午後の日差しが、病室のベッドを柔らかく照らしている。
少年は上半身を起こしたまま、窓をぼんやりと眺めていた。
5階からの眺めは街を一望できた。

清涼感をつきぬける秋晴れが、木の葉を薄く、人々の身なりを厚くしている。
秋風の冷たさがアスファルトを一段と固くさせる。
古落ち葉がとんぼ返りをする中、オータムフェアの垂れ幕が手を降っていた。

少年は両手で腰を軽く浮かせると、ベッドに伸ばした足に目を向けた。
足には白いギブスがしっかりと巻かれている。
意識がうつろなのは、味気ない病院のお昼ごはんを食べたからではないし、
骨折のせいで血行が気だるく眠そうにしているからでもない。
入院の退屈を紛らわせるために、気持ちを麻痺させているだけだ。

少年は読みかけの本を取り、その世界に入ろうとした。
でも、ページをめくっても内容が頭に入ってこない。
どうしても学校のことが気になってしまう。

学校は給食の時間かな。
みんな楽しく過ごしているんだろうな。
こんなこと言うと「勉強とか運動会の準備で楽しくない!」って言われるかもしれない。
でも入院と比べれば、生きてるって実感がずっとずっとあるはずだ。
それを考えると、みんながうらやましくて、骨折した自分がみじめで、
1人ぼっちで退屈すぎて……何もかも混ざって心が爆発しそうになる。
だから感情を押し殺して、時間の感覚が無になるのを待っているんだ。

壁の時計が正確なリズムを静かに刻んでいく。
時折、看護婦の足音がドアに近づいて、そのまま通り過ぎていく。

少年はパラパラと読んでいた本を閉じた。
そしてぼやけた息を鼻から通すと、ベッドの手すりに手を伸ばす。

「……自販機でジュースでも買ってこよっと」

ベッドから下半身を出し、松葉杖に手をかける。
骨折もかなり回復してきた。
やはり自分で動けるようになれば、病院の生活もだいぶ違う。

最近のお気に入りは自販機のレモネードだ。
氷の魔法のように冷えたアルミの宝箱を開けると、金色の蜜がパチパチと祝福してくれる。
少し口に含めば、ほどよい甘みに重なるように、鼻に広がるレモンの酸味。
そのままゴクゴクと喉に流し込むと、どんな悩みもシュワっと溶けて浄化されていく。
退屈な病院生活に刺激をくれる、ひとときの冒険ファンタジーだ。

少年は慣れた手つきで松葉杖をはさんだ。
そしてもう一度、秋の日差しを見ようと窓を眺めた。

「うわっ!?」

その不意な明るさは少年の鳥肌を天井まで高く飛び上がらせた。

窓ガラスには、太陽のように輝く瞳がパチパチとまばたきをしている。
病室の窓ガラスをすべて占拠するくらい大きな目が。

目のサイズは――離れていってるのか――次第に小さくなっていく。
やがて細くて凛と整った眉毛、控えめに添えられた小鼻、無邪気なほどニッコリした口が見えてくる。
それは少し長いショートヘアの、暗い栗色の髪がハネた、活発そうな少年の顔だった。
ただし、そのサイズは滅茶苦茶大きい。
巨人は外の風をまぶたで2回押しつぶすと、嬉しそうに口を開いた。

「大変そうだな。オレが手伝ってやろうか?」

白いキャンパスにレモンの絵の具を伸ばしたような、太陽みたいに明るいトーンの声が鳴り響く。

病室の少年は息を詰まらせた。

もしかして目の前の巨人は……僕に言っているのかな。
いや、多分、そんなことはないはずだ。
だってこの病院にはたくさんの人が入院している。看護婦さんもお医者さんもいっぱいだ。
だから僕じゃなくて他の人に話しかけているんだ。
僕にじゃない! 僕じゃないはずだってば!

祈りともいえる思案を、震えだした身体に言い聞かせる。

「聞いたぜ。ジュースを買いに行くんだろ?」

松葉杖がカランと倒れる音が響いた。
この病院で、このタイミングで、ジュースを買うのはたぶん……、僕だけ……
顔から血の気が引いていく。

しかし、そんなことなど気にもしない様子の巨人は、あっ、と思い出したように口を開いた。

「自己紹介がまだだったな。オレの名前はランマル。ランって呼んでくれよな!」

はきはきとした元気な声が、全病室の窓ガラスに白濁色の亀裂を入れていく。
数えきれないほどの悲鳴が病院内から聞こえてくる。

満面の笑みで言い終えると、瞳をぱっちりと開いた。

「おまえさ。ジュース買いに行くの大変なんだろ?」

少年は久しく使っていないナースコールを手にとり、声を一心不乱に絞り出した。

「た、たた、助けてください! た、助けてください!」
「やっぱりな! 安心しろ。助けを求める声があれば、オレはいつでも駆けつけるからな!」

巨人はニシシと笑いながら、親指で顔を得意げ指した。
そして重厚な風切り音をなびかせながら、病院に顔を近づけた。
聞いたことのない絶叫の大合唱が病院から聞こえる。

「でさ。おまえ、歩くの大変そうだから、オレが代わりに手伝ってやるよ」

少年はナースコールのボタンを手の平で何度も叩きながら、パニック化した叫びをマイクにぶつける。

「た、助けてください! 早く! たすけてってば!」
「わかったって! まかせとけ。オレが願いをかなえてやるから、ちゃんと寝てろよな!」

ランと名乗る巨人は、にこやかにウィンクをすると顔を上げた。
胸には黒い着物が折り紙のように重なっている。
その下の腰には薄灰色の袴が巻かれている。
巨人は土下座をするような体勢だったらしく、上半身を起こすと、よいしょとひざを立てた。

「うわああぁぁぁ! 誰かたすけ――」

少年の両膝がベッドよりも高く跳ね上がった。
街が爆発したような、重々しい足音が病室に襲いかかる。
窓ガラスが空中で砕け、お見舞の花瓶が棚から浮き、ベッドまでも大きく浮いた。
そして部屋の全ては床に……叩きつけられた。

――午後の日差し。かなり騒がしくなった街。

立ち上がったランはギュッと目を閉じて、両手で伸びをした。
満面の笑みで日光の眩しさを噛み締め、気持ちよさそうな声を秋風に乗せる。
大きく息を吐いて、両腕をぱたんと降ろすと、金色の太陽のような瞳を開いた。

「自販機でジュースを買うんだろ。楽勝だって!」

勝ち誇ったように微笑むと、右を振り向いた。

その方向は街の中心街だ。
大きなビルが背を比べながら立ち並んでいる。
道中には3階ほどの階数の建物が列を作り、人々が歩道の上を逃げるように走っている。

少しだけ地上を確認すると、ランは誰に言うわけでもなくつぶやいた。

「ほんとは、おまえ達が作った道路を歩けばいい……んだろうけど」

ランは足を振り上げた。
足元は、天上のお城に飾られた、一切の汚れを知らない、大理石の女神の肌のように白い足袋に包まれていた。
街を軽く覆うほど大きな足先は道路をまたいで……2階建ての住宅を路地ごと踏み崩した。
すぐさま病院の角をひざで蹴り飛ばしながら、次の街並みを爆音と共に吹き上げていく。

「オレ急いでるんだ。死にたくなかったら、どけよな!」

爽やかな笑顔で足元に言い放つと、前を向いて駆け出した。
一足毎に耳が裂けるほどの大きな足音が、建物ともども地面を踏みつぶしていく。
ランの駆け足は、どんなに人間が精魂込めて頑丈に作られたものだろうと、
いとも簡単に消滅させ、吹き飛ばし、周囲の建築物までも崩していった。

道路に悲鳴を響かせながら、車と共に吹き上げられる沢山の人々。
命からがら走行進路から離れるのが精一杯のようだった。

破壊の音を引き連れながらにニコニコと駆けていくラン。
道のり半分まで被害を拡大させたところで、あっ、と空をあおいだ。
大きな旅客機が飛んでいた。

「飛行機だ! おーい!」

2階建てアパートを踏みつぶしながら、笑顔で空に手を降った。
しばらく飛行機を見ながら派手に街を蹴散らしていく。

「オレも空を飛べるけどさー」

交差点が一瞬で消えた。

「そんなことしたら、飛行機に迷惑かけちゃうしな。でも飛んじゃおっか?」

一歩で映画館ごと跳ね飛ばされる、何十台もの車と人々。

「なーんてな。冗談だって。みんなに迷惑かけちゃまずいし」

ツンと伸びた前髪を上空から前方に戻すと、軽やかに悲鳴と倒壊音を連ねていく。
街には、壊滅の軌跡が直線的に伸びていった。

――中心街の公園広場。
白いタイルが敷き詰められた広い敷地には、木製のベンチと樹木が数多く設置されている。
人の影がなくなった広場に、ポツリと侵入している1台の車両。
そのすぐ近くで、業務用の大型カメラがマイクを持った男性を映していた。

「中心街はご覧通り、ほとんど避難が完了しています。
少年の姿をした巨大生物は、ここから何kmも離れた場所で目撃されています。
十分に安全ですので、みなさん落ち着いて避難をしてください。
繰り返し緊急速報をお伝えします。避難場所の――」

男性は閑散とした広場を背景に、中心街の様子を生中継していた。
その中継を見ながら、人々は避難を続けていく。
大きなテレビや小さなケータイから街の状況を確認できる、みんなの大事な大事な命綱だ。

そんな中継に少しずつ不穏が混ざり始めていく。

カメラに映る映像。
突如、遠くで爆発するような音が音声に混じる。
誰かの地声が飛ぶ。急に慌ただしくなる男性。
再度、何かが爆発したような大きな音。
カメラの映像がぶれ始めた。

男性の姿が消えた。映像は空を映した。
白くそびえる高層ビル。
を両手で引きちぎっている少年の姿。
無邪気な笑顔の下でビルが2つにちぎれていく。
硬く崩れる轟音しか聞こえない。
少年と目が合った。黒い着物の袖が大きく振れた。
恐ろしく巨大なビルが宙に浮いた。
ビルに吸い込まれていく。
いや、ビルが落ちてきている。
男性が体をぶつけてきた。両目がノイズに汚染される。
怒鳴るような悲鳴だけ。視界が地面にガシャンと叩きつけられる。
エンジン音が聞こえる。
目のノイズが離れた。下半分は白いタイル、上半分は黒いゴム。
タイヤが悲鳴を上げて発車した。
誰もいない公園の広場が影に覆われる。
青空。
聴覚がつぶれ、世界が黒に染まった。

「オレの邪魔すんな! どけ!」

ランはビル上層部を適当に投げると、残りの階層に白足袋を突き刺した。
足跡がついた残骸は、周りを巻き込んで沈んでいく。
少年は満足そうに最期を看取ると、視線を大きな街へ流していった。

「これでよく見えるな。えっと」

片手を腰に当て、もう一方をおでこに当てながら探しものをしている様子。
中心街は広大で、階層が高めな建物が密集している。
街路樹とガードレールに挟まれたアスファルト。さらに自動車までそろっている。
あちこち動き回らなくても、じっくり凝視すれば探しものが見つかりそうだ。

ランは早速ピンときた。

「たぶん……あそこにいけば大丈夫だろ」

一つの場所に目線を定めた。

ランはゆっくりと、のし歩いていった。
無造作に駆けて行った時とは大違いだ。
目標地点が壊れないよう最大限の配慮をしている。
大きく麗しい白足袋で、優しく建物を踏み崩していく。
自動車をそろーりと蹴飛ばして、道路に特大の陥没を作っていった。

何度も轟く倒壊音。地中で折れていく街路樹。
道路の揺れが……やっと止まる。
どうやら目的地に到着したようだ。

そこにあるのは全国展開しているコンビニエンスストアだ。
交差点に隣接する1階建て。白い壁に青の屋根というデザイン。

ランは、ビルが存在していた場所に立って、コンビニを見下ろしていた。
口元がにやついている。
顔を近づけようと、薄灰色の袴を折ってしゃがみこむ。
腰下で崩れていく被害の音に負けないよう、コンビニに向かって元気に言った。

「こんにちはー」

両手をひざに置き、草花に挨拶をするような笑顔。
青い店舗看板が揺れる。人の気配がない。

ランは目をパチパチさせる。

「あれ? 誰もいないの? おーい」

店舗全体が先よりも強く共鳴する。
やはり人の気配がない。

「なんだよ。聞いてねーよ。コンビニって平日休み……なのか」

表情がしょんぼり曇っていく。
ランは誰も出てこない店舗をしばらく見続けた。

「……ほんとに誰もいないのかよ?」

そう言うと、コンビニに向けて手を近づけていく。
人差し指をピンと伸ばすと、店舗へ見境なく突き刺した。
頑丈な建物とは思えないほど、次々と指が突き刺さる。
ひと突きごとに周りの建物が揺れ、解体工事のような音が轟く。
店舗前のゴミ箱が転がり、壁が崩れ、天井がどんどん陥没していく。

コンビニは半壊しただけで、誰も出てこなかった。

「ちぇっ、時間の無駄だったじゃん」

不満そうに眉をひそめ、口を閉じた。
そしてコンビニを手で薙ぎ払おうと、着物の袖を引き寄せた、まさにその時。

1人の男性が自動ドアからつまずくように出てきた。
青と白のボーダーの制服をきた、若い男性だ。
歩道の亀裂をひょいと避け、巨大な白足袋のつま先を横切って、コンビニから走り去っていく。

ランは驚いた表情で、男性に向かって急いで手を伸ばした。
ひぃっ、という短い悲鳴。直後に地面が爆発した。
アスファルトに突き刺さった肌色の指。
巨大な地鳴り。男性が歩道ごと浮く。
上空からボロボロと落ちる地面。その一部が路上駐車の車を直撃していった。

――建物を越えた高さから見える青空。
青のグラデーションが澄み渡って、どこまでも広がっている。
それは秋の青空。
ここ数日は夏の汗が嘘のように感じるほど、めっきり涼しくなった。

ところが、1人のコンビニの制服だけは、暑くもないのに汗でびっしょり濡れている。
巨大な手によって、歩道と一緒にすくい上げられた男性だ。
尻もちをついた男性は亀裂だらけの地面を蹴っておそるおそる後ずさる。

その様子を物珍しそうに見ている巨大な少年の顔。

「おまえ、あのさぁ」

ランは散々呼びかけても出てこなかった男性に向かって口を開いた。
前歯が白く光る。
悲鳴と共に、コンビニの制服が大きく震えだした。

「オレに自販機をくれ! とびっきり活きのいいヤツをな!」

それは秋晴れを体現したような爽やかな笑顔だった。

「ひいぃぃっっ!?」
「自販機だってば。コンビニにあるんだろ? ねぇ、はやくくれよ」

待ちきれないという表情でランは着物を揺らす。

「いぃっ、い、いえ、自販機は取り扱って、おりません」

男性は心臓の異常を吐き出すように震える声で答えた。

「ありゃ? ないの?」

ランはキョトンと目を見開いた。

「じゃあ、どこにあるか知ってる?」
「自販機がある場所は……そ、そこらへんの――」
「あの、っていうかさ」

男性の声を途中でさえぎると、控えめな笑顔でランは言った。

「自販機って……何?」

その声は少し恥ずかしそうにも聞こえた。

「え? そ、そのくらい……いや、自販機っていうのは……、あ! あれです!」

男性は慌てて人差し指を指す。

「ん?」

ランが後方を振り向く。

そこにあったのはガラス張りの20階建てオフィスビルだった。
コンビニからすこし離れた場所で立派にそびえ立っている。
形だけは自販機とそっくり。

「お兄さん、あれは『たてもの』ってやつだろ。バカにすんなよ!」

ランは手元をみると、不満そうに吐き捨てた。
その表情から笑顔が消え、細い眉毛がにらみつけている。

「マジでさ」

手元の小さな男性にむけて、ランは美しく端正な顔を急速に近づけた。
暗い栗色の髪が大きな頬をこするように垂れる。
そして面白くなさげに目を細め、冷たく言い放った。

「殺そっか?」

まっすぐの指が曲がり始め、男性の頭上の日光を奪っていく。
少し動かしただけではっきり聞こえてくる、大きな柱が動くような5本の音。
指の間からアスファルトがボロボロと落ちていく。
明らかに握りつぶそうとしていた。

「なな、ななな、中にある、あ、あれです!」

男性は異常なほどに震える腕で、必死に巨人の後ろを差した。

「え?」

ランの表情が元に戻る。
もう一度後ろを振り返るが、瞳のパチパチは多いままだ。
男性が教えてあげているのに、ピンときていない様子。
とりあえず近くで見ようと思ったのか、しゃがんだままスリスリと道路を踏んでいった。

男性の指先。
そこはフロア全体に渡る、広々とした休憩スペース。
まだ新しそうな床が、綺麗な木目を披露している。
そして白い柱に密着するように、ロゴ入りの赤い自販機が確かに設置されていた。

「赤くて四角い、あ、あれです」

改めて男性は指を指した。

ランは大きな顔をビルの近くに寄せると、ようやく理解した。

「わあ!」

瞬く間に目が見開き、輝いていく。
頬がほんのりピンク色になった。

「うわ、すっげー! この小さいのが自販機かぁ」

目的の物を見つけたランは、興奮をおさえきれない様子だ。

「お兄さん!」

手のひらの男性にニッコリ話しかけ、目を開けた。

「ありがとうな!」

お礼を言い終えると同時に、手をビルに容赦なく突き刺した。
爆破シーンのように激しい音とガラスが空気を切っていく。
周囲のビルの壁面が衝撃で揺れはじめた。

「うわあああぁぁぁ!」

男性はとっさに腕で防御した。
千切れた机や、細切れになった床が次々と降ってくる。
瓦礫の断面は見るからに鋭利で、体に直撃したら確実に大怪我だ。
細かな破片を腕に当てながら、男性は祈るように目を閉じるしかなかった。

しばらくすると、怯えていた耳がつぶやいた。
音が。破壊の音が止んだ。静寂の音。

腕をゆっくりほどき、なんとか無事だった体を起こす。
瓦礫が混ざったような空気を吸いながら、空を見上げた。

ランが手を握りしめている。
ところが何か様子が変だ。

「お兄さん。これ、もしかして」

笑顔が消えていた。ランの手がゆっくり開いていく。
男性はいくつもの嫌な予感で頭をいっぱいにしながら、手の中を見た。

そこにあったのは赤色の……、自販機だった。半分に千切れた姿。

「壊れちゃった?」

ランは男性を見下ろした。
その表情は秋晴れとは不釣合いなほどに曇っている。
手の上の男性は、故障を伝えるべく無言で静かにうなずいた。

ランは息をつまらせた。
唇を閉ざしたまま眉が下がっていく。
しばらく言葉を失っていたが、やがてうっすらと涙を浮かべて口を開いた。

「ご、ごめん。親切なお兄さんに教えてもらったのに。オレ……」

その声は暗く落ち込んでいた。
誰が聞いてもわかるくらいの痛々しさを伴って、ビルに反射する声だった。
仕立ての良い黒い着物が、喪服のように見えてしまう。

男性は、ちょっぴり気の毒そうにランを見上げていた。
事情は分からないが、あんなに元気な姿から一変するなんて、よほどショックだったのだろう、と。

ふと男性はビルに目をやった。
一気に心臓が飛び上がり「うわっ!?」と思わず声を漏らしてしまう。
そこ広がっていたのは、おぞましい破壊の光景。
机が粉々に吹き飛び、床が半分以上消え、四隅の柱が1つなくなっていた。

今なお、瓦礫がボロボロと崩れているビルから、男性はあることに気づいた。
出ない声を必死に出しながら、目の前の巨人にそのことを教えてあげた。

「え?」

言われた方向を見るラン。
そこには……同じフロアに残っていた、白い自販機があった。
先の衝撃によって倒れてはいたが、なんとか無事な姿をしている。

すぐにランは顔を寄せ、涙目でそれを見た。
信じられないといった表情で、何度も何度もまばたきをした。
やがてそれがもう一つの希望だとわかると、光を失っていた金色の瞳に再び生気が宿っていく。

「あ、あ、ありがとう」

お礼の言葉を絞り出し、目に浮かんだ粒を着物の袖で丁寧にぬぐい去る。
そして手中の小さな男性を見つめた。確固たる表情だ。

「オレ、次は絶対……、絶対に成功させるから!」

片手を固く握りしめ、力強く言い放った。
自分に言い聞かせるように。
なによりも男性の恩義に強く応えるように。
コンビニの制服は耳をおさえながら、小さく震えてうなずいた。

ランは静かに目を閉じた。
雑念を消して集中力を高めているようだ。

シンと静まり返る街。
耳を澄ますと遠くからサイレンの音や、人々の悲鳴が重なり合った、霞んだ音像が聞こえる。
それらは緊張と恐怖と絶望から生まれる、絶対に耳にしたくない非日常音だ。

混沌とした小音量がランの表情を徐々に渋くさせていく。
口元が歪んでいき、強く噛み締められた歯が不愉快そうに顔を出しはじめる。
ついには、チッ、という舌打ち音が地面を突き刺さした。
ランは勢い良く目を開いた。

「うるさいんだよ! 静かにしろ!」

感情にまかせて怒りを放った。
黒い着物を下界へ勢い良く伸ばす。
一瞬にして轟音が鳴る。柱が折れる巨大な音。
ランは3階建てビルを無造作に握ると、音のする方向へ乱暴に投げつけた。

宙を舞ったビルは大地に派手な音を立てさせ、いくつかの建物とともに消滅した。
人が巻き込まれたのかどうかはわからない。

「これ以上邪魔するなら、おまえ達を街ごと消すからな!」

手に力を込め、破壊の山に重ねるように言い放つ。
その巨大な脅迫は一瞬で静寂を作り上げた。
あまりに強制的すぎる静けさに呆然とする男性。

ランは、ふん、とあごをあげるとビルの方を向いた。

「次はマジで当ててやる」

独り言のように小さくつぶやくと、もう一度静かに無の世界へ入っていった。

禅の吐息が流れること数寸刻。
少年の大きな瞳が開いた。

極めて落ち着いた眼差しで目の前をみると、ランは人差し指をビルへ静かに突き刺した。
そのまま白い自販機の後方に密着させ、自分の方にたぐり寄せていく。
ゆっくりと、そっと、優しく。
軽く触れただけで下の階へと無残に崩れる床の感触を、
指先で味わうように、じっくり動かす。

徐々に大きくなる、自販機が引きずられる音。
白色の頭がビルの外へ出ようとしている。
もう少しで全身を引きずり出せそうだ。

ランの表情はこれまでになく張り詰めている。
その顔をさらに心配そうに見ている男性。
そして、ついにその時が訪れた。

あっ、とランの瞳が丸くなる。
うわっ、と男性は後ろに下がった。
赤い自販機はビルから抜け落ち、男性の目の前で着地音を響かせた。

「やった……やったあ!!!」

ランは天に向けて喜びを飛ばし、ガッツポーズを青空へ掲げた。
歓喜の声によってビル上層部の窓ガラスが一瞬で砕け、硬い雨となって降り注ぐ。

「なぁ見てくれ。綺麗な自販機だろ!」

幸せな表情を手元へ向けると、ランは嬉々として言った。
男性は耳をふさぎながら、自分の生存を確認するかのように、苦痛をにじませた声を出すしかなかった。

「ったく、苦労かけさせるんじゃねーよ! ほーら!」

ランは喜びのあまり、軽い気持ちで、自分の大きさを考えずに、手の平でビルにハイタッチをしてしまう。
瞬時に床が押し崩され、柱がすべてぶち切られ、重くて濃厚な崩壊音を立てながらビルは折れていった。
「うわああぁぁぁ!!」と、反射する瓦礫から身を守る男性の精神もすでに崩壊寸前だった。

倒壊が終わり、ひとしきり静かになった街並み。

ランは手の甲を地面につけ、男性を降ろした。
男性は久しぶりの地上に足をつけると、一目散に逃げていく。

「今日はありがとな! 困ったらいつでもオレを呼べよ!」

黒い着物の袖を大振りしながら、元気な声を静かな街の隅々まで行き渡らせた。
コンビニの制服が見えなくなると、目線を戦利品に向けた。

「これが自販機だ。きっと喜んでくれるだろうな」

白い宝石を大事そうに見つめるラン。
病院の少年が喜ぶ姿を想像しているようだ。

ところが瞬きをすればするほど、明るい笑顔が薄くなっていく。
やがて笑顔が完全になくなると、力のない独り言が無表情から漏れた。

「自販機って、一個で足りるのかな?」

心配そうにつぶやいた。
確かに小指半分ほどの大きさの宝石1つでは、心もとないようにも見える。

するとランは眉を寄せ、あごをつかむように指を当てて、うなりながら考え込こんだ。
低くて間延びした声が響く。
しかし、声が途切れるまで、それほど時間はかからなかった。
しばらくすると、どっちつかずだった眉毛がニッコリ笑いはじめる。

「たぶん、もっとあったほうが賑やかでいいよな」

ランらしい答えが導かれた。
小さな街から自販機をさらに探すべく、背筋を伸ばして視界を高めると、きょろきょろと周囲を見渡しはじめる。

「でも。自販機ってどこにあるんだよ。他の場所って――」

言葉を止めた。
いや。とある物体によって止められてしまった。

小さな口をあ然とさせ、ランは物体に誘われるように向かった。
目的地が崩れないように、他の建物を崩しながらしゃがみ歩きをしていく。

5歩で大きな歩行が止まった。
やがて、道路へ崩れ落ちた瓦礫に黒い着物の袖が重なり、さらに細い腕が伸びていく。
その指先にあったのは、光をまぶしく反射する白さの鉄製の箱。

「これ、自販機じゃん」

あっけにとられながら、つまみ上げた白い自販機をみつめる。

「なんでこんな所に、って、うわ!?」

少しびっくり気味に声をあげた。

白足袋の地割れのすぐ先に、倒れた自販機が3つほど並んでいる。
さらにその先にも、青い自販機が。
その向かいにも白い自販機が列を作っていた。

上空にある、2つの太陽がみるみる輝いていく。
そしてその下の空間が、太陽よりも大きく興奮気味に開いた。

「すげー!! この街、自販機がめちゃめちゃ落ちてるじゃん!」

片手を握りしめると、すぐさま収穫に向かった。
邪魔な建物を簡単に押しのけ、踏みつぶし、自販機をポンポンと手のひらに載せていく。
手を伸ばした後には、建物にできた大きな穴と深くえぐれた地面だけが残ってた。

少しの間、倒壊音と足の衝撃音が、街を揺らし続けた。
いや。
かなりの間、倒壊音と足の衝撃音が、街を揺らし続けた。
というよりも想像以上に長く、倒壊音と足の衝撃音が、街を揺らし続けた。

――気がつくと、秋空の太陽がすこし傾いていた。

「うん。これだけあれば十分だな」

手首でおでこを満足気になでると、ようやく収穫を終えた。
片手には自販機が雑色の山をなしている。
少しでも揺らすと、ガラガラと崩れそうだ。

「まってろよ! 今助けにいくからな!」

こんもりと膨らんだ自販機の山を片手に、ランは廃墟の山を後にした。

――5階建ての病院。
避難が完了したようで誰の気配もない。
骨折の少年がいた部屋は、窓ガラスが完全に消滅し、ベッドが横に倒れ、床には無数の残骸が散らばっている。

ベッドがゴトンと動いた。
病院の床が等間隔のリズムで揺れ始る。
次第に激しくなっていく病室の揺れ。
ところが、急にピタリと止まり、何事もなかったように静かになった。

平和になった。

突如、静寂を爆発させるように、天井が一気に吹き飛んだ。
柱が斜めに曲がり、壁は亀裂だらけになり、床に落ちた無数の破片が風に流されていく。

吹き抜け天井には、病室を簡単に覆うほど大きな顔がのぞかせている。
しゃがんで病院をなぎ払ったランは、そのまま楽しそうに話しかけた。

「おまたせー! 見てくれよ!」

自販機の山が上空に浮かんでいる。
新品同様のものもあれば、つぶれて機能していないものも混ざっている。
巨大な手から、すでに何台かボロボロと落ち始めていた。

「おまえの願い。今、かなえてやるぜ」

そう言うと、ランは病室に一気に放り込んだ。
鉄の箱は床を砕きながら、部屋の空間をメキメキと埋めていく。
自販機の山はあっという間に、天井だった高さを越えて積まれていった。

「最高だろ! ま、オレの手にかかれば簡単なことだけどな」

フフンと得意げに腕を組んだ。
ひざから垂れている薄灰色の袴が重厚に揺れる。

「いつでも自販機でジュースをいっぱい買えよ! な?」

崩れはじめている病院の上空で、明るくて無邪気な笑顔が輝いていた。

山を作り終えると、ランは後ろに両手をつき、薄灰色の袴の膨らみを駐車場につけ、病院周辺をさらに揺らした。
そして崩壊しかけている病院と自販機の山を愛おしく眺めはじめた。

白い雲が流れていく。
冷たさが頬をかすめる。カラリと落ち葉の音。
ランはふと自分の足元に目をやった。

そこには地面の地割れを塞ぐように、イチョウの木が何本も横たわっている。
イチョウの葉は派手に散乱し、そばの駐車場でつぶれた自動車を黄色く染めている。
激しく隆起した敷地に自販機が落下し、鈍い金属の打撲音を轟かせた。
自販機の扉が豪快に吹き飛び、空っぽになった缶が転がる。

ランはクスクスと微笑んだ。
風が暗い栗色の前髪を揺らしていく。
世界を旅する風の妖精に気づいたランは、まばたきであいさつを交わた。

妖精達の道跡には、落ち葉の香りが漂っていた。
ランは深呼吸をして秋の香りを全身に満たした。
目を閉じれば、病院の紅葉がまぶたの裏に浮かんでくる。
そこに清流となった秋風が、落ちた葉の波紋をひんやり流していく。

「オレこの病院、好きだな。風流があって、あきかん満載だしさ」

おしまい