「甘い!」

メイド服の少女は教会の薄暗さを切り裂くような助走を終えると、床から飛び立った。
体を天井付近まで届かせ、両手の刀を頭上まで振り上げる。

「そこっ!」

すでに振り下ろされていた刀から三日月に似た白色の衝撃波が飛び出す。
衝撃波はロウソクの香りを真っ二つに裂きながら、祭壇が粉砕される音と共に女性姿の石像にヒビを入れた。

「ぐあぁっ!」

人間の何倍も大きな石像は胸元をおさえながら、苦痛の表情を見せて後ずさる。
何十トンもの重さをほこる灰色の素足がズドンズドンと床を粉砕していく。
真珠を思わせる綺麗なかかとが堅固な床を跳ね上げるたびに、衝撃で崩れる天井から瓦礫が落ちていく。

メイド服の少女は着地を終えて立ち上がると、後ずさる石像に刀の先を向けた。

「もうおしまいですか?」

銀色の刀に、余裕を味わう口元が小さく映る。

「クッ、おのれ……」

女性姿の石像はゆっくりと迫る足音に憎しみをぶつけると、前に両腕を突き出した。
ピンと伸ばした掌底。
指先をクロスさせる。
手のひらの前で急速に膨らんでいく、まがまがしいほどに赤い光の、太陽。

「っ!?」

刀から笑みが消える。

「ククククククッ、もう遅い。貴様のような人間など滅びよ」

灰色の目が大きく見開く。
一瞬にして爆音が周囲を吹き飛ばしていく。
邪悪な牙が跳ね上がった瓦礫を弾いた。

「ジャッジメント・オブ・ディスペア!」

手のひらの太陽はいくつもの矢弾にわかれ、メイド服に向かって飛んでいく。
ぼう然と立っていた少女は避けるまもなく、赤い弾丸に飲まれてしまう。
地面が四方の壁までちぎれ飛び、天井の崩壊が激しくなっていく。

「どうだ? 体が八つ裂きにされる感覚は。ククククククッ!」

女性姿の石像が笑い終わる頃には、メイド少女の姿は跡形もなくなっていた。

「クククッ……邪魔者は葬った。これで世界は我が手の中に」

天井をなぞるように伸ばした手を、灰色の邪悪な瞳が見つめていた。
突如、外からの大きな風切音。
教会が揺れる。

「……何だ?」

灰色の瞳があたりを見回せば見回すほど、風の音は大きくなっていく。
その音は一気に爆発音となり、天井が何本もの肌色の柱によって弾き飛ばされた。

「な、なにっ!?」

壁までもが弾丸のようにバラバラと飛びかう教会内で、女性姿の石像は慌てて消滅した天井を見上げる。
そこには白昼の晴天まで届きそうなほどに大きなメイド少女がしゃがみこんでいた。
片手で教会をなぎ払ったメイド少女は立ち上がる。
その動作だけで、教会を中心に据えた街全体が揺れ始める。

「許しません」

轟音と共に黒いスカートが揺れ、白いニーソックスが持ち上がり、可憐な右靴が空を占拠する。
街から上がる小さな悲鳴達が街外れの草原へ消えていく。

「ご主人様の邪魔をする者は、神だろうと、ねじ伏せるだけ」

少女の殺気に満ちた表情を止められる者など、もはや誰一人として存在しなかった。

「インディスクリミネテリー・ストンプ!!」

右足を一気に、無慈悲に、白騎士が振り上げたスピアのように鋭く突き刺した。

足の風圧だけで教会の柱が根本から吹き飛び、衝突した樹木の根を浮かせるほど折っていく。
女性姿の石像は――体を崩すこと無く、姿を保ったまま――教会を崩壊させていく足音に巻き込まれて踏みつぶされた。

少女の食いしばった口元が見下ろす先、黒色の靴が街の中心地にめり込み、街の姿を完璧に破壊していく。
一歩踏み込んだだけで、教会周囲にあった沢山の住宅が数十メートルも飛び上がり、上空で道路ごとバラバラになる。

黒色のスカートが揺れ終わった。
無数の巨大な地割れが何もかも飲み込み、街の敷地外まで伸び切っていた。

少女は足を持ち上げ、住宅が存在していた場所に移動させる。
二回目の衝撃は静かに教会跡地を動かしたが、女性姿の石像は動かなかった。

戦いは終わった。完全勝利だ。

少女の唇が開く。

「どんな苦難が降り注ごうと、わたしがご主人様をお守りいたします」

落ち着いた声がはるか上空の気流をねじ切っていく。

凛としたメイド少女の視線の先で、ほんのりと微笑を浮かべている、一人の男性。
彼は得意げに髪をかきあげると、缶コーヒーのブラックをすすって、平和が訪れた世界に祝杯を上げた。
やがて二人をたたえるように、長き戦いに終わりを告げるフィナーレが流れ始めた。

――――あ、俺です。
怪獣が女の子だったら……なんて考えていたら、幼馴染が本当に巨大化しやがった、っていう俺だ。
どうも。

今、俺の目の前で光っているこの筐体はゲームセンターにある最新格闘ゲームだ。
俺の中で激アツのマイブームなのだ。
週に二、三回は遊んでいると思う。

言っておくが、別に俺はゲームが得意ってわけじゃない。
複雑な連続コンボなんてできるわけがないし、必殺技のコマンドが入力できただけで、ちょっと優越感に浸れるってレベルだ。
このゲームも最初は興味がなかった。

だがバージョンアップを重ねる内に、なんと超必殺技で巨大化するキャラが追加されたのだ。
ぶっちゃけた話、そのためだけにこのゲームをやっている。
強烈な要素が一つあれば、それだけでドハマリしてしまう。
そういうの俺だけじゃないよな?

少し興奮気味な俺はニヤニヤと笑いながら、ふと足元をみた。
トートバッグの中から新品の参考書が顔を出している。
『いっしょなら大丈夫だよ。ゼロから学ぼう、僕らのストーリー』ほか数冊。

それらが瞳に映った途端、氷水をぶっかけたように興奮が冷めてきて、苦々しい頭痛が暴れはじめた。
俺は涙のない泣き顔を、素早く両手でおさえる。
なんだか静電気が脳みそに穴をプスプスッと開けているみたいに痛い。

まぁ……、本当はゲームをしている場合じゃないんだよ。
実はテストで赤点を取ってしまったため、後日追試がある。
せっかく今日から連休が始まるのに、テスト勉強をしなくてはならない。

ちなみにバッグの中の参考書『いっしょなら大丈夫だよ。ゼロから学ぼう、僕らのストーリー』
これは日本史と世界史をいっぺんに学べる本だ。
ネットで調べたが、赤点は基礎すら理解できていない証拠らしい。
だから俺のようなヒヨコは、漫画のキャラクターと一緒に学べるような、入門書から学習するのが一番なのだ。
まったく、中学生レベルからやり直しなんて嫌気が差してくる。

それに、さっき書店で何冊も参考書を購入したから、もう金がないんだ。
今のワンプレイだって、なけなしの小銭だったのだから。
これだと当分の間、いとしのゲームはおあずけじゃないか。

月末までの二週間、追試と金欠。

「…………はぁぁぁ、一体どう過ごせばいいんだよっ」

気がつけば、俺はハッピーエンドの世界の前で、つらそうに俺の頭を抱えていた。

……はぁぁぁ、……あーぁぁぁ、……ああぁん、あんっあぁんっっ、…………ってやってても仕方ないよな。

しばらくして俺は観念したように俺の腰を持ち上げて、席から立ち上がる。
指でつまむように缶コーヒーを持ち、トートバッグをぶら下げながら、出口横のゴミ箱に向かった。

ズズッと最後の一滴まで吸って、ゴミ箱に空き缶を入れる。
透明なビニールがタバコ臭で汚れた空気を揺らし、足元で金属の衝突音がこもり気味に響く。
ゲームセンターでの俺の日常だ。
日常……ではあるのだが、一つだけおかしなことに気づいた。

やけに静かなのだ。

静かどころか、誰もいなくなっている。
スタッフの姿すらない。
そこそこ広い店内に俺だけだ。みんなどこへ行ったんだよ?

一歩下がり、後ろに背中を傾けて、にゅっと店内をのぞいてみる。
やっぱり誰もいない。今日はもう閉店だった……っけ?
変だな、と首を傾げながらも俺は自動ドアを通過した。

外に出ると、昼下がりの晴天が待っていてくれた。
思わずジョギングしたくなるほど快適な風が首元をくすぐる。
こういう日に自転車をかっ飛ばせば、最高に気持ちいいだろうな。

「自転車……だよなぁ。いいやつが欲しいよ。誰か俺にプレゼントしてくれたらなぁ」

青空に両手を伸ばし、血管のコリをほぐしながらつぶやく。
まったく信じられなかったのだが、なんと三秒後にその願いがかなった。

歩道に立っている俺の前髪をブワッと横に揺らしながら、本当に何台もの自転車が空中をぶっ飛んでいった。
見開いた目には一瞬しか見えなかったが、どの自転車もひっくり返ったまま激しく折れ曲がっていた。
自転車というか、破損したパーツがかろうじてつながっている、という感じ。

「な、なんだ!? 一体何が起きたん――」

言い終わらない内に、歩道からの異常な爆発音が地面ごと俺を突き飛ばした。
両足が浮き上がり、猛スピードで近くの街路樹に肩から激突する。

「ぶがぁぁっ!!」

バゴォォンと樹木にぶつかり、全身が交通事故のように跳ね飛ぶ。
背中にガードレールを食い込ませ、目から火花が出るような痛みのままうつ伏せに倒れこんだ。

まるで上半身がシャツごと切断されたような痛みで半泣きになる目元。
しかし涙を流す間もなく、俺の体は何かの破壊音と共に上空へ昇っていった。
小さくなっていく目下の歩道では、半分に折れた街路樹が転がり、大幅に曲がったガードレールが歩道の底に沈んでいる。
なんだか巨大な指が俺の体をつまんで、爪痕を刻んだみたいだ。

グングン昇っていく俺の視界。
突如、肌色の大きな浮遊物が視界に入ってきた。
ビルとは明らかに異なる、温かみのある肌色の大地。
その先端は、まるで神殿の大きな柱が並べられているように、何本かに伸びている。
俺は信じたくなかったが、生まれつき持っている巨大化属性のセンサーがビッックンと反応してしまった。

……手だ、女性の。
あまりに大きすぎて軽々とビルの屋上を覆ってしまい、少し力を入れただけで屋上と関係ない数階まで握りつぶし、
その破壊音で地上の車を小さくガタガタと道路ごと揺らせるほど、人間離れした大きさの手だ。

そんな大きな手の上に俺は優しくポッと乗せられた。
俺を掴んでいた手は、大きな手のひらの下を支えるように重ねられていく。
ほっぺたの冷や汗を肌色の大地にすりつけていた俺は、ゆっくりゆっくりと上半身を起こす。
呼吸を少し整えて、背中の痛みさえ忘れて、恐る恐る振り向いた。

「ひぃっっっ!?」

速攻で裏返った悲鳴を吐き、ギョッと大きく目を見開くしかなかった。

「マ、マジ……かよ」

そこには、一人の少女がじぃーっと俺を見つめていた。
キャラメル色の髪をリボンで結っている、まだ幼さが残る可愛らしい顔。
だが、輪郭の大きさは一軒家を軽く超えている。
首から下には、メイド服の黒色を包むように、エプロンが白く映えている。

俺はパニックで頭が空っぽになっていた。
怯えた脳みそが秒速で喉の奥に避難して、喉骨を揺すっている。

こ、こここ、これ、アレだよな?
小説とか絵とかで、み、見たことが、ああ、あるんだけど……
可愛いけど、実は残虐な女の子で……
つかまって握りつぶされるか、丸のみされるっていう――――絶対死ぬやつじゃないのか!?

後ずさろうとしてもまともに動けない。
喉の震えで呼吸が苦しくなってきた俺に向かって、いよいよ少女が口を開いた。

「あの」

ひぃっ! ま、まま、まだ死にたくない! 誰か……た、たすけてくれ!!

「……た、助けてくださぃ」

そう! 誰か助け……て……………………、へ?

うさぎさんのように可愛くて甘い声が、俺の耳をぴょんぴょんと通りすぎていった。

胸の心境を言い当てられた俺は、ますます混乱していく。
お、俺が助けてほしいのは間違っていないよな? だけど少女が助け……て?
ちょっと、なんだか、意味不明だ。誰か説明してくれ!

脳内の検索エンジンに速攻で検索をかけてみる。
しかし、そんな賢者のごとき回答サイトなどあるわけないことに気付く。速攻で。
俺は少女の言葉の真意を確認すべく、汗で冷え切った勇気を振りしぼって、震える声で問いただしてみた。

「……たた、助け……です、ですか?」
「……はぃ」

少女は困った表情でこっくりとうなずく。
キャラメル色の髪を止めているフリフリのカチューシャがふんわりと揺れる。

頭上からの強い風がシャツを揺らした。
お城でほんのりと桃色を輝かせる洋花のような、甘くて優しい香りだ。

俺は一度だけスゥーッと深呼吸をする。
緊張で火照った息を吐き出しきると、少しだけ落ち着いてきた。

なにやら少女は助けて欲しいみたいだ。
ということは、俺は大丈夫なのか? 死なずに済むのか?
助け……って一体何をすればいいんだ?

少女の大きな手の上で尻もちをついたまま、パチパチと混乱した目をまばたく俺。

そんな小さな人間に助けを求めるような表情で、メイド少女が話し始めた。

「ミルノ、この街におつかいをしに来たんです。初めてこの街に来たので、緊張しているんです」
「…………は、はぁ」

「それでいくつかわからないことがありまして。街の人に聞いてみたいと思ったのですが……みんな逃げて行くんです」
「そ、そうか……」

困り顔でみゅんみゅんと口を開く少女に対して、俺はぎこちなく相づちを打つ。

「ミルノ、嫌われているのかなって思って、一人で心細かったんです」
「はぁ……」

「そうしたら、おにぃさんがミルノの近くまで来てくれたので、し、信じられなくて、一歩だけ近づいたのですが……」
「き、来てくれたというか」

俺は後頭部に手を当て、戸惑いながらさすった。
その上空で、少女はちょっぴり目を輝かせて言う。

「あの。もしかして、ミルノを助けてくれるんですか?」
「い、いや。その、なんというか、これは」

言いたいことが、口の中でかぎ爪のようにひっかかって出てこない。

しかし、頭の中では――なんとなくだが――今の状況を察することができた。
さっきまでゲームセンターで遊んでいた俺はあまりにゲームに熱中していたため、避難命令に気づかなかった。
店内に誰も居なくなっていたのは、みんな避難をしていたためだろう。
そして俺が外に出たら、たまたま少女の足元に居合わせた、というわけだ。

うじうじと考え込んでいた俺の姿をみて、少女は心配になったのか、

「ミルノを助けて……、くれない……ですか?」

声と表情がたちまちに暗くなっていく。
いやいや、えっと、なんというか――

「助けないとかじゃなくて、えっと……。そ、その、悩みを聞かない限りはなんとも言えないんだ。
俺が助けてやる、なんて無責任に言えない……だろ?」
「…………はぃ」

落ち込んだ声ではあるが、小さくうなずいてくれた。

「だから、助けてほしいっていうのは、具体的にはどんな――」
「あ、はい。それは」

少女の表情がちょっぴり明るくなる。
目線を腰元へ向けて、白いエプロンの横へ片手を伸ばす。

そこには数台の自動車が入りそうな、肩掛けの小さなバッグがあった。
お団子のような楕円で、カリッと焼いたワッフルの色をして、麻っぽい素材を編み込んだ作り。
いわゆるポシェットと呼ばれるものだ。

「あれ? さっきまであったのに、ど、どこに」
「ど、どうした?」

ポシェットを探る手が慌ただしくなる。
焦った表情でキョロキョロと周囲を見渡すが、焦りの色はどんどん濃くなっていく。
肩はがっくりと落ちて、顔がみるみるうちにしぼんでいった。

「お財布……、無くしました」

しょんぼりと眉を下げ、悲しげにつぶやく。
少女はうつむいたまま言葉を続けた。

「大事だから、絶対に無くさないようにしてたのに……、それにみんな、ミルノのことが、き、嫌いなんです……。もう……いや」
「…………そ、そんなことは」

少女の唇がふるふると震えはじめる。
小さな口元のもっと上では、両目の瞬きが可哀想なくらい増えて、涙がうるりとあふれそうだった。

「ミルノ、おバカだから……」
「…………」

「お金も無くしちゃって……、もう何にも――」

俺は声をかけた。

「探そう」

声をかけずにはいられなかった。

「……え?」
「財布なんてきっとどこかに落ちてるよ。誰もいないから探しやすいだろ? 邪魔な奴は消えろ消えろ」

「…………」

少女は重たげにつばを飲み込む。

「ゆっくりでいいから、一緒に探そうぜ、な? 探すコツを教えてやるよ、なくし物の常習犯の俺でよければさ」

俺はささやかに微笑むと、少女の大きな顔に向けて控えめに右手をあげた。

知っていた。俺にはわかっていた。大変なんだよ。
赤点を取った上に、お金すらなくなった時のつらさが胸を締め付けて痛かった。
何よりも、誰からも相手にされず、ひとりぼっちで悩んでいた少女を見捨てられなかった。

「だから、そんな悲しい顔するなって。な?」

俺はできるだけ穏やかな表情を作って、小さくうなずく。
ミルノは、

「…………わ、わかり……ました……」

答えてはくれたが、声はふるふると震えて、表情の悲しみは消えなかった。

「それじゃあさ、今まで歩いてきた道を戻ろう。意外と近くにあったりするんだよ。心当たりのある場所を思い出しながら探すんだ」
「……はい」

「よし、そうと決まれば早速探そう。二人だからすぐ見つかるぜ。元気だしなよ、ミルノ……ちゃん?」

ミルノの表情に刻まれた悲しみが少しだけ薄くなり、これまでよりは大きくうなずいてくれた。
しゃがんでいたミルノは立ち上がる。
ゆっくりとメイド服を回転させて、後ろを振り向いた。

水をすくい上げるように重ねられた手から俺は街を見下ろした。
白色のニーソックスを伸ばしただけで、地上が遠くへと突き飛ばされている。
白いエプロンに包まれた――柔らかな白桃の丸みを少し、ほんの少しだけ添えたような――胸元。
その前方で重ねられたミルノの手はどんなビルの屋上よりも高かった。

俺の目線は、前に幼馴染が巨大化した時と同じくらいの高さだから……ミルノの身長は100mくらいなのかもしれない。

視界に広がっているのは駅前の大通り。
二階建てはもちろん、十階建てを超えるビルが見渡す限り隙間なく立ち並んでいる。
色とりどりの建造物の間を通るように歩道が敷かれており、中央には片側三車線の――

「――――っと!?」

よつん這いの体が後方へひっくり返りそうになる。
ミルノが歩き始めた。

街の風景がゆらめき、穏やかではなくなった風が体をよぎり始めた瞬間、全身がブルルッと震えた。
下から……ありえない足音が聞こえてくる。

高度一千メートルから、建物解体用のバカでかい鉄球を、思いっきり地上に叩きつけたような足音だ。
重低音だけで建物の柱にヒビを入れたみたいな、白いニーソックスの足音が大通りの静寂を容赦なく踏みつぶしている。
追随するように、明らかに無事じゃない車道の音と、屋上の鉄製の手すりがギシギシときしむ音があらゆる所から聞こえてくる。

ミルノはビル一棟を通り過ぎる度に、破滅の生中継にしか聞こえない足音を引き起こしながら歩いていく。

俺は足音に恐怖と快感を感じながら、改めて目下を眺める。
ミルノがこれまで通ってきた道……案の定、めちゃくちゃな惨状になっていた。
道路に沿って歩いてきたのはわかる。だが、その足跡は全てを破壊して埋めていた。

何十人も乗車できる大型の市内バス――、車体よりも大きな足跡の中で、天井が裂けるほどつぶれている。
車線に停まっていた自動車――、一つの足跡の中で何台も全壊しており、歩道の上で運転席がつぶれたまま横転したり、建物の壁に突っ込んだりもしている。
歩道に止めてある自転車――、ちょんと足先に当たったようで、バラバラになって五十メートルを超えて吹き飛んでいた。
ゲームセンターで見えた自転車も、もしかして同じだったのかも。

そんな壊滅状態の道路を、もう一度ミルノは歩きなおしている。
白いニーソックスに包まれた脚でアスファルトをめくり上げながら、着地点に何があろうと関係なく黒い靴を近づける。
その後は、この世の足音とは思えない暴音が建物のガラスを窓枠ごとぶち破り、街が廃墟になるのを待つだけ。

ふと、俺は後方を見上げ、ミルノの顔をチラリと見た。
しょんぼりした顔をうつむかせて、キョロキョロと左右のビルに目配せをしている。

一体、ミルノはどんな気持ちなのだろうか。
その脚を伸ばすと、一歩だけで街から悲鳴が飛び交い、平和だった街並みが数え切れないほどつぶれて、足下に沈んでいったはずだ。
何人か気づかずに踏みつぶしたりしたんじゃ……

「おにぃさん、みつかりそうですか?」

はっと我に返る。

「あっ、い、いや……みつからないな。もうちょっと先まで、い、いってみよう」

俺は慌てて顔をそむけると、遠くを見るような感じでおでこに手を当てて、目を凝らした。
被害状況は嫌でも目に入ったが、財布は見つからなかった。

それからミルノが十歩ほど歩いた時。
国道が右から左へ突き抜ける広い交差点が見えてきた。
俺は馴染みのある交差点を見ると、これまでにない脱力感に襲われた。

「あ……、ああぁ……」

ひどく破壊されていた。
無事な信号や街路樹など一本も存在せず、道路全面に刻まれた深さ数メートルの足跡の中で粉々に砕けていた。
この交差点を象徴する十階建てホテルは右方向に伸びる歩道に沿って倒れている。
大きな手跡のついた胴体は他の建物にのしかかって破壊していた。
たぶん、ミルノが押しやって倒壊させたのだろう。

俺はこれまで以上にゲンナリした表情を浮かべ、もみあげににじむ汗を手でぬぐった。
突然、ミルノが大きな声を出した。

「あっ!?」
「ぎゃああっ!?」

俺はたまらず悲鳴を上げて、目を閉じ、ぎゅっと両耳をおさえながら転がった。
耳の痛みが心臓に突き刺さって、グロテスクな音色の心音に変わる。

「おにぃさん! お財布ありました!」

ズウゥンと地響きで道路脇の建物を揺らしながら、交差点まで一気に近づくミルノ。
交差点前でしゃがむと、ホテル向かいのビルの屋上に手を伸ばした。

「ほら! くまさんです!」

財布の口を指でつまんで、転がっている俺の前に持ってきた。
まんまるな形で、デフォルメされた熊の顔をした、がま口付きの可愛らしい財布だ。

「……そ、そう……か」

俺は耳の痛みでそれどころではなかったが、とりあえず声を出した。

「ミルノ思い出しました!」

少し興奮気味な大音量が交差点の廃墟に響く。

「おつかいの目的の物が、この建物の中にある気がしたんです。だから向かいの建物の屋上にお財布を置いて……そのまま忘れちゃったんですっ」

俺は痛む耳をさすりながら、力を振り絞ってよつん這いの体勢に戻ろうとする。

「な、なるほどな。ホテルにおつかいしに行くなんて聞いたことが無いが」
「おにぃさんがいなかったら、ミルノ、どうなっていたか……」

ミルノは切なそうな表情で、唇を噛みしめた。

「うぅ……、ふみゅゅぅうっ! おにぃさんはミルノのご主人さまです!」
「い、いや、俺はご主人様とかじゃないけども――」

「いえ。おにぃさんはミルノにとって大切な人です! 本当にありがとうございます! ……ふみゅぅぅ、ご主人さまぁ!」

嬉しさをおさえられないような表情のミルノ。
抱きしめたい気持ちが胸に渦巻いているのか、もどかしそうにメイド服をゆらしている。

「ま、まぁ。何はともあれ、よかったな」
「はい! ご主人さま!」

ミルノは俺に微笑んでくれた。
その笑顔は、王城内の整備された草むらで、ピンクのドレスにやわらかな緑の香りがくっつくのも気にせず、
無邪気に四つ葉のクローバーを探し出し、母にその小さな宝物を見せに行く、幼い王女様のキラキラな笑顔に見えた。
それは耳の痛みすら愛おしい気持ちになれるほど、それはそれは可愛らしい笑顔だった。

お財布との再会を喜ぶミルノを見ながら、俺は一仕事を終えたように腕でおでこの汗を拭いた。

一息ついた頃。

「ふぅ、それじゃミルノ。お財布も見つかったことだし、後はおつかいをすればいいわけだな」
「はい、そうですっ」

「おつかい――、ってなにを購入するつもりなんだ?」

ミルノは嬉しそうな表情を一転させ、恥ずかしがるように目線をそらす。
片手で胸元のエプロンをギュッと握り、唇をあまり動かさずに言った。

「お、おまん…………こ」

俺は飲んでもいないお茶を百メートル先まで吹き出しそうになった。
……こ、この巨大少女は何を言い出すんだ。
そんなの下をみれば、ぷっちゅりんとついているじゃ――おい、言えるか! そんなこと!

石像のように固まっている俺を見ながら、ミルノは慌てて言った。

「あ、あの、おつかいの内容を言われたのですけど、ほとんど忘れちゃって……。
それとメモを渡されたのですけど、ミルノ……、字が読めないんです。
ご主人さま、もしかして読めますか?」

ミルノはゴソゴソと財布を開くと、四つ折りの紙を取り出した。
俺の目で広げられた白い紙には、黒い文字で『おまんじゅう十箱』と書かれていた。

一目で理解した俺は後方を振り向き、ミルノに教えてあげる。

「『おまんじゅうじゅっはこ』と書いてあるが」
「そ、それですっ! おまんちゅです!」

「…………おまんじゅう」
「おまんちゅっ!」

「……おまん」
「ちゅ」

俺は無表情をポリポリとかきながら、目を閉じた。
おまんじゅう、なんだけど。まぁ、いいか。
おまんじゅうならあそこだ。駅前のデパートに行けばあるだろう。

というわけで、駅前のデパートまでミルノに道案内をしてあげた。
ミルノは上機嫌な表情で、ウキウキと道路を踏みつぶし始める。
道中の建物は倒壊してもおかしくないと思えるほど、今までより大きくメキメキと揺れていた。

デパートまではちょっとだけ時間がかかりそうだ。
到着するまでの間、俺はミルノにいくつか質問をしてみた。

「ミルノはメイドさんなのか?」
「はい! ミルノはメイドです! でもまだ見習いです」

「へぇ、メイドということはご主人様がいるってこと?」
「えぇっと、ご主人さまはいません。まだ見習いなので」

「……あぁ、そうかそうか。おつかいだから、てっきりミルノのご主人様から命令されたのかと思ったよ」
「はい。でも命令といいますか、お願いされたんです。これも修行になるよって」

「おまんじゅうを買ってこい、って言われたんだな。まんじゅう好きの……、年配の人?」
「いえ、ご主人さまと同じですよ」

「俺と同じ?」
「はい。生きている年数はわかりませんが、ご主人さまと同じお年頃で、大きさも同じです」

「え? …………へぇ」

そうなのか、と声のトーンを落とした生返事を返して、あごに手を当て少し考える。

一体どんな奴なのだろうか。俺と同年代で、こんな巨大なメイドにおつかいを頼む奴ってのは……
小説では見たことがある。巨大な女性と知り合いで、知らない街に一緒に来るというお話。
ああいうのは作り話だと思っていたのだが、本当にありえる話だったのだろうか。

いや、こうやってミルノが俺を手のひらに乗せて歩いているのだから、どうも現実らしい。
俺がよくチェックしているGSアッパーローダーもピックシブもどうなっているんだ……
あそこってフィクションの――創作の場所じゃなかったのかよ。

「……おっと。ミルノ、あの建物だ」

ふと我に返った俺は指をさした。

「あ、はい、ご主人さま」

ミルノは指をさされた方向を向き、道路に沿いながらズゥンッズウゥンと歩いていった。

案の定、それほど長い時間がかからずに、俺たちは駅前のデパートに到着した。
このデパートは俺が生まれる前から存在しており、外観も規模も階数も何の変哲もない、7階建てのどこにでもありそうな感じだ。
入り口近くの交差点を半壊させているミルノは立ったままではよく見えないらしく、しゃがみ込む。

「ここにおまんちゅがあるんですか?」
「かっ……確認はしていないけど、ほぼ間違いないだろうな」

よつん這いの体が落下したような感覚にひやりとしながら、俺は答えた。

「この建物のどこですか?」
「地下一階かな。デパ地下の食品コーナーとか、おみやげコーナーにあると思うんだ」

「え? 地下にあるんですか?」

目をパチパチさせながらミルノは言った。

「たぶんな。そうだ、かわりに俺が――」

俺が言い終わらない内に、ミルノはあまりに躊躇せずに、足元の歩道に手を近づけていた。

指先によって限界まで傾いた街路樹は次々と無残に折れて倒れていく。
あっという間というスピードすら超えて近づいていく中指が歩道に触れた瞬間、残っていた根本もガードレールも歩道を支える土ごと、デパート二階の高さまで一気に噴出する。
デパートの一階から三階部分までの外壁は爆発したように吹き飛び、柔らかくて巨大な指の温かさが固くて冷たい歩道の被害を広げていく。

その破壊音の大きさには到底及ばない音量だったが、俺は精一杯叫ぶ。

「ち、ちょっと待て! 俺が買ってきてやるから! 歩道から手を離せ!」
「え? ご主人さま?」

ミルノは慌てている俺を見ると、ピタリと手を止めた。

「地下にあるんですよね? 邪魔なものはミルノがどかしますけど」
「いやいや! だ、大丈夫だ。ミルノは何もしなくてもいい」

「そう……ですか?」

不思議そうな表情で俺を見ながら、ゆっくりと手を引き上げる。
抜いていく指先の振動は大きいようで、歩道だった瓦礫が重々しく転がる音に、落ち残っていたデパートのガラスが降り掛かった。

「それじゃ、ミルノは何をしていればいいのですか?」

無垢で可愛らしい声が、瓦礫に当たって表面の粉塵を巻き上げた。
俺は歩道ではなくなった光景から引きつった顔をあげると、ミルノの方を振り向いて答える。

「ま、まぁ、そうだな…………。じゃあ、俺の帰りを祈っててくれ。それと良いおまんじゅうが入荷している事にも、お祈りしてくれ。ミルノのお祈りパワーが何よりも大事だからな。お祈りでおいしいおまんじゅうを引き寄せてくれ」

キャラメル色の髪の中で、パァと明るくなる表情。

「はいっ、ご主人さま! ミルノ頑張ります!」

ニッコリとスマイル。そのまま頭のカチューシャまで手を持っていき、

「おまんちゅっ!」

ウサギの耳に見立てて折り曲げた。うん、と幼い顔をうなずかせながら。

「お、おぅ……」

俺は微妙な返事しかできなかったが、不意な可愛さによって胸はキュンキュンと高鳴っていた。

「そ、それじゃ行ってくるから……入り口で降ろしてくれ。なるべく入り口に近づけてな」

そうしないと、歩道の惨状に足が巻き込まれそうだからだ。

ミルノは俺の乗っている手を、デパートの入り口前まで寄せてくれた。
入り口には透明な自動ドアがあったはずだったが、上空を突き破りながら近づいてきた指先の衝撃的な振動によって、大幅に砕けていた。
手から降りた俺がガラスの破片をまたぐように足を伸ばして、デパート内へ入ろうとしたその時。

「ご主人さま。あの、これを受け取ってください」
「ん? なんだ」

振り返ると、ミルノは財布の中から銀色のリングを取り出していた。
指でつまむようにして、俺の目の前に持ってくる。
巨大なリングの円周にはクリップのようなものが飛び出ており、そこには何枚もの一万円札が止められている。
短冊のように垂れている新札の匂いが、びっくりした俺の目の前でユラリと射幸心を煽る。
ぱっと見ただけで三十万円分ほどありそうだ。

「ええーっと……、なんだこれは?」
「おまんちゅの代金です。これで足ります……か?」

ちょっと心配そうな表情を浮かべるミルノ。
巨大なミルノは現金の手渡しが難しいため、ご自由にお取りください、という具合になっているのだろう。

「あ、ああ。十分だと思う。おまんじゅうって一箱いくらだっけ? 二千円くらいか? それが十箱だから――」

俺は独り言のようにぶつぶつと言いながら、一万円札を二枚取った。

「よし、ありがとう。それじゃ行ってくる」
「はい、ご主人さま!」

俺は残りのガラス破片に気をつけながら、店内の床の亀裂が崩れる音にも気をつけながら、地下一階へとすすんでいった。
ただ……、店内にはだれもいないよな? ということは、会計をどうすれば良いのだろうか。
うーむ。まぁ、深く考えていても仕方ないか。

十分後。

俺はデパート入り口に戻ってきた。
壊滅した歩道を見上げると、どの建物よりも巨大なメイド少女が両手を組んでお祈りをしていた。
まさか……

「ミルノ」
「あっ、おかえりなさいませ、ご主人さま! どうでした?」

「本当にミルノはお祈りしていたのか?」
「え? ……はい」

「……ずっと?」
「はぃ」

どうも俺が帰ってくるまで、本当に祈ってくれていたらしい。

「そっか。それじゃミルノに言わなきゃいけないな」

俺は気まずそうな表情を浮かべて言う。

「おまんじゅう、無かったよ」

生気のこもっていない声は、デパートを超えた高さの位置にある少女の目を驚かせた。

「え!? そ、そんな……。無かったん……ですか」

祈っていた両手が残念そうに下がり、シュンと悲しげな表情でつぶやいた。
俺は口を開く。

「ああ、そうだ。一口だけで笑顔が青空へ羽ばたくような、最高のおまんじゅうしか無かったんだぜ!」

にやりと笑いながら、背中の後ろに隠していた十箱をさっと前へ差し出した。

「ご、ご主人さまぁ!」
「ははっ。驚かせてわるいわるい」

一気に明るくなったミルノの笑顔に合わせるように、俺は若干恥ずかしげに笑った。

「というかレジに誰もいなかったからさ。二万円分のおまんじゅうを持ってきて、空いた場所に二万円を置いてきたんだけど、いいのかな、あれで」

と言ったところで、ミルノにわかるわけないか、とも思った。

「ありがとうございます! あの、ミルノの指におまんちゅをのせてください。お願いします」

巨大な手から伸びた指が俺の目の前にズンッと降りてくる。
俺はよいしょと背伸びをして、まんじゅう十箱を置いた。

「これでおつかい完了だな」
「はい! とっても嬉しいです」

ミルノはにっこりと満面の笑みを作り、腰元のポシェットを開けて、指先のまんじゅうを滑らせるように入れた。
パタリとポシェットのふたを閉めると、改めて俺を見つめる。

「あの、何かご主人さまにお礼をしたいです!」
「お礼? いやいや、別に何もしなくて大丈夫だよ」

「そんなっ! お礼をさせてください。ご主人さまがお望みするものってなにかありますか?」
「望むもの?」

はてさて、と俺はほっぺたに手を当てて、考え事をするように青空に目線をそらす。
望むもの。すなわち欲しいもの。それは沢山ある。
俺は金欠なのだから、今お金があったらどれだけ嬉しいか。
ドラマのようにお礼として小切手をくれたり、報酬金をもらえるなら万々歳だ。
例えばさっきの三十万円以上のお札。一割もらったとしたら三万円だから――

あ……、いや、やっぱり生々しい気がする。
金が欲しい! だから札束をくれ、ぎゃはは! ……それはあまりにがめついよな。
第一、金をくれと言える勇気などとてもじゃないが持ち合わせていない。

だが。しかし、喉から手が出るほどお金がほしいのは事実だ。
欲しい。たしかに欲しい……あぁ、そうだよ。偉業を成し遂げた先人も言っているだろう?
――神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。
さぁ「俺に金をくれ」と言う挑戦を――勇気を出して乗り越えるのです!

……いやいや、そういう使い方じゃないだろ!
金を出せ、これが俺の挑戦だ、俺たちのレジェンドはここからはじまるっ! なんて銀行強盗もいいところじゃないか。
望むもの。欲しいもの。うむむ、なんと答えれば良いのだろう。

いつのまにか俺は顔に苦悩を浮かべたまま、片手を突き出して、銀行強盗が銃を撃つような仕草をしていた。
ミルノは足元のしょうもない人間を見ながら、気まずそうに言う。

「ご、ご主人さま。あのぉ、今度お土産を持ってこようと思います。それでもいいでしょうか?」

ハッとする俺。

「ん? あ、いや、これは、その…………お土産?」
「はい。ミルノ、料理が得意なんです。ですからご主人さまに食べて欲しいのです」

お土産? ということは手作り料理とかお菓子とか、そんなところだろうか。
お土産、そういえばメイドさんが作る料理なんて、見るのも食べるのも生まれてはじめてだな。
お土産。……うん、やはりお金ではなくて、そういうことで良いんだよ。

「そうか。それならお言葉に甘えて、お願いしようかな」

俺が照れながら返答すると、ミルノは手を合わせて嬉しがった。

「本当ですか? ありがとうございますご主人さまぁ! ふみゅうぅっ!」

口元をニコニコな喜びでいっぱいにするミルノ。

「じゃあ、俺も何か料理をするかな。そして一緒に料理を交換し合おうぜ……。
って、一つ気になることがあるんだけど。ミルノ、その大きさだと――」

それは俺が言いかけた時だった。

突如、俺の上空から常識外の爆発音が鳴り響く。
あまりの突然さと突拍子の無さに、俺の心臓が大型トラックのタイヤにひき潰されたかのように、衝撃的に大きく鼓動する。

「ひぎゃあぁっ!?」
「ご、ご主人さま!」

俺はパニックめいた表情で、ミルノの顔を見上げた。

ミルノも困惑した表情だった。
ミルノのしゃがんだ白いニーソックスのひざあたり、デパートの最上階となる七階部分には大きな穴が出来ており、黒い煙がモクモクと上がっていた。
まるでデパート内に仕掛けられた爆弾が爆発したみたいだ。

「い、一体なにがあったんだ……っつか、うわぁあ!?」

デパート上部から目線を下げた俺は、遠くの景色を目にして、オロオロと一歩も二歩も引き下がった。
複数の交差点をまたぐほど遠い距離にもかかわらず、はっきりと見えてしまう圧倒的な存在感を放つ巨体。
戦争に使われてそうな戦車が三台、連なって近づいてきていた。
ネットで見たことがある、無人で動くドローン戦車。

距離を詰めてきた戦車が止まる。
砲台がギギギと動いた。

「ご主人さま!」

慌てた表情のミルノはデパート入り口に向けて勢い良く手を伸ばす。
瞬時に一階部分の天井を突き破った指が、崩壊していく入り口の全てを引きちぎり、自動ドアのレールが飛び出た床ごと俺を手のひらに乗せる。

「ぐぅっ!?」

衝撃に叩きつけられた俺は派手に尻もちをついて、すぐさま上空へ持ち上げられた。
狂った速度のエレベーターのような感覚。
あっという間に近づいたミルノの白いエプロンの横、はるか遠くにある戦車の砲台が光った。

「ちょっ、うわあぁぁ!?」

後ろにのけぞった俺はとっさに腕を曲げて、視界を覆うように顔をおおった。
全身がしびれるほどの爆発音が耳を通り、後ろ髪まで吹き飛ばすように直撃。
当たった……。確かに直撃した。
でもそれは俺の体ではなく、防御するように屈折させた腕のはるか前方、ミルノの背中のようだった。

恐る恐る俺は顔をあげる。
完全に間違いない。
ミルノの背中から黒煙が上がっている。

「ミ、ミルノ! 大丈夫か!?」

俺は身を乗り出して、慌てた表情で呼びかけた。
今思えば、おそらく俺の声は届いてなかったと思う。
一発目から間髪をいれず、ミルノの背中に何発も打ち込まれる砲撃音のほうが桁外れに大きかったから。

でも。
デパートを粉砕するほどの砲弾など気にもせず、ミルノは「背中がどうかしましたか?」とでも言うように優しく微笑んでくれた。
砲弾の音が途切れると、ミルノは腰のポシェットに手を伸ばした。
ふたを開けると、俺の目の前まで持ってきて、ポシェットの中を見せてくれた。

「ご主人さま、この中に入ってください」
「……な、なか?」

「はい、この中にいるほうが安全です」

ミルノは戸惑う俺を見ながら、

「大丈夫です。今度は、ミルノがご主人さまを助ける番です」

カチューシャを小さく揺らしてうなずいた。しばらくして俺は、

「わかった」

ありがとう、と小さくうなずき返して、ポシェットの中へ小走りに入った。

ミルノはポシェットの蓋を締め終わると、ゆっくりと立ち上がる。
重々しい地響きで二回ほど街を揺らして、戦車の方を振り向いた。
幼いながらも怒った顔で遠くの戦車をギッと睨んでいる。

「ご主人さまを傷つけようとするなら、ミルノが絶対に許さないです!」

言い終えるのも待たず、ミルノは巨大な白いニーソックスを持ち上げ、戦車までの道筋を駆けていく。
街路樹は華奢な脚の風圧で折れ曲がりそうになり、転倒した自転車や店の看板が数十メートルも引きずられていく。
道路と歩道はビルの高さを軽々と超えるほど吹き上がり、屋上のフェンスまでもが飛び上がらんばかりに抜けそうになっていた。

戦車隊の場所へまであと一歩。
ミルノは一気に数十メートルの距離を詰めた左足をアスファルトに食い込ませた。
派手に吹き上がった車道と街路樹とガードレールよりも高く右足を上げる。
地響きで若干浮き上がった戦車が着地する前に、右足が砲台を上から蹴りつぶしていた。
足裏の下で、鉄製の車体が破裂するように千切れていく。
巨大隕石を五倍速で衝突させたような足音が道路を周辺の建物ごと空へぶっ飛ばしていた。
戦車一台が踏みつぶされ、一区画が犠牲になった。

衝撃によって何十メートルも飛ばされた残り二台の戦車に向かって、ミルノはゆっくりと歩いていく。
戦車は交差点の折れた信号機にもたれかかるように転覆していた。
腹を見せた一台に向かって、巨大な指先が伸びていく。
ミルノは重くて分厚い鉄のボディを微妙にへこまながら、無表情な顔の前へ戦車を持ってくる。

「まだつかんだだけなのですから、指先で勝手に壊れないでくださいね?」

言うと、手のひらから少し余るほどの戦車を握り始めた。
細くて柔らかそうな指先が、すでに下方向へ傾いていた砲台をねじ曲げる。
ギンッと張り詰め過ぎていたキャタピラは、可愛く丸まっていく人差し指の圧力に耐えきれず、車体にめり込みながらちぎれていく。
右手はもはや修復不能となった戦車をさらに握りつぶしていく。
戦車の破片が地割れの増えた車道へガゴオォン、ゴオォンと落ちていった。

手から落ちるものが無くなるほど握りしめると、ミルノは遠くへ投げ捨てて、もう一度しゃがみこんだ。
ビルの屋上が粉砕され、大きな穴が開く音と同時に、巨大な右手が交差点に転覆していた最後の戦車をつかんだ。
指先でバギギギと天井と底をへこませながら、持ち上げる。

「どうしたのですか? もしかして帰れないのですか? ……それならミルノにおまかせください」

戦車を少し握りつぶした右手が、空高くかかげられる。

「ミルノがつぶした二台と同じように、天国へすぐ帰れますから!」

しゃがんでいたミルノは左のビルを見ると、一気に右手を突き刺した。
叩きつけられた壁面は膨大な瓦礫となり、向かいのビルのガラスに直撃する。
ミルノの手が手前の柱を消滅させ、さらに奥の柱を曲げるように戦車が埋め込まれていた。

メイド服から伸びた手がゴゴゴォと抜かれる。
ミルノは腰のポシェットを手に取ると、胸の前まで持っていき、大事そうに両手で包み込んだ。
二本の白いニーソックスが宙に浮く。

「ふみゅっ!」

ミルノは戦車を埋め込んだビルに向かって、椅子に飛んで座るように、黒いスカートの膨らみを振り下ろしていた。
幼い少女のお尻は、目的のビルと関係ない周囲を巻き込みながら、着地点を崩壊させていく。
戦車は完全に腰の下へと消え去り、噴火中の火山が破裂したような爆音が周辺道路を激しく引き裂き、
宙を舞う幾多の巨大なアスファルトを軽々と超える高さまで、周辺に存在していた全ての道路標識が飛び上がった。

ミルノはスカートから伸びた白いニーソックスの太ももを少しだけ眺める。
お尻を細かく動かして亀裂を拡大させ、轟音とともに次々と倒壊していくビルを横目に、涼しい顔で立ち上がった。

パタパタとスカートを手で払いながら、後ろの壊滅したビル跡地を振り向いて、

「もう二度とミルノの邪魔をしないでください」

冷たい目線を投げかけ、平然とした表情で言い放った。

甘い声が甚大な被害の中へ消えた頃、四方からこれまでとは規模の違う音がミルノの元に近づいてきた。
あっ、と驚いた表情でミルノが周囲を見渡したときには、あらゆる車道を占拠するように膨大な数の戦車が進軍していた。

「こ、こんなに多いんですか?」

たじろいだその時、急速に耳へと接近する鋭いナイフのような音。

「……えっ?」

困惑したミルノがクルッと後方を振り向いたときには、額に直撃したミサイルの爆発音が駅前全体を震わせ、黒煙を破裂させた。
鉄が焦げたような臭いを放つ煙は、上層部が吹き飛んだビルを一瞬で覆い、積乱雲のように空まで伸びていく。

モクモクと広がる黒煙。
煙は下界へと広がり、幹しか残っていない街路樹を飲み込み、隣で倒れているガードレールを飲み込む。
その遠くの車道でひっくり返っていた車を飲み込む……と同時に、黒煙の中から巨大な靴が現れた。
歩くように持ち上げられていた靴が踏み降ろされる。

車がつぶれる音と共に、白いニーソックスと黒いスカートが現れた。
ミルノはミサイルなどまるで効いていない様子で、黒煙の中から出てきた。

戦闘機の方向へ向かい、黒煙から切り離された場所で立ち止まると、困惑と怒りを混ぜたような表情で空をあおぐ。

「あの、やめてください! ご主人さまに当たったら死んじゃいます! 人間さんがここにいるんです!」

ミルノの訴えは残煙を退けながら、上空にいる無人戦闘機の翼をひりつかせた。
待機中の無人戦闘機は機械音に似た人工音声を青空に響かせる。

ケイカイレベル5 ヒキアゲ カンリョウ
ターゲット ロックオン カンリョウ

ハッシャ

大砲を爆発させ、一瞬で滝を切り裂いていくような音が何度も街の上空を貫く。

スベテノ ミサイル ハッシャ カンリョウ
チジョウノ ブタイハ スグニ タイヒセヨ
チャクダンマデ ノコリ 20ビョウ、19、18、17――

大量の黒煙がうねりを上げ、無数の弾頭が疾風すら超えて突き進んでいった。

「そんな……」

ミサイル群を確認したミルノは、がく然とした表情を浮かべる。

「ご主人さま……」

ぽそりとつぶやきながら、白いエプロン横のバッグに目を落とす。
その顔は何かためらいがあるような困り顔だった。
しかし一度だけ顔をキュッと歪ませると、すぐに吹っ切れたように目を閉じた。

無表情のまま全身の力を抜き、頭を下げ、両肩をだらりとさげる。

すると、ミルノの足元が光を照らしたように明るくなってきた。
その明るさは次第に強さを増していく。
灰色の道路が和紙に透ける提灯(ちょうちん)のともしびのように強く光り始めたそのとき。

一つの光の玉がホワリと浮き上がってきた。

自動車ほどの大きさで、紫色に光る薄膜が白い光を包んでいる。
黒い靴を横切り、白いニーソックスに紫色をにじませながら、黒色のスカートまで浮かんできた。

道路からまた一つ、二つ、三つ……と、次々と浮かんでくる。
光の玉は紫色の尾をおぼろげに残しながら、フワフワと幻想的にミルノの周りを舞う。
その数は急速に増えていく。
腰回りに光の輪が形成され始めた。

10ビョウ、9、8――

ミサイルの音が下界に轟き始めた時、ミルノの両目がグッと大きく開かれた。
紫色の光が一気に両目に吸い込まれていく。

7、6、5ビョウ――

吹き出すジェット音が建物を僅かに揺らしはじめる。
紫色の光はミルノの目に次々と吸い込まれていくが、腰の周辺を舞う光がまだ残っている。

4、3、2――

最後の光の玉が目にポワリと入った。
その遅さをあざ笑うように、すでに数え切れないほどのミサイルが、ミルノに牙をむけていた。
ミルノは素早く無表情を空にかかげ、戦闘機を見上げる。

1――

0.1秒で瞳孔が開いた。

次の瞬間、ミルノの目から街の一区画よりも大きな光線が発射されていた。
紫色の光線はミサイルを一つ残らず爆発させ、その衝撃は周囲の建物を戦車隊と共に吹き飛ばし、
半径一キロメートルの何もかもを一瞬にして、無差別に、次々と巻き添えにして粉々にしていく。
空気は衝撃波となり音速を超えて、隣町の建物もグラグラと震わせ、山の木々をざわつかせ、近海に大きな波紋を作った。

ミルノは頭を後方へ大きく吹き飛ばし、目から途切れる残光を放ちながら、倒れないように何歩も後ずさりをしていく。
ポシェットの中の小さな人間は耳をおさえているにもかかわらず、鼓膜の痛みが限界を超えそうになっていた。

紫色の光線は閃光の速さで街の上空へ飛んでいく。
全ての戦闘機は避ける間もなく、一瞬で木っ端微塵になった。

白い雲に大きな穴を開けた光線は、大気圏を猛スピードで駆け抜け、オゾン層の膜を突き破ってしまう。
遠雷と火山噴火のような、神の鈍重な悲鳴のごときオゾン層との摩擦音。
重低音に包まれた地球全体がわずかに揺れ始める。

光線は地球の自転をゆっくり眺めていた人工衛星を巻き込み爆破させる。
世界中の通信ネットワークが混乱していき、SNSが次々と接続不能になる。

さらに暗黒の宇宙空間に伸びる一筋の光線は、大小の物質を消滅させながら、地球ほどの大きさをほこる、名も無き天体に衝突した。
灰色のゴツゴツとした、何にもない地表に光が接触し、一瞬のうちに砕けて吹き飛ぶ。
地層全体を爆発的に砕いていき、軌道を押しやるほどの衝撃。
直撃からわずか数秒で、大きくて丸い姿は半分に欠けていた。

――――青い地球、廃墟になった駅前、静寂の中でメイド服の少女は幼い顔を上げたまま立っていた。
ミルノは、ぽっかりと穴が空いた雲から視線を下げると、腰のバッグから一人の男性を取り出した。
手の上に彼を優しく乗せると、水をすくうように両手を重ねた。

俺は手のぬくもりを感じながら、ゴクリとつばを飲み、ゆっくりと周りを見渡した。

何が……、一体、何が起こったんだ。
何年も住んでいるのに一度も見たことのない光景が広がっている。
さっきおまんじゅうを買ったデパートも、駅前の商店街も、駅近辺と呼べる地域が跡形もなく壊滅していた。

「ご主人さま、もう大丈夫です! ミルノがご主人さまをお守りしました!」

にっこりと笑い、嬉しそうな声を響かせるミルノ。

俺はその声に答えなかった。いや、答えられなかった。
生まれて初めての茫然自失的な感覚に襲われ、全身に力が入らず、声すら出せなかった。
ただただ、無気力のまま街を眺めるだけで……
目を開けることだけでも大変な気力が必要だった。

「お役に立てたでしょうか、ご主人さまっ! ……ご主人さま? ごしゅ……じ…………」

可愛い声から一転、街に漂う殺伐とした空気に気づいたかのように、ハッと言葉をつまらせた。
それでも俺は何も言えず、何も動けず、呆然としているだけだった。

「……あの……やっぱり…………お、おにぃ、さん。……安全な場所まで、お、送らせてくだ……さい」

ミルノの声が暗く落ち込み、言葉が途切れ途切れになる。
俺は動けないながらも、ようやく、

「……あ、あぁ」

生気の無い返答をした。

ミルノはなんとか形の残っている街並みへ向かって歩いていく。
向かう道中、俺もミルノも、お互いに何も言わなかった。
小さな瓦礫を踏みつぶしながら、重々しく鳴り響く巨大な地響きだけが街にこだまする。

俺の目下に道路と建物と呼べる地帯が近づいてきた。
同時に、スンスンと鼻をすする音が背後から小さく聞こえ始める。

俺には聞き覚えがある音。
小さい頃、クラスのみんなが持っているようなゲームを買ってもらえず、一人でブランコに乗りながらおえつをこらえていた時に出てきた音だ。

無事な地帯に到着したミルノはしゃがみこむと、地上に手を近づけた。
俺は、名残惜しいとも、無気力とも、どちらとも言えない鈍さを体現しながらミルノの手から降りた。

「あの、おにぃさん……」

ミルノの方を振り返る。

「ほ、ほんとはおにぃさん達と仲良くしたいのに。
街のみなさんと一緒にいたいだけなのに。
ミルノのせいで、今日もい、いっぱい被害……出しちゃいました。
ご、ごめんなさい! ミルノがダメだから、街がめちゃめちゃになったんです!
ほ、本当はミルノがき、消えちゃえば……よかった――」

最後まで言葉にできず、ミルノは溜まっていたものを吐き出すように泣き出してしまった。
ミルノの涙が俺の目の前にしたたり落ちるたびに、頭の中からなにかが湧き出てくるのを感じた。

ミルノのせいで――――――ちがう。
ミルノがダメだから――ちがう。
ミルノが消えちゃえば――ちがう!

何をやっているんだ、俺は。

ミルノは俺を守ってくれたんだろ。
こんなどうしようもない俺の命なのに、大事にしてくれたんだろ。
巻き添えにならないように、精一杯、精一杯できることをしてくれたんだろ。
なのにどうして俺は……ミルノの涙の前でただ黙ってるだけなんだよ!

俺はグッとミルノの泣き顔を見上げると、

「ミルノ!」

小さな気力を振り絞って、大きな声を出した。
涙目で見てくれたミルノの前で、俺はシュンと肩を落として言った。

「なんていうかさ。気にするなよ。
俺なんてさ、勉強ができないから追試があるんだ。
たくさん参考書を買うハメになって、お金がもう無いんだよ。
それに友達もほとんどいない。楽しみといえばゲームセンターで一人ぼっちで遊ぶくらいなんだ。
はは、終わってるだろ?」

だらしなくゆるんだ口元を引き締める。

「でもミルノは違う!
知らない街なのに、おつかいに来る勇気をもっている。
俺を守ってくれた優しさや思いやりをもっている。
それに…………可愛くて、みんな惚れるような笑顔をもっているじゃないか!」

細い両腕を広げて、腹の底から叫んでいた。

「だから自分の足りないところばかり、いっぱい数えるな!
そんなの少しずつ少しずつ満たしていけば良いだろ!
ちょっとしか持ってないものを見つけて、たくさん持っているものを見失うんじゃない!」

息が荒くなっていた。喉が痛くなっていた。
少し呼吸を深くする。
爽やかな風が熱くなった俺の息と手をつなぎ、何も無くなった街へ無音で消えていく。

落ち着いてきた俺は、ポロポロ泣いているミルノに向かって、

「忘れんなよ。
ミルノが駅前を消し飛ばそうが、街全体を消し飛ばそうが……ここにいる小さな一人の笑顔は、ずっと消えねえからな」

ポケットに片手を突っ込みながら、へへっと笑ってみせた。

「ま、赤点を取ってる俺ごときが、偉そうなことを言える立場じゃないけどさ……」
「…………いえ、そんなことないです」

俺はミルノの顔を見つめる。
涙が残っていたが、表情は晴れやかになっていた。

「やっぱり、おにぃさんすごいです。
ミルノもおにぃさんみたいに、もっともっとがんばります!
あの……、いろんなこと、またミルノに教えてください!」

腰元に目をやったミルノはポシェットに手を入れ、忘れ物のトートバッグを優しくつまみ上げた。
目下の小さな俺の前にトートバッグを差し出す。
俺が受け取ったのを確認すると、しゃがんでいた白いニーソックスを伸ばす。
ビルより高く伸びた太ももの上、腰の前で両手を重ね、深々とお辞儀をした。

折り曲げた上半身の風が俺の前髪を揺らす。
黒いドレスと白いエプロンをまとった体を起こし、ふわりとスカートを広げながら、後ろを振り向く。
そのまま腕をふって、キャラメル色の髪とカチューシャをフワフワと揺らしながら、瓦礫に埋もれた道路をまっすぐ歩いていった。

大きく揺れていた俺の足元が次第に揺れなくなっていく。
俺はミルノが渡してくれたトートバッグを落とさないように、少しばかり強く握っていた。

『いっしょなら大丈夫だよ。ゼロから学ぼう、僕らのストーリー』

――――次の日の朝。
散らかったベッドの上で、俺はこり固まった鼻息を流し、瞳にゆっくりと白い日差しを注いだ。
手を伸ばして、付せんが増えた参考書の上にあるケータイの時刻を確認する。
何ヶ月ぶりだろう、アラーム無しで早起きができたのは。

「んん、おは……よー、さん」

いつもならケータイに起こしてもらった後、きっちり二度寝をするが、今日は俺がケータイを起こしてやった。
早起きの理由は朝勉というもあるが、もう一つ――

俺はすぐにアプリを開いて、ニュースサイトをチェックした。
…………ああ、やっぱりな。
案の定、昨日に引き続いてニュースサイトは大騒ぎになっている。
あれだけの事が起きたのだから、どう考えてもトップニュースだよな。

俺は寝癖もそのままに、だらだらとニュースを読み流し始める。
ところがニュースの内容は、俺の予想とはだいぶ違っていた。
半開きのまぶたには『緊急避難命令』の大きな文字と『三十分前の映像速報』という動画サムネイルが映った。

三十分前の映像? ……ん?

どっぷり眠気に浸かった俺の頭では、何が何だか理解できない。
とりあえず何も考えずに『三十分前の映像速報』をクリックしてみた。

映像は俺の街を映していた。
そこは被害を受けていない、ひっそりとした駅ビルのある街。
左右の大きな建築物にはさまれた、計六車線の真っ直ぐな車道。
両脇に立ち並んでいる街路樹や街灯と並列するように、女性レポーターが車道に立ちながらマイクを持っていた。
その女性レポーターのはるか遠くには……

「メイド姿をした巨大な生物は、現在も破壊活動をつづけています。
今から十分ほど前から、よつん這いの体制になり、両手とひざで道路を押しつぶしながら、
何かを探すように、周囲をキョロキョロと――きゃっぁ」

激しく揺れる映像には、遠くのメイド少女が十五階建てのマンションを片手で貫いて、ドゴオオォンと倒壊させていた。
メイド少女は、少し押しただけで倒れる建物などまるで無関心といった表情をしながら、

「あれ? どこにいるんですか、おにぃさーん! 今日はお土産を――、ミルノが作ったおまんちゅを持ってきました!
ミルノのおまんちゅ見てください! ちょっとしっとりして、スベスベで美味しいですっ。
もしかしたらミルノのおまんちゅ、大きすぎて建物を押しつぶしちゃうかもしれないです。
道路にそっと置いてみたら、スベスベのおまんちゅが乗り物とかをつぶしちゃいまして……
でも、恥ずかしいですけど、おにぃさんにミルノのはじめてのおまんちゅ、差し上げます!
だからやさしく、た、食べてください! 早くおにぃさんとおまんちゅしたいですっ。どこにいるんですかぁ?」

言い終わらない内に、にっこり笑いながら手近な三階建てビルの屋上に手をかけ、上から押しつぶしていく。
あっけに取られていた女性レポーターは慌ててカメラの方を振り返ると、緊迫した表情で続ける。

「ご、ご覧の通り、駅周辺は大変危険ですので、住民の皆さんは近寄らないようにしてください。
なお調べによりますと、巨大な生物はここまで歩いてきたようです。
被害を受けた三つの街ですが、死傷者は確認されていません。
今後も被害は拡大する可能性がありますので、速やかに避難してくださ――え? きゃぁああぁあ!」

女性レポーターが見上げる先、映像が急いで上空を向く。
空に浮かぶ――ミルノが適当に投げ飛ばしたであろう――巨大な屋上の一部が、カメラに向かって落ちてきていた。
瓦礫をボロボロと落としながら、屋上の姿は急速に大きくなる。
青空と屋上の一枚絵から、女性レポーターの悲鳴と複数人の足音が遠ざかっていく。

衝突。
大音量のノイズの中に、自動カメラの首が折られる音、脚がちぎれる音が一瞬だけ混ざる。
激しく乱れる映像。白くフラッシュ。すでに真っ黒だった。

ベッドに腰を掛けながら観ていた動画が終わった。

…………おー。まちがいっぱい、こわされちゃったー。
となりのまちもたくさんふみつぶされたみたいだー。
これなら、ぜんこくのきょだいかくりえいたー(おれにとってはかみさまたち)はおおもりあがりだなー。

そしてきょだいむすめのてんけいをさずかったおれたちは、もっとおおもりあがりだよー。
どうがとか、えとか、ぶんしょうとか、たいりょうにあっぷろーどされるなー。
ぜんしんがずしぃんとふるえるくらい、たのしみだー。ばんざーい。
でもまてよー。

……待てよ、っつーか……
正気を取り戻した。

考え事をするように目をつむり、指で眉間をつまむ。
しばらくの沈黙。

何かに気づいた俺の手から、ケータイがガコンと落ちた。
三十分前でこれってことは、今、俺の街は…………

俺の街は…………俺の街は…………

「ぐぬおぉおおぉおおぉお!?」

寝起きの体に駆け巡るアドレナリンが半端じゃないスピードをををああズドオオォォン!

俺はシャツに腕を通しながら、バカみたいに急いで家から飛び出した。
道路にでると、大勢の人々がミルノの元から逃げるように走っていた。

足が空回りするほど灰色の道路を蹴って、人の波を逆走する俺。
多分、逃げる人達よりも必死な顔をしていたと思う。

俺の視線はただ一点。
青空の下、遠くに見える、まだ無事な駅方面。
そこの地平線を無視するような大きさの、よつん這いになっている、メイド服の少女。

一秒遅れることで、一つ建物が死んでいく。

んがっ!?
今、にこにこしながら立ち上がって、ぴょんと無邪気に小さく飛んで、一瞬で何棟もが……

「マ、マジでちょっと待てって! ……うわっっ! そんなに連続して飛ぶなっ!」

これじゃ、少女のおまんちゅが街の――――めいどの土産になっちまうだろ!

おしまい

年下メイドとおまんじゅう / これはペンですか? 違う、だから何本も電柱を引っこ抜くな!