まれすぎ。胸やばっ」
「森野さん、うあぁ、森野さまっ。今日は人生で一番、いっちばん、幸せな日をありがとうございます!」

声を押し殺して興奮を浴びせ合う二人。
そんな熱狂も、教室内の音も、どうでもよくなるほど気が気ではなかった。
酸っぱい鼻息が冷えた意識にかかり、低血圧に似ためまいがしてくる。

口を閉じ、舌の上で意識をしっかり温め、正気の唾液を飲み込んだところでもう一度机の上を見た。
明るい木目の上に、四つ折りにされた紙が置かれていた。
森野さんの手から転がったそれには、ルーズリーフの罫線を大きくはみ出したサイズで、文字が書かれていた。

赤いペンで"あけて"と。

慎重に、恐る恐るあけてみた。
海水のように濃い日差しが目を浸し、まぶたの裏まで染み込んでくる。
次の瞬間、まぶしさを吹き飛ばすように、爽快な風が全身をすっきり駆け抜けた。
森野さんから渡された紙のとおり、昼休みになったのでとある屋上へ向かい、重い扉をあけた。

まぶしさにも慣れ、屋上の様子が把握できるまでになった。

ここは三階建て校舎の屋上。
水泳のスタート台に立った時のようで、縦長のスペースが広がっていた。
灰色の足場。周囲には緑色のフェンスが設置されている。
よほど近づかないと、フェンスの網目は見えない。
遠方の景色を部分的にさえぎるように、緑のストローに見えるフェンスの主柱が等間隔で並んでいる。

屋上の中央にいた森野さんの姿は遠く、右方向を向いて景色を眺めていた。

さっそく森野さんの元へ近づいた。

森野さんのひざが影に覆われたタイミングでようやく、桜色のシートに座っていた森野さんがこちらに気づいた。
顔を合わせること無く、清廉な冷たさで声をかけてきた。

「座って。そこの端」

森野さんに言われるがままに、内履きを脱いでシートに両足を乗せる。
森野さんと同じ方向を向き、シートと屋上の境目に右脚が来るように、本当にぎりぎりの端に正座した。

座ったものの、何も言わない森野さん。

身動きの出来ない時間が流れる。

高鳴っている心臓。首元までドクドク脈打っている。
うつむいてひざを見つめることしかできない。

突如、声が浴びせられた。

「誰も来ないから」

左から聞こえた声を見る。
顔をわずかに向けていた森野さんはすぐに顔をそむけた。

また無言となった森野さん。
それでも、さっきの時間よりは長くなかった。

「ここの屋上、いつも私しかいない。安心して」

そう言い、白い箱を取り出してこちらに近づけた。

「これ、食べて」

ふたが開けられ、料理が色彩を放ち始めた。
全体的にふんわりとした白さで、鮮やかな赤色が大きな列をなしている。

「いちごサンド。パンといちご、甘めの豆乳ホイップだけ」

森野さんの顔を見る。
料理を見ていた森野さんはこちらに気づき、ふいっと即座に顔をそむけてしまった。

「手作り。余計なもの入ってないのが一番美味しい。お店のは論外」

相変わらず右向きのまま、顔を合わせずに言い放つ森野さん。
しばらくの無言の後、こちらに顔を向けた。
わずかに鋭くなった口調と共に。

「早く食べて」

慌てて手を伸ばし、ぎこちないお礼を言っていただいた。

料理は文句なく美味しかった。
ただ、味以上に、今までに感じたことのない心地が全身を包んでいた。
ドキドキが止まらなかった。
人生で初めての、女子からの手料理の味。
料理を何度口に運んでも、不思議な心地は消えなかった。

あらかた食べ終えると、森野さんは薄型の長方形を投げてきた。
それはカチャリと音を立て、正座中の左脚にぶつかる。
表面部分は白く光り、細かな黒い文字が並んでいる。
森野さんの携帯電話のようだ。

森野さんを見ると、わずかにこちらを見ている。
今度は顔をそむけずに言葉を放った。

「読んで」

森野さんに言われるがままに、丁重に携帯電話を拾い上げる。
画面に表示されていたのは、とあるニュース記事だった。

昨日の日曜に起きた事故。しかも、事故現場はこの街。

「早く読んで」

森野さんに急かされ、若干の早口で伝えた。
ニュースの冒頭部分に黒い文字が書かれている。

――百貨店の壁面が崩落。周辺道路に陥没被害。

運営会社によると、百貨店のビルは八階建てとなっており、壁面と床の崩落により屋内がむき出しとなったのは四階と五階部分。
道路上には壁の破片、ガラス片などが散乱。中には信号機に直撃したコンクリートの塊も。
当該フロアで販売されていた電化製品・家具は、道路上に存在せず。
行方は不明であり、崩落原因と共に調査中と回答――

読み上げている途中で、森野さんが話しかけてきた。

「掲載されてる画像、私も見た」

振り向くと、森野さんがこちらを直視していた。
澄んだ瞳でまたたいた後、ぽそりとつぶやいた。

「せっかくだし、画像、保存した」

物好きだな、と思った。
たしかにこの街で起きた事故であり、珍しいといえば珍しい。
だが、記念として画像を保存しよう、と考えるものでもないはずだ。
街の被害を保存して一体何をするのだろう。

返す言葉もなく戸惑っていると、森野さんはさらに話してきた。

「他のも教えて。関連記事のところ」

携帯電話を操作し、次のニュースを表示した。
このニュースも百貨店近くで起きた事故だった。

――レンタルコンテナの九割が消失。利用者から悲痛な声。

運営するのは株式会社スペースソリューション。
金庫と同等以上の堅牢性、独自のロックシステムによる防犯性の高さから評判の会社だった――

「私、この場所、見てきた」

すぐさま、森野さんが話しかけてきた。

「広い敷地。でも、ほとんどのコンテナがまるまる消えて、中のものだけが取り残されてた。そして、敷地の地面と一緒にほとんどつぶれてた。その場所、とても散らかってた」

澄んだ瞳でまたたき、

「すごい有様」

無表情でこちらを見続けていた。

返答に戸惑っていると、森野さんは唐突に質問してきた。

「住んでる場所どこ? ここから見える?」

とりあえず、今いる場所を見回してみる。
三階建て校舎の屋上の眺めだけあり、住宅の屋根が所狭しと並んでいる。
そして、所々にマンションや商業ビルといった建築物が青空まで伸びていた。

今見える景色を中央として、そこから右の方を指差した。
数ある建築物の中に、一つだけ褐色の屋上看板を掲げた白色の建物がある。
ロウソクのような、その建物の近所に自宅があると伝えた。

指し示した方向を確認する森野さん。
しばらく見た後、こちらを振り向いた。

「聞いてみただけ。別に、家に行こうなんて思ってないから。安心して」

直後、シートに両手を付き、身をこちらにグッと乗り出してきた森野さん。
吐息が交わりそうな距離で、抑揚を付けずにささやいた。

「だって、私が行ったら、迷惑がかかる」

さらに耳元に口を近づけ、吐息混じりの声でささやいた。

「私が歩いたら、甚大な迷惑がかかるから。あなたにも、あなたの近所にも」

両手が軽くなったと同時に、森野さんの姿も離れていく。
持っていた携帯電話は森野さんの手に渡っていた。

ぺたんと座り、元の姿勢に戻った森野さん。
携帯電話をしまい、またもや顔をそむけてしまった。

「部活、なにかやってるの?」

特に何もしていないと答えた。
森野さんは無反応だ。

答えた勢いもあり、せっかくなので森野さんにも尋ねてみた。
たどたどしく、おまけに頼りないほどに細い声しか出せなかった。

「入ってない」

即答する森野さん。

「でも、体験入部の時は色々」

もぞもぞ動き、体育座りの姿勢になった。

「陸上、体操、バスケットボール、バレー、あと空手とか」

ひざを抱いて淡々と答えてくれた。

「結局、入部しなかった。皆と同じレベルにならないと、部活ができなくなる」

しばらくの沈黙。

「別に、私とは無関係なことだけど、少し教えて。バスケットゴール、もう直ってるの?」

そよ風に揺れる森野さんの黒髪。

「そう。それじゃ、道場の柱は? 中に入って左の二本目。わりばしがちょっと折れた感じの、全体的にゆがんでる柱」

風が通り過ぎ、黒髪がサラリと静止した。

「あのままなんだ。……やっぱり、運動って苦手」

ひざにあごを乗せ、濃紺のハイソックスのつま先をトントンと打ちつける。
強い風が吹いたのか、フェンスの網目がわずかに揺れる音が聞こえた。
森野さんを見つめている間、穏やかな風のみが吹いていた。

昼休みはあっという間に過ぎていった。
そろそろ、午後の授業が始まりそうだ。

森野さんにお礼を言って立ち上がる。
合わせて、森野さんも立ち上がってこちらを向いた。

「明日も来て。飲み物、ちゃんと用意しておくから」

相変わらずの無表情だった。

やがて、午後の授業が始まった。
いつもであれば、口元からとろけた生気が垂れ、こっくりと意識を喪失してしまう。
ところが、背骨は竹のように伸び、優等生に勝るとも劣らない集中力が全身を突き動かしていた。

帰宅し、就寝するまでの間も、昼休みの事を考えていた。
誰も居ない屋上で、森野さんと二人きり。
日頃から誰とも話さない森野さんと、二人きりで会話。

ふと、森野さんの香りを思い出してしまった。
耐えられなくなり、急いで消灯した。
布団を頭までかぶったものの、胸がうずいて仕方なかった。

火曜日。

自席に座った。
しばらくして登校してきた森野さんも何事もなく席に座った。

気だるいながらも賑わう教室内。
しかし、通常とは異なる様相を呈していた。
生徒の何人かは窓際に来て、携帯電話のカメラで外の景色を撮影している。

やがて、背後に二人の時間が訪れた。
わずかながら真剣な色に染まっていた窒素。

「昨日の晩、地震あったよな。ちょっと揺れなかった?」
「ちょっとじゃねえし。俺、そん時に風呂だったから結構びびった。洗顔フォームとかシャンプーが落ちてくるし。湯船がじゃぶんじゃぶん揺れて大変だったぞ。しかも、一晩明けて今日。通学路とかさ、道が崩壊してやがる。多分あれ、地震のせいだな」

口調はいつもどおりの塩やすり。

「マジかよ。俺んちの周辺は特に何もなかったけど。揺れたときは他になんかあった?」

「覚えてない。風呂場で寝てた」
「は?」

素で、口から疑問符が出てきた窒素。

「すげー揺れてたんだろ。寝てるってなめすぎじゃね?」
「仕方ねえだろ。半端なく眠かったんだよ」

面倒くさそうな塩やすり。

「でも、道路崩壊するくらい揺れてんなら、身の危険を感じねぇか? さすがに」
「部活が楽なやつはいいよな。眠くてしょうがねえ、動くのもだりぃ、って経験がないから。俺もテニス辞めて弓道部に入ろっかなー」

「お前ぶん殴るぞ、おらぁ!」

談笑の終わりを告げるチャイムが鳴り、担任が入室してきた。
目視で出席を確認する。

この日の欠席者は二人だった。

昼休みになったので屋上の扉の前に来た。
全面的にオフホワイトの塗装がされており、取っ手の部分だけが銀色になっている。
ここの扉は相当重厚に出来ているらしく、取っ手を回し、もう片方の手で扉を押さないとスムーズに開かない。
森野さんのような女子であれば、全身で押しやらないと開かないかもしれないと思った。

扉を開けると、森野さんはすでにシートを広げて座っていた。
はや歩きで向かうも、歩いている途中で顔をこちらに向けてくれた。

到着したので内履きを脱ぎ、昨日と同じくシートの端に座る。
その間、森野さんは無表情でこちらを見るだけだった。

森野さんと同じ向きで座ったものの、何も話しかけてこない。
気まずさに顔を下げ、桜色のシートと灰色の屋上の境目を眺めるだけだった。

森野さんの方からセーラー服の音がした。
顔を向けると、先よりも近づいてきた森野さんが無表情でこちらを見ていた。

急いで顔をそむける。
三秒以上の直視で死ねる距離だ。
呼吸を整えていると、森野さんが話しかけてきた。

「昨日、地震があったみたい。朝の教室で話題になってた」

森野さんの小さめの声がよく聞こえた。

「揺れた?」

手短に答える。
夜遅くまで確認したわけではないので、詳しいことはわからない。
しかし、起きている間は少なくとも揺れを感じなかった。

「……そう。良かったね。揺れなくて」

森野さんの声は、どこか安堵しているように聞こえた。

すぐに料理を渡されたので、ぎこちなくお礼を言って頂いた。
今日はいちごだけではなく、黄桃も入っていた。
本格的なティーカップに飲み物も淹れてくれた。ルイボスティーというらしい。

堪能していると、突然、森野さんが立ち上がった。
汚れ一つついていない内履きを履き、シートの周囲を歩き回り始めた。
一緒に歩くわけにもいかず、座ったまま正面の景色を見ていると、左から右へと歩く森野さんの脚が何度も横切っていく。
やがて、歩き続ける森野さんに話しかけられた。

「野球、知ってる? 白っぽいボールを投げて、棒で打ち返す競技」

もちろんと答える。

「野球部を見に行ったことある。でも、入部しなかった。そもそも、男子限定だったのもあるけど。打者はバットっていう棒を振って、ボールを遠くに飛ばす。かなり遠くに飛ばせば、ホームランって呼ばれて点数が入るみたい。プロなら新聞に載るくらい、華やかなプレイ」

目の前を横切っていく森野さんの脚。

「あの小さなボール。百メートル以上飛ばすのは、そんなに凄いこと?」

体育の経験もあり、素人ながら答えた。
野球に詳しいわけではないが、ホームランを出すのは決して簡単なことではないはずだ。
一試合中に打席に立つチャンスは何回かあるが、ホームランはそうそう出せない。
もちろん、体育のソフトボールでホームランを出せたことは一度もない。
プロが百二十試合を終えて三十本も打てたならば、チームの主砲と言えそうな気がした。

答えている間も歩き回る森野さん。

「野球は打つだけじゃないことも前に知った。ボールを投げるのはピッチャーって呼ばれてる。一流のプロだと速球が百六十キロを超えることもある、って聞いた。それで思ったんだけど。プロでもその程度の速さ? もし、百六十キロが体に当たったら大変?」

桜色のシートの周囲を歩き続ける森野さんに、なんとなくの返答をした。

百六十キロの豪速球。当たった経験が無くとも、直感的にヤバいことはわかる。
素人が全力で投げた硬球ですら相当の痛さである。プロの速球となると、軽症で済むはずがない。
事実、野球のシーンで、顔面に球を当てられた打者が担架に乗せられていく光景を覚えている。
プロの投げる百六十キロなど、当たりどころが悪ければ、命に関わるに違いない。

それに、野球の硬球だから、威力はまだその程度で収まっている。
これが砲丸にでもなれば、もはや無事かどうかの話ではない。
とはいえ、現実的に、砲丸のような重量のある物体が飛んでくることはありえないので、心配する必要はないのだけれど。

答え終わった直後、目の前の森野さんが静止した。
そして、先と比べて大幅に減速して歩き始めた。
どこか、神聖な儀式に列席した巫女を思わせる足取りで。

「私。最近、夜になったら楽しみが出来た。当ててみて」

考え込んでいるうちに、森野さんが答えた。

「夜を歩くの。夜に色んな所を歩くのが楽しい。昨日も歩いた。今日も歩くつもり」

目の前にある屋上の床に、森野さんの足がゆっくり踏み降ろされていく。

「今までは長い距離の歩行、好きじゃなかった。こんなに進んでるのに、どうして進んでないんだろう、って嫌だった。でも、最近は違う。あの頃を思い出せるようになった。夜が訪れたら、私は気ままに歩く。薄い空気を吸って、冷えた星の輝きを浴びる。そうすれば、本当の私を思い出せそうになる」

左肩の後ろから声が聞こえてくる。

「もっと歩きたい。夜を楽しみたい」

森野さんは歩き回るのを止め、元の場所に座った。
まさかと思い、こっそり横目で確認した。
やはり間違いではない。森野さんは歩き回る前と同じく、近くに座っている。

「ニュース見た? この街、昨日と比べて、沢山のものが壊れて消えてる」

森野さんの方を振り向いた。
うつむき加減の森野さんは片手で携帯電話を持ち、親指を滑らせている。
ニュースを見ているようだ。

「専門家によると……、地盤の……、……現象が考えられ……」

とぎれとぎれに読み上げる森野さん。
動かしていた親指が止まった。
読み終えたみたいだ。

「ふーん。専門家なのに的外れなこと言ってる、……と思う。どこの人? 研究センター?」

画面を見つめ、黙ってしまった森野さん。
心地よい風が白いシャツの襟と、森野さんの黒髪をなびかせる。

と、森野さんがゆっくり顔を上げ、こちらを振り向いた。
無表情のまま自然な瞬きを続ける。

「覚えた」

耳を澄まさないと聞こえない声だった。
返答に困っていると、森野さんから質問を受けた。

「気に入らない人っている?」

いきなりのことで面食らう。
とりあえず考えてみるも、ぱっと返答できるような深い人間関係を持っていなかった。

「それなら、気に入らない場所ってある?」

よくわからない質問だ。
そもそも場所に対して気に入らないと思ったことがない。
仮に答えたとして、その場所で何かをするのだろうか。

「……別に。ついでだから聞いてみただけ」

そろそろ午後の授業が始まる。
森野さんにお礼を告げた。
昨日とは違って、料理の感想も伝えられた。

森野さんは相変わらず無表情で無言だった。
それでも、明日も来てほしいと言ってくれた。

午後の授業も無事に終わってくれた。
帰宅後は地震が心配だったが、何の問題もなく熟睡できた。

水曜日。

朝の日差しに恵まれた教室は一種の睡眠薬だ。
あくびを噛み殺し、机にかじりつくようにして単語帳をめくった。
今の所、腹を割って話せるほど仲の良いクラスメイトは居ない。
しかし、学業に専念する上では、かえって都合が良かった。

とはいえ、人付き合いは不要と考えているわけでもなく、周囲のなごやかな談笑には耳をそばだててしまう。
そんな行為を続けていると、嫌でも様々なことを把握できてしまう。
誰がどういう趣味を持ち、どういうものが好きなのか。
もしかしたら、本人以上に詳しいかもしれない。
だからこそ、今日の教室には違和感を感じた。

女子は黒い噂を絶やさず、男子はわかりやすい強がりを臭わせるばかり。
いつもの調子で雑談をしているグループは一つも無い。
違和感に取り憑かれたのは、背後の二人も例外ではなかった。

塩やすりの声が長距離射撃の放物線を描いた。

「おい、なに遅れて来てんだよ。ニュース見たか? なんかやばくね?」
「……おぅ」

しょぼくれた声で返答する窒素。

「あ? どうした。なんか変だぞ、お前」
「……いや、別に」

塩やすりは携帯電話でニュースを読んでいるようだ。
窒素のあいまいな相槌も気にせず、祭りのように高揚させた声で被害についての感想を述べていた。

被害がこの街だけではなく、周辺の都道府県にも及び始めたこと。
物知り顔で語っていた専門家も被害を受け、行方がわからないこと。
道路の陥没の規模が前回と比べて大きくなり、一つの陥没が複数の住宅を巻き込んでいること。
それに伴って街の行方不明者も急激に増加していること。
にも関わらず、死者が一名も出ていないこと。
そして、

「あ、あのさ、昨日……」

窒素が塩やすりの一人祭りをさえぎった。

「あ? なんだよ、急に」

ぞんざいな口調の塩やすりに対し、しばらく黙りこむ窒素。
やがて、意を決したように語りだした。

「昨日さ。俺、風呂上がりに、ケータイでメッセージのやり取りしてたんだけどさ、友達と。そいつ、中学まで一緒で、高校は別のとこ行ってる奴でさ。すっげー仲良かった。会う機会は減ったけど、今でもたまに集まって遊ぶ仲なんだけど」
「ふぅん。それで?」

「昨日は俺、サッカー観ながらそいつとメッセージしてた。そいつ、かなりのサッカーマニアでさ。試合中にすっげー白熱してた。だけど急に……、試合終わってないのに、メッセージが途切れたんだ。そいつ、サッカー好きだし、追加点が入っても無反応だなんて、絶対ありえないことなんだけど」
「……寝落ちじゃね? マジで眠いと仕方ねえんだって」

乱暴ながらも、意に介するなと言いたげな塩やすり。

「で、今朝、テレビのニュースを見てたらさ。ヘリからの地上の映像が流れてて、俺らの街が映ってたんだけど。やけに目立つ黄色い壁の建物が映って、見たことあるなと思ったら、それ、昨日途絶えた友達ん家の近所の店なんだ」

相槌を打てなくなった塩やすり。

「そんで、思い出に浸る間もなくあっという間に映像は流れていってさ。友達ん家の方向へ」
「……」

「テレビには崩壊した道路の様子が映って、標識とか建物とかが何かに潰されたみたいに滅茶苦茶になってて、俺、恐ろしくなって身震いしたんだけど、ついに友達の家も映った。そしたら」
「……」

「そいつの家。思いっきり潰れてた。庭も、近くの道路まるごと」

黙り込む二人。

「そいつとは未だに連絡とれない」

窒素に対し、とりあえずの声をかける塩やすり。

「……どっかに避難してんだろ。大変なことになったら、メッセージどころじゃねえだろうし」
「避難って、どこに?」

「……」

会話の弾まないまま、チャイムと同時に、担任が教室に入ってきた。
前の席なので後方を目視するわけにいかないが、ある程度は判断できた。
欠席者は片手で数えられないまでに増えている。

昼休みになったので屋上の扉に手をかけた。
相変わらずの重さだ。風の強い日であれば、相当の力を込めないと開かない気がする。
そんなことを感じつつ、上半身の全筋肉に力をグッと入れ、奥歯を噛んで扉を押し開けた。

屋上を見ると、森野さんが歩いていた。
落とし物を探すように下を向き、ゆっくり歩いている。

森野さんの方へ近づくと、シートに座るよう言われた。
今日はギリギリの右端に座らなくてもいいらしい。
シートに座り、森野さんの特製サンドをいただいた。
何個食べても飽きない味だ。まさに絶品。

森野さんはこちらを気にせずに歩き回っている。
昨日とは異なる経路で、シートの周りではなく、屋上の半分の範囲内で自由に歩いていた。
すべてのサンドを食べ終わる頃には森野さんも左隣に座っていた。

「歩くの楽しい。昨日は色んな所歩いた。最近は歩道以外のところも歩いてる。きっと、私以外歩けない場所」

森野さんは夜の散歩を楽しんでいるようだ。
それにしても、近頃の状況が状況だけに、大丈夫なのだろうか。
街は大きく揺れ、被害の地域は日に日に拡大し、一部の住宅地は崩壊している。
しかも、原因はよくわかっていない。
もしかしたら、森野さんが楽しく歩いている最中に揺れに見舞われ、道路の崩壊に巻き込まれるかもしれない。
そのような危険性のある夜道を歩くなんて、楽しさよりも不安や恐怖が勝る気がするのだけど。

そんな考えを断ち切るように、美しい香りが漂ってきた。
激しく高揚する胸の苦しさに耐え、左隣を見る。

そこには森野さんの顔がすぐ近くに迫っていた。
目線はこちらの下腹部に向いている。

「パンのかけら。ズボンに落ちてる」

森野さんは、ほほにかかる黒髪を耳までかき上げた。

「動かないで。取ってあげるから」

ダイアモンドを吸い込むように口を小さく開ける森野さん。
目を細め、顔を下腹部へ近づけていった。

そんな森野さんを止めることも出来ず、なされるがままだった。
一応、正面の景色を眺めて正気を保とうとするも、何ともならなかった。

太ももの内側をなでていく森野さんの指先。
太ももの付け根の部分で指先が止まった。
正座中の両脚が徐々にこじ開けられていく。

涼しげな風が太ももの奥地をひんやり駆けるも、すぐさま森野さんの吐息がかかり始めた。

「すぐ綺麗になるから。……っん」

奥地が何かに挟み込まれた。
森野さんの唇かもしれない。
と、突然、吸い上げられるように、刺激が上下に移動していった。
森野さんの髪の毛が太もも部分を流れていく。

「ん……ちゅっ……んっ……ちゅちゅっ……」

上下のみならず、今度はごますりのように、奥地の刺激が回り始めた。
激しく口呼吸するも、酸素の供給が追いつかない。

「はぁむっ……ちゅっ……。……うん。……もう無い」

前方に見える街の景色をさえぎるように、下から森野さんの頭が上がってきた。
森野さんは下腹部を見たまま、白いハンカチを取り出した。
そして、開かれた太ももの奥地にハンカチを伸ばした。

「濡れてる。拭くから我慢して」

奥地を優しく撫でる刺激から一転、先の部分が乱暴に掴まれた。
森野さんの繊細なイメージとは裏腹に、かなり強く握られている。
そして、空き缶を磨くようにグイグイと上下にしごかれていった。

意識に反して、腰が勝手に動いてしまう。
体内の熱は喉元までせり上がり、蒸気機関車のような呼吸が熱く通っていく。

「どうしたの?」

森野さんの声が左耳をかすめる。
とてもじゃないが返答できない。
それでも、ひとまず目の前の光景に意識を集中させてみた。

青空の下には、まばらに崩壊した街並みが広がっている。
そして、左耳に息を吹きかけるように顔を近づけている森野さん。
森野さんはこちらの視線が気になったのか、街の方を振り返った。

ちょうどそこは被害の大きい地域だった。
目立つ高さの建造物が二つとも無くなり、密集していた住宅も変わり果てていた。

森野さんは一通り目にした後、再度こちらを向いた。
ハンカチを止めどなく動かしながら無表情でささやいた。

「あそこ、私が歩いた場所。昨日、私が歩いたの」

口を閉ざし、また無表情になる森野さん。

「まだ無事な場所だけ、もう一回歩いてみよっかな」

そう言い、森野さんは、しごきながら周囲を見渡した。
高い建物に目星をつけ、無事な地域を確認しているようだ。
その間、セーラー服を膨らませている胸元が豊かに揺れた。

「どこも近くはないけど、行けない距離じゃない。それに、ここからあそこまで間の道のり。まだほとんど崩壊してない。綺麗な状態の家も沢山残ってる。通行止めも少ないから回り道しないで歩けると思う」

ズボンの奥地がギュッと握られる。

「……楽しそう」

こちらを向いた森野さん。

「ねえ。私、今から歩いてきてもいい?」

耳をすませば、街のざわつきに溶け込むように、どこか遠くで緊急車両のサイレンが鳴っていた。
森野さんの目が細くなる。

「私が歩く間、揺れないといいね。最近、地震も多いみたいだから」

しかし、すぐ元に戻った。

「でも、やめた。学校から出歩いて、いま騒がれるのも面倒」

ハンカチの柔らかい刺激が無くなった。
森野さんはようやく手を離したようだ。

ところが、目の前の森野さんは胸の前で人差し指を伸ばし、セーラー服の胸元に押し付けた。
指先は白く沈み込み、小さい花丸を描くように回り始めた。
胸全体からセーラー服のこすれる音が生じている。

しばらくすると、森野さんは胸から指を離し、こちらの奥地に置き、ハンカチを軽くつつき出した。
トントンという刺激が直に伝わる。

「ねえ。ここに私の足、置いてもいい?」

森野さんのひざ下まで包む濃紺のハイソックスがじわじわと迫ってくる。

「夜になって、私が歩いてる時のこと。普段、人のいる家を見つけて、どうやって歩いてるか、教えてあげる」

森野さんの指先が花丸を描き出した。

「家から人が出てきて、何かに怯えてる。その人を中心にして風が強くなって、周囲が飛ばされ始める。そういう場所を歩くの、けっこう楽しい」

クルクルと描いた後、再度、トントンとつつき始める。

「うそだから。本気にしないで。人がいてもいなくても、歩いてて何も思わない」

背筋を伸ばし、屋上を見渡す森野さん。

「それに、足を置くなら、もっと広い場所じゃないと。甚大な迷惑がかかる。……当然、この学校も」

見渡すのを止め、こちらに顔を向ける。
トントンとつつく指を離し、手首の内側同士を合わせ、盃のように広げた両手に顔を乗せた。

「でも、あなたが別に気にしないなら」

森野さんならではの甘さで、声が控えめに弾けた。

「迷惑、かけてあげよっか?」

屋上から見える街並みには、人影がちらほらあり、各々の速度で動いていた。

午後の授業になっても、頭はぼんやりしていた。
夜は少し冷えこみ、火照った就寝をやわらげてくれた。

木曜日。

今日はすでに十回を越えている。
そう意識すると、また居ても立っても居られなくなる。
もう何度目かわからないが、再度、森野さんの方を見た。

椅子にミニスカートを広げ、白いセーラー服で日光を伸ばし、窓の外をぼんやり見ている森野さん。

苦しい。
熱湯を吸いきったタオルのように、胸が湯気を立てている。
森野さんから目をそらした。
熱々のタオルを絞りきり、さっぱりするまで顔を拭いた。
ほっぺたの深部を突き抜ける火照りが止まらない。
昨日の昼休み、それも一時間足らずの出来事なのに、体がおかしくなっている。

頭は森野さんに支配され、今朝、起床一番で確認したニュースも次第に薄れていった。
消失と崩壊が日本の半分に及び、数年では復興し得ない被害が出ていることも。
東京は特に被害が大きく、東京の象徴として有名な塔が消失してしまったことも。
そして、なぜか跡地は地盤ごと吸い上げられたように盛り上がり、斜面に倒壊したビルを残し、一キロの距離に及ぶ丘となっていることも。

どうにか心を落ち着かせていると、周囲の声がそれなりに聞こえるようになった。
いつもの話題はどこにもない。
話題のテレビも、人気のアプリゲームの話題も無くなり、街の被害だけが取りざたされている。

背後の塩やすりも同様だった。

「誰にも言わないでほしいんだけどさ」

明らかに森野さんの話題ではないと分かる口調の塩やすり。

「俺んち、四人家族でさ、弟がいるんだ。料理が好きで、晩飯を食った後に値引きを狙って、おふくろと車でスーパー行くのがお決まりなんだ。昨日もいつもどおり、おふくろとスーパー行ってたんだけど、いつもの時間を過ぎても帰ってこなくてさ。それが三十分とかならまだしも、二時間経っても帰ってこなくて。最初はスーパーが混んでて遅れてるのかなと思ったんだけど、昨日も例の地震があっただろ? だから……なんか嫌な予感がして」
「……うん」

落ち込んだ声で相槌を打つ窒素。

「俺、家から出てチャリでスーパーへ向かったんだ。だけど、道路は通行止めになってるわ、普段目にしてる家が消えて穴になってるわで、この街がほぼ別世界みたいだった。そんで、スーパーまで直進二〇〇メートルってところまで来たんだけどさ」
「……」

「道路がめくれ上がって絶壁になってたんだ。高さが二階建ての家を超えててさ。見上げれば、はるか上の方で標識とか電柱が水平になって、こっちに突き出てんだよ。そしたら、足元が急にすっげー揺れてさ。目を開けられなくなって、気を失っちまったんだ」
「え……」

「そっから先はほとんど覚えてないんだけど。ふらふら状態でどうにか家に帰って、すぐ寝ちまった感じなんだ。んで、今日を迎えたんだけど」
「……うん」

「朝になっても、弟とおふくろが帰ってきてないんだ」
「……」

「信じらんねえけど……。でも、もし家族が帰ってこなくて、このまま生きてくなんて考えたら。……あぁ、なんにも見えねえ、明日も、その先もずっと、大学も、就職も、将来の夢も、……嘘だ、だれか助けて」

森野さんを見た。
いつも通りの姿勢で着席し、窓の外を眺めている。

「神様、……助けて、あぁ森野さま」

机の下でミニスカートから伸びた脚を組み、どこか楽しそうにフリフリさせる。

「お願い森野さん。助けて。マジなお願い。助けて下さい、森野さん、マジで、誰か」

森野さんの視線の先には、街の無事な地帯がまだ残っていた。

チャイムが鳴り、担任が入ってきた。
担任も生徒もなんとか平静を装おうとするが、それは叶わない望みだった。

教室に置いてある椅子の半数は、今日まだ一度も引かれていなかった。

学校は授業どころではなくなり、午前中に切り上げとなった。
しかし、学校としては帰宅を勧めるわけでもなかった。
専門のチームが街の被害状況を調査したところ、この学校近辺は無傷であることが判明したらしい。
よって、安全な場所として、保護者が帰宅するまでの間、校舎に待機してもいいと言われた。
どうするかは自由だが、ほとんど強制だった。

昼休み、と呼ぶにはあまりに早い時間。
屋上の扉を開けた。
屋上は昼休みと変わらない明るさで、森野さんもいつもの場所に座っている。

感情を表に出さないタイプの森野さん。
この屋上もいつ崩壊してもおかしくないのに、怖くないのだろうか。
森野さんの隣に正座し、街の被害について切り出してみた。

「……」

こちらを全く見ることなく、右向きに正座し、街の方を見続ける森野さん。
返答はない。
だからといって、もう一度尋ねるのも気が引ける。

しばらく黙っていると、森野さんはポツリと言い放った。

「歩く場所、ほとんど無くなっちゃった」

たしかに。
今の状況を考えると、夜の散歩どころではない。
森野さんの楽しみが無くなったことに対し、一滴の傷心が胸を伝った。

「あなたが来る前にここを歩いてた。けど、もう終わり。沢山歩けて楽しかった」

森野さんは微動だにせず、街を見たまま話し続ける。

「明日が楽しみ」

それを最後に、無言になってしまった。
森野さんの周囲を、遠方から聞こえる緊急車両の音が通り過ぎる。

沈黙が気まずいので森野さんに他愛もないことを聞いてみた。
クラスメイトの半数が学校を欠席したことについて。
なぜ学校周辺が被害を受けていないのかについて。
これからの生活や将来のことについて。

どれもこれも、まるで何も聞こえてないように無反応だった。
さっきからずっと街を見続ける森野さん。

あまりに反応がないのでこれ以上は聞けなかった。
考え事をしているのだろうか。

と、突然立ち上がった森野さん。
スラリと伸びた脚をそろえ、手の甲でミニスカートを軽く払った。
両手の指を交差させ、気持ちよさそうに伸びをする。
濃紺のハイソックスのかかとが小さく浮き上がり、トンとシートに落ちた。
そして、内履きに足を入れ、屋上から出ていってしまった。

ゴドンと閉まった扉。
森野さんの後を追うわけにもいかず、しばらくシートに座りつづけ、森野さんの帰りを待つことにした。

それにしても、全身を包む日光が心地よい。
このまま風に揺られて眠ってしまいそうだ。

意識の半分は森野さんの妄想で、残りの半分はゆるやかな眠気。
時が経つのも忘れ、うとうとしながらシートに座り続けた。

帰宅するまでの間、眠りかけだったので記憶は定かでない。

たしか、森野さんは帰ってこなかった。

金曜日。

自席に座っていた。
太陽は白雲に遮られ、日の当たらない机に置いた手先が異様に冷たかった。
つららが指に憑依したわけでもないのに、息を吹きかけても温まらない。

恐る恐る時刻を確認する。
始業開始のチャイムまで残り三分。
もとより自信満々の人間ではないが、これだけは確信をもって言えた。

この教室には二人しか居ない。
もう出席確認の時刻なのに、三十名以上が登校していない。
窒素も、塩やすりも、そして森野さんも居なくなっていた。

背中を覆う曇り空の氷雪加減が、ひりつく痛みに変わってきた。

背中から溶けた一滴はやがて膨大な噴出に変化し、脳内を洪水のごとく流れ始めた。
今朝方、充電の少なくなった携帯電話を握り、食らいつくように見たニュースが。

修学旅行で訪れたあそこは、今や都道府県として機能しておらず、面積の半分が失われたこと。
他の県も例外ではなく、日本の人口の半数以上が消滅し、すでに国際的にも見限られ、再建の見通しが全く見えていないこと。
SNSでは友人や家族の消失を嘆き、生存確認を求める声で溢れかえっていること。

と、教室の扉がガラリと音を立てた。
その方向を見てみると、教室前方の扉から森野さんが入室し、こちらに向かってきていた。
教壇に上がり、黒板を大胆に横切り、席にかばんを置く。
ところが、席に座らず、一つ後ろの席に来て椅子に腰掛けた。
屋上と同じ。ちょうど左隣にいる森野さんを見た。

曇り空の窓を背に、森野さんは机を動かし、こちらに迫ってきた。
静かにコトンと、机と机がくっつく。
森野さんは一分の隙間もないことを確認すると、こちらをまっすぐ見てきた。

「おはよ」

戸惑いながらも、ひとまず小声で挨拶を返す。

無言のままこちらを見続ける森野さん。
白い肌一つ動かさず、無表情で瞬きを続ける。
しばらくして、顔をゆっくりと左側へ回した。

「あ」

教室後方を見る森野さんの目がわずかに広がる。
すぐさま目を細め、冷たい声で言い放った。

「……まだ残ってたんだ」

何かを観察しているのか、そのまま見続ける森野さん。
顔をふわりと戻し、再びこちらを向いた。

「近所のコンビニ、潰れちゃった。他に知らない?」

窓を見ると、遠方の至るところで黒煙が立ち上っていた。

授業開始のチャイムが鳴った。
担任の入室時間を大きく超過してから、見慣れない教師が入室してきた。
中年の女性教師で、からし色のセーターがまるっとした上半身を包んでいる。
女性教師は教卓にプリントを置き、読んでおくようにと告げ、すぐさま教室を出ていった。
来るはずの担任の姿はなかった。

ひとまず立ち上がり、プリントを二枚取って席に戻る。
椅子に座り、隣の机に一枚のプリントを滑らせ、森野さんの方を見た。

森野さんはプリントをつまみ、胸の前まで持ち上げる。
目を通したのは一瞬で、プリントを後ろへ放り投げた。
ひらひらと舞うプリントを構うことなく、森野さんは静かに語り出した。

「今日、いよいよ元に戻れる」

その内容は、無表情で語るにはあまりに突拍子のないものだった。

「この日をずっと待ってた。何千年も、こんな大きさで」

セーラー服の胸ポケットから何かを取り出した森野さん。
指先にあったのは、先週の金曜日に届けたものだった。
色とりどりの輝きが散りばめられた白い三角形。

「この星のこと、知ってる?」

机の上にそれを置いた森野さん。

「ここからずっと離れたところに、大きな星がある。それは本当に綺麗な光を放ってる。ルビーの中に澄んだ月を閉じ込めたみたいに。星の内側から放出された光は表層の大気に複雑に反射して、惑星全体が幻想的なオーラに包まれてるように見える。そんな、不思議で大きな星が三つ。この星から離れたところに存在してる。そして、ここからが大事」

椅子を寄せ、声を近づけてきた。

「数千年に一度、線で三つの星を結んだとき、綺麗な正三角形を描く日がある。そして、それを合図に、ある封印が解かれる。そう、解かれるの。ある存在にかけられた封印が」

ミニスカートに重ねた指先を置く。

「実は今、その存在はある惑星に住み着いてる。周りの生物に溶け込もうと思って、自分に似た生物の集う場所へ行って、退屈な時間を過ごしてるの。あまりに退屈だから、思い切って運動活動をする集団に入ろうとした。でも、百メートルを軽く走って七秒台を出したり、体操着のレオタードを着させてもらって、体育館に点在してたマットが浮き上がるほどに床を踏み砕いて八回転宙返りを完璧にしてみたり。その存在の力からすれば、ほとんど何もしてないも同然。なのに、周囲は腰を抜かして騒然となってる。結局、騒がれるのが面倒だからやめちゃったみたい」

指先をトントンと動かす森野さん。
ふと、周囲の机から音がしているのに気づいた。
机全体を揺する微振動から察するに、余震に違いない。

「そんな感じで、その存在は周りと距離をおいてたし、それが封印解除まで続くと思ってた」

余震が気にならなくなる頃には、森野さんは机の三角形を持ち上げ、胸ポケットにしまい込んでいた。
気が付くと、森野さんはこちらを直視している。

「でも、最近は、心に変化が現れてるみたいなの」

しばらくの無言。
森野さんの白い肌に見とれていると、清廉な声が聞こえてきた。
冷たくも、初雪のような淡い明るさがあった。

「私、今日を楽しみにしてた。まだやることはあるけど、今日それを済ませる。これで本当の力を手に入れて、本当の心を手に入れて」

突然、窓の景色を見始める森野さん。

「私は、本当の大きさになれる」

森野さんの見ている方向では、消失と崩壊により変わり果てた街が黒煙を上げていた。

「元に戻ったら、あいつに復讐するつもり。私をこんなに小さくしたあいつと同じ大きさに戻って、今度は私があいつを封じる。あいつと対峙したら、きっと色んなものが一瞬で崩壊する。私達の力の前では、どんな存在も意味をなさない。でも、最終的には私が勝つ。そしたら、あいつの力も大きさも奪って、私と同じ目に遭わせてやるの」

外を見続ける森野さん。
くるりとこちらを向いた。

「でも、今のままだと、問題もある」

相変わらずの無表情。

「三つの星を結ぶ線。そこに邪魔があってはならない。邪魔が入ったら、線はいびつなものになる。そんな三角形だと、私は完全に戻らない。私が欲しいのは、誰も邪魔できない綺麗な線」

目線をそらすことなく淡々と話す森野さん。

「あなたならどうする? もし、紙に定規を置いたとき、線を引く場所にゴミがあったら」

静寂をかき分け、重い空気がじりじり流れていく。
森野さんは目を細め、何の感情もなく言い放った。

「私なら、そういうゴミ、排除するから。跡形もなく」

反射した声が背中に響くほどに、教室は静まり返っていた。

ただただ息を呑んでいると、森野さんに腕のシャツをつままれた。
わずか二本の指先で触れられただけなのに、背中がゾクッと震えた。

「こっちきて」

立ち上がった森野さんに強制的に連れていかれる。
教室の扉を通過し、廊下まで引っ張り出された。
誰も居ない廊下を見て、記憶がまざまざと脳裏に蘇ってきた。
ここは先週の金曜日に森野さんに届け物をした場所だった。
今あの時と同じ位置に立っている。

そして、森野さんもあの時と同じ位置に立ち、こちらを向いていた。

「ねえ、お願いがあるの」

近づいてくる森野さん。
顔が急速に熱くなるのを感じる。

「私のスカートの中、手を入れて」

突然、手首を掴んできた。
それにも驚いたが、それ以上に言っている意味が理解できなかった。
一方、無表情の森野さんは平然とこちらを見ている。

手首が徐々に森野さんへ近づいていく。
のどを通る息がみるみる荒くなっていく。
ついに、手の甲をくすぐるように、ミニスカートの感触が伝ってきた。
それでもなお、手首を寄せる森野さん。

ふいに、指先に柔らかいものがあたった。
触れたかどうかもわからないほど柔らかく、指先が瞬時に火照った。

「あっ……」

森野さんから熱い吐息が漏れ、高鳴る心臓を包み込んだ。
すでに意識の大半は蒸発し、立っているのがやっとだった。
ガクつくひざ元。
それでもなお、森野さんはこちらの全てを無視し、指先にミニスカートの中を味わわせていく。

突然、指先に違和感が生じた。
森野さんの柔らかい肌では考えられないほど無機質な硬さが爪に直撃した。
それでも、森野さんはさらに指先をまとわりつかせていく。
やがて、すりすりと上下に撫でさせ始めた。
長くてただただ硬い。

指ざわりは実に異様なものだったが、急速に、嫌な予感がした。
それは円柱らしい形をして、ところどころ凹凸がある。
指二本分の太さ。そして、とにかく硬い。

とめどなく撫でさせ続ける森野さん。
ピタリと、手首を掴む感触が停止した。

「それ、できるだけ強く握って。じゃないと怪我する」

無表情でこちらを見る森野さん。
困惑するも、言われたとおり手を握り、皮膚が同化するほどに力を込めた。

その瞬間、ぐいっと、手首が力いっぱいに降ろされた。
握りしめたそれはズルリと外れ、ミニスカートから引きずり出された。

即座に手元を見たが、瞬時に血の気が引いた。
手の中には黒光りする物体があった。

森野さんはそれを取り上げ、胸の前でぷらんぷらんさせる。
その物体の名前は、こちらが尋ねるまでもなかった。

さらりと言い放つ森野さん。

「けん銃」

動揺混じりの復唱に対し、うなずく森野さん。

「拾った。少し前にレンタルコンテナの敷地を歩いてたら、足元に落ちてた」

けん銃を腰まで降ろし、淡々と語る。

「そろそろ封印が解ける。もちろん、この星にあるものはすべて消す。……でも、それはやめた」

瞬く瞳がこちらを直視する。

「私、あなたのことを消したくない。あなたが望むなら、あなたの住む家も残してあげる。それに、この学校も残したい。あなたと出会えたこの場所。私が本当の大きさに戻っても、ちゃんと守りたい」

清廉な声に冬の花を感じた。

「だからお願い」

手に握ったものを差し出した森野さん。

「このけん銃で校舎にいる人間、全員殺して。誰も居なくなって、空っぽになって、あなただけが居る校舎。これからもずっと守る。弾が切れても問題ない。私のロッカーの中にまだまだ沢山ある。くれぐれも自分に銃口を向けないで。引き金を引けば、またすぐに殺せるようにしてあるから」

右側の窓へ向かい、サッシ辺りにけん銃を置いた。
絞られた日光に黒髪をさらし、外を確認する森野さん。

「そろそろ行かなきゃ。私が戻ってくるまでに全員殺しておいて」

後ろを向き、どこかへ向かって歩き出した森野さん。
玄関へ行き、校舎の外へ出るつもりだろうか。
呼び止めるべく声を慌てて出した。

森野さんは立ち止まり、こちらを振り返ってくれた。
瞬きを絶やさず、じっと見ている。

もう、とにかくわけがわからない。
ただでさえ今、日本全体が大変なことになっているのに、真顔で奇妙なことを話されては冗談に聞こえない。
それに、エアガンか何かわからないが、偽物の銃だとしても、突然クラスメイトに銃口を向けるのは失礼すぎる。
やけに重くて作りがしっかりしていて、本物の銃っぽいからこそ、余計にたちが悪い。
とてもじゃないけど、そんな役回りは無理だ。

黙って話を聞いてくれた森野さん。

「本気で言ってるの?」

どこか暗い声だったが、構わずに続けた。

森野さんの考えも、わからなくはない。
学校が活気を取り戻すにはどうすればいいか。
どんよりと鬱屈した雰囲気を吹き飛ばすために、あえて滅茶苦茶なことをする必要もあるだろう。
ショック療法というわけだ。
そして、森野さんのプランが成功すれば問題ない。

しかし、失敗した場合、代償があまりに大きすぎる。
数人だとしても、今後、後ろ指を指されて生きていけるほど、メンタルは強くない。
森野さんなりに一生懸命に考えているのはわかる。
それでも、今は教室に戻って、他の方法を考えるのが得策だ。
そして、他の方法で学校の活気を取り戻そう。
そのためなら出来る限りの協力はするつもりだ。

無表情の森野さん。
目が鋭くなった気がした。

「殺すの? 殺してくれないの? どっち?」

答えた。

「……そう。……わかった」

森野さんの目元が和らぎ、廊下全体が明るくなった。
太陽をさえぎる雲が退いたようだ。
廊下の向こう側までスッキリ見える。

「あなたのことも、この学校も、せっかく残してあげたのに」

森野さんの両肩が力なく下がっている。

なにかおかしい。

「こんな、吹けば消し飛ぶ存在、ずっと守ってあげようと思ったのに」

顔をうつむかせる森野さん。
眉が下がっていたが、それも一瞬だった。
森野さんはすぐに顔を上げた。
冷たい声だった。

「もう、興味ないから」

くるりと後方を向き、左側の白い柱に隠れるように駆け出した。

急いで後を追う。
全力で走ったおかげもあり、柱をちょうど曲がった辺りで森野さんの腕を掴めた。

森野さんの左肩は呼吸に合わせてセーラー服を揺らし、うなじと頭部には黒髪が流れている。
ゆっくり、森野さんの黒髪がこちらを振り向くように回っていく。

と、同時に耳を疑った。
森野さんがこちらを振り向く動きに従い、廊下全体から山と山をこすり合わせたような轟音が鳴り響いた。
あまりの凄まじさに腕を掴んだ手が震えだす。
手の甲に、天井から剥がれた何かがパラパラ降りかかった。

森野さんの頭部が止まると、畏怖の音も収まった。
その代わりに、こちらを向いた森野さんの口から街を見下すような声が放たれた。

「触らないで。小さいくせに」

左ほほが分離するほどの風圧と共に、平手打ちが飛んできた。
指先があごをかすめる。

そんな記憶も一瞬にして消え、遠くに放たれた森野さんの姿が廊下ごと左回転し、電流に裂かれた痛みが背中に走った。
閉ざされる暗闇に残っていたのは、廊下全体に大きく響いた鈍い音だった。

…………。

……。

砕かれた意識は霧となり、めまいのように揺れ回る後頭部に付着した。
斑点状の鈍痛がうなじに伝搬し、皮膚を食い破っていく。
プツプツと空いた傷口から輪ゴムのように柔らかな首の骨が空より高く伸びていき、眼前に垂れた赤黒い眠りが割れ、凍り付いた湖にドクドク跳ねるこめかみの脈が色づき始めた。

徐々に意識が戻ってくる。弱々しくも、力がまぶたに宿っていく
薄目までゆっくり開けた。
瞳が金縛りにあったように、見えているすべてが何も見えない。
床に手をつき、ひりひり痛む頭部を持ち上げ、上半身を起こしきり、残りの気力を振り絞って立ち上がった。
鼻から明るい空気を吸い、頭部をかき乱す音を落ち着かせ、もういちど目の前を見た。

次の瞬間、朦朧とした意識を一気に吹き飛ばすような光景が目に映った。
そこは森野さんが居た場所。
上の階へと通ずる学校の階段で、森野さんが向かったであろう場所だった。

低めの段差で横幅を広く設計した階段には亀裂が全面に生じ、所々、三角定規の角度で跳ね上がった床材が目立つ。
亀裂の大元をたどると、階段の右側に行き着いた。
そこの崩壊の度合いは群を抜いている。

世界最大の恐竜が思いっきり飛び上がって着地した衝撃を十倍に増幅したような有様だった。
それが階段を登るように、一段目から最上段の間に二箇所発生している。

こんなことを出来る存在はただ一人しか居ない。
それにようやく気づくと同時に、心の何かが粉々に崩れていくのを感じた。

森野さんだ。
森野さんが階段を上った際に踏み砕いてしまった。
森野さんにとってはほんの少しの力を出し、いつもどおりの感覚で上った一歩で。
森野さんの話は、まさか、本当に……。

胸の中におぞましいほどの罪悪感がこみ上げてくる。
森野さんに理解を示し、もっと話し合えたなら。
あのとき、あんな返答をせず、他の返答で森野さんの気持ちを変えられたなら、世界中の人間が消されるなんてことには……。

いや、今ならまだ間に合うだろうか。

目の前にはいつ崩壊してもおかしくない階段がある。
歩く場所を一歩でも間違えたら、崩壊に巻き込まれ、片足を一生失ってしまうかもしれない。
誰も救助してくれず、激しい痛みにもだえ、涙の枯れる前に絶命するかもしれない。
それでも、森野さんを止めようとする気持ちは止まらなかった。

森野さんの足取りを追わなくては。
そう思い、なるべく被害の少ない階段の左端へ向かった。

一段飛ばして二段目に足を乗せる。
細かい瓦礫の感触が足裏に伝わり、慎重に乗せていく体重に従い、パリパリと割れる音がした。
無事に一歩目を終え、横目で森野さんの足跡を見る。

やはり遠くで見るのとは全然違う。
あまりの凄まじさに絶句してしまう。
これが一人の女子の足跡なのだろうか。

えも言われぬ恐怖に身震いするも、逼迫した罪悪感に駆り立てられ、二歩目を踏み出すしかなかった。
最上段まで上りきり、折返しの階段も上りきった。
目の前はT字となっているが、森野さんの足跡は左の廊下へ続いている。

なるべく廊下の無事な部分を歩き、森野さんが歩いたであろう道のりを見た。
まっすぐに伸びる廊下で、一階部分と何ら変わらない。
右側の窓が対面の教室を照らし、教室前後の入り口に挟まれてロッカーが陳列している廊下。
それも、昔の話だった。

森野さんの足跡一歩分は廊下の半分を陥没させ、周囲に亀裂を伸ばしている。
右側の壁は崩れ去り、窓ガラスの大半は吹き飛ばされ、窓の枠組みがお辞儀をするように曲がっている。
教室に接するように置かれたロッカーも大幅にずれ動き、廊下に倒れているのがほとんどだった。
原因は、森野さんのハイソックスで踏み込まれた衝撃なのか、あるいはミニスカートをなびかせ、弾丸を越えて走り去ったためなのか。
いずれにせよ、人間の思考に入れてはいけない惨状だった。

倒れたロッカーに足を乗せる。
細かい粉塵がロッカーに積もっていて、足裏が滑りやすくなっている。
転倒してフローリングの廊下に落ちないように腰を大きく落とし、慎重にねずみ色の橋を渡っていった。
右脇腹がスースーする。窓ガラスのない廊下は屋外と変わらない。

ロッカーを見下ろしながら歩いていると、細長い蛍光灯の残骸が目についた。
立ち止まって顔を上げる。
天井の真ん中に人間一人分の穴が空き、向こう側の天井が暗く見えた。
森野さんの一歩は、ついに廊下を貫通してしまったらしい。

焦りがぞわぞわと肌にまとわりつく。
急いで森野さんの足跡を追うべく、ロッカーを飛び跳ねていった。
森野さんの足跡は廊下の突き当りを左折して見える階段へと続いていった。

階段を上り終わり、右側を向いて目の前の廊下を確認した。
さっきの廊下とは左右反転した配置となっており、左側にガラスのない窓があった。
廊下の足跡をたどっていくと、森野さんの二歩目に穴が空いていた。
そこから先は森野さんの衝撃がくっきり残り、フローリングの亀裂は柱を伝って天井まで達していた。

一歩目を踏み出したが、強烈な違和感が頭をよぎった。
ロッカーが存在しない。
一階下の廊下ではことごとく倒れていたが、今度はどこにもない。

慎重に進みつつ、右側を向いて教室の壁を見た。

耐えられず、裏返った悲鳴を短く出してしまった。

そこは、一枚の薄っぺらい紙に工事現場のドリルを押し当てたように、教室の壁全面が向こう側に押しやられ、ロッカーが潰れた状態でめり込んでいた。
教室の中は何も聞こえず、しんと静まり返っている。
登校の様子からして、無人ではなく、各教室に一人か二人くらいは登校しているはずだ。
その人達は一体……。

前方へ伸びる廊下に顔を向け、一目散に森野さんの足跡を追った。
この学年の一組も二組も三組も、すべての教室がロッカーごと壊滅している。
状況的に考えて、森野さんがロッカーを押しのけて駆けていったようだ。
きっと片手で、抑えきれない感情に支配されないように、壁を取り払う感じで。
森野さんはおそらく二十秒も経たずして、片手のみで一つの学年を消してしまった。

足跡は渡り廊下を経て、別の校舎へと向かっている。
陥没部分の中央に咲く女子高生離れした足跡を見ていると、ふと考えてしまう。
人間的な歩幅から察するに、森野さんはまだ常識的な速度で走っていたようだ。
もし、森野さんが本来の速度を出していたなら、校舎の三階部分はすべて一瞬で吹き飛び、二階部分を残した廃墟状態になったに違いない。
それどころか、森野さんの衝撃は学校敷地を越えてしまい、近隣住宅が残っているかも疑わしい。
そう考えると、この解体中と何ら変わらない廊下が新築同様に見えてきた。

足跡を追っていると、ほのかな記憶が罪悪感を掻き分けて蘇ってきた。
この行き先は、まさか……。

その直感は当たっていた。

森野さんの足跡に導かれ、屋上前に到着していた。
ここ一週間、森野さんと時間を共有した場所。

二人の思い出の場所だった。

扉を開けずとも、屋上の景色がよく見えた。
はるか遠くに、砕かれたコンクリートに混じって、重厚な扉がクズ同然の姿となっていた。
吹き飛んだ方向を見て、森野さんは取っ手を握ったどころか、指一本すら触れずに走り抜けたように思えた。
頑丈な扉もホコリ同然だったのかもしれない。
森野さんの走りを止められるものは、きっと地球上に存在しない。

屋上に一歩踏み入れた。
森野さんの足跡は屋上に入って右方向へと徐々に曲がり、ゴールテープのように突き破られた緑色のフェンスを最後に消えていた。
屋上から飛び降りたとしか考えられない。

床の安全な部分を見極め、屋上の中央まで来た。
森野さんと共にシートに座り、昼休みを共有した場所。
あの時と同じ方向を向いた。

街の面影は残っていなかった。
景色の全面に渡って、底なしの穴が空いていた。
住宅はおろか、堅牢なビルさえ一つも残っていなかった。

高鳴り出した心臓に急かされ、自宅の方向を見る。
これまで揺れることなく、地割れの一つなく無事だった自宅も、ロウソク似のビルと共にあっさり消えていた。

見えるものといえば、はるか遠くの低くなった山と、ふもと辺りに出来た崖のみ。
その崖の下限も果てなく、目で追えば追うほど暗くなり、崖の途中にも関わらず完全に闇に飲まれていた。

空を見上げる。
一日中雲に覆われ、晴れる時間はほぼ無いと予報された空は恐ろしい快晴に変わっていた。
わずかながら、切った爪のような雲の面影がうっすら残っている。

足に力が入らなくなり、ガクリとひざをついた。

ああ、森野さんを怒らせてしまった。
怒った森野さんは屋上から飛び降り、平然と着地した後に元の姿に戻ったに違いない。
大きさは不完全ながらも、足元を気にせず、どこか遠くへ行ってしまった。
どれだけ喉を枯らして叫んでも、決して聞こえることのない、どこか遠くへ。

上空から物々しい噴射音が聞こえた。
顔を上げると、青空を泳ぐように二機の飛行機が遠くへ飛んでいった。
見たことのない飛行機だ。
飛行速度も尋常ではなく、機体はまたたく間に点となり、山の向こうまで消えてしまった。

呆然と眺めていると、遠方から爆発音らしきものが聞こえた。
精一杯、目を凝らしたものの、空は青いままだった。

ふと、屋上の瓦礫が細かく振動していることに気付き、慌てて立ち上がった。
揺れは次第に大きくなり、フェンスが震え、下階から机のきしむ音が鳴り、校舎全体が崩れているような音が轟き始めた。

かかとが浮き、つま先に全体重がのしかかるほど前のめりになる。
踏みとどまろうとするも、すねがフェンスに吸い込まれ、ガシャンと緑の網目に全身を絡め取られた。
ワイヤーで出来たハンモックにうつ伏せになった感触がする。

屋上に残された破片が次々転がり、右耳の向こう側から大規模な土砂崩れのような音がする。
正気を奪われそうになり、まぶたをギュッと閉じた。

なにもかもが傾いている。
校舎も、この街も、きっと日本全体が森野さんの体重に耐えられなくなり、森野さんのかかとに向かって傾いているに違いない。

固く閉ざしたまぶたが白く侵食されていく。
暗闇の色が洗い流され、混沌とした優しさが広がり始めた。

白くなっていく。
暗闇を奪うように白くなっていく。
方向感覚を無くすほど白くなっていく。

どれほどまぶたに力を入れようと、もはや目を閉ざしていられない白さになってしまった。
脳が手触りのない雲になったように眠い。

……誰が生きているかなんてどうでもいい。
きっと誰も助からない。
森野さんの小さな第一声で銀河が吹き飛んで終わる。

薄れる呼吸の代わりに、森野さんの香りが漂ってきた。
その美しい香りは、何十億と一個を消失させ、宇宙を怯えさせるほどに、無関心で静かだった。

おしまい