妖弧怪奇譚

初夏の日差しを受けて青々と茂る木々の中、洋一は必死で石段を駆け上っていた。
ガキ大将だった徹雄が都会の中学へ進学したため、
やっと秘密基地の主として改造を施すことができる。

秘密基地は住宅街の裏山、神社のほとりにある。年始と秋祭以外は人も来ない、小さな神社だ。

「ついた〜!」

百数段の石段をどうにか登りきり、洋一は荷物の一杯入った袋を降ろす。
丘の広場は村祭りに使われることもあって縦横30mくらいあり、
奥にある二坪弱の小さな社がさらに小さく見える。
その社が普段のそれと違うことに、洋一はふと気づいた。

扉が開いているのだ。昨日の風で鍵が壊れたのか、それとも神主が閉め忘れたのか。
事情はわからないが、これは親たちから入るなと厳命されている社の中を見られる
又とない好機だ。洋一は社の前まで駆け寄ると ぎこちない動作ながら二礼二拍手し、
中に入る。

社の中に安置されていたのは、犬でいうと「お座り」の姿勢をした狐の石像だった。
洋一の肩とその石像の肩が同じくらいの高さにある。実物の3倍くらいは
あるだろうか。額のところに白い紙が貼られている。

「なんだろ、これ……」
紙には洋一には読めない字が描かれている。ペンキ塗り立て、ではないらしい。
手に持ってみると、ぴっという軽い音を立てて紙が剥がれる。

いきなり洋一の目の前に光が溢れ、
その次の瞬間 彼は衝撃に襲われて後方に吹っ飛ばされた。

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目を覚ました洋一が最初に見たのは、自分を見下ろしている女性の顔だった。
少なくとも彼の知っている顔ではない。歳は彼の姉より少し上くらいだろうか、
やや勝ち気そうな雰囲気の子だが、なぜか頭に犬の耳のような飾り物を付けている。

彼女も自分を見ているのに気付き 少しどきっとするが、
焦点がなんとなく合わない。ごしごしと目をこすりながら彼が身を起こし、
改めて見渡すと……

正面に、緋色の……幕?

再び上を見ると、彼を見下ろす顔。
その間、多分20mくらいの高さが、白と緋の装束で繋がっている。

「……!!」

反射的に体を起こし、身を翻して逃げる洋一。
しかし、彼の胴体にいきなり太い腕が絡む。
いや、腕ではない。太さで体育の先生の倍はありそうだが、それは指だ。
洋一の体はふわりと持ち上げられ、再び反転して下ろされる。

犬の耳を付けた巨大な巫女に 再び対峙させられてしまった洋一。
そんなの居る筈がない……あり得ない。洋一は目を閉じて首を左右に振るが、
それで目の前の状況が変わるわけではない。目を開ければ、やはり
目の前には圧倒的な大きさを持つ 犬耳付きの巫女が座っている。

「頭を打って気が触れたのかと思ったぞ」
その巫女は何か企んでいるのか、それとも彼の驚き慌てる様子を
楽しんでいるのか。とにかくそんな悪戯っぽい笑みを浮かべている。
ぴんと立った耳までが、なんとなく楽しそうだ。

「お主だな? 我を永き眠りから解き放ったのは」
百年杉より高いところから響く声は、
その若い容姿とは裏腹に堂々としていた。
「は、はい。多分……」
力無く応えながら、洋一はまず何を問おうか考えていた。
しかし この無茶な状況さえ把握できないため、まともな質問なんて
とても思い浮かばない。やっと出せた問いは、
「あ、あなたは?」
これだった。

「ん? 我は妖狐……妖狐の……」
得意げに名乗ろうとした妖狐だが、急に語調が弱くなり 途切れる。
不思議に思った洋一が見上げると、その妖狐は明らかに焦った表情を浮かべ、
視線を方々の彼方に向けている。
「よ、ようこ……さん?」
「否ッ!」
問い返す洋一に 短い怒鳴り声。洋一は慌てて身を竦めるが、
それを嘲笑う余裕も無いほどに妖狐は焦っていた。
「否……だが……思い出せぬ……」

自分の名が無いと天地への誓いさえ立たない。
もちろん、言霊を用いた妖術も使えない。
「じゃ、じゃあ、洋子さんで良いのでは……。ね、洋子さん?」
(こ、こやつ……)
勝手に決めつけている洋一を妖狐は忌々しく思ったが、
名無しでは妖術を使えない以上、今はその名を授かる他に無い。
しかし、名を授かるということは即ち主従の契りを意味する。
こんな毒気のない子供に従うのも、彼女の気位からすれば
承伏し難いことであった。なんとか主従を解消しつつ名を授かる方策を……。

「……やっぱり、もっと違う名前が良いのかな。
狐だから、コン助とか、ゴン太とか、ポチとかタマとか……」
洋一もまた悩んでいた。その呟きを聞き、妖狐の焦りが倍加する。
「ま、まて」
身を乗り出してどん、と手をつく。衝撃と服が巻いた風に洋一の体が翻弄され、
後ろに二三歩よろめく。
「……洋子で、構わぬ」
無念に震えながらも、なんとか声を絞り出した。

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永い眠りからやっと冷めたと思ったら名を忘れ、宛われたのはなんとも平凡な名。
だが、悔やんでも仕方がない。

「これより術を行うゆえ、しばし下がっておれ」

そういって洋子は立ち上がる。そして洋一が十分に自分から離れたのを見てから
彼のの聞いたことのない言葉をやや変わったリズムで紡ぎ始める。
はじめつぶやきだったそれは徐々に大きくなり、やがて鳥の囀りや
木々のざわめきまでもが彼女の律に呼応しはじめる。
そしてどこからともなく吹いてきた二つの風がぶつかってつむじを巻き、
天へと登っていく。

それが、術の終わりのようだった。洋子の詠唱も それに呼応していたざわめきも
はたと止み、二人の周りを不意に静寂が覆う。

「やれやれ。このような凡庸な名では少々恥ずかしかったぞ」

照れくさそうに洋子は呟く。いやあ、と気まずそうに洋一も軽く頭を下げるが、
そんな彼に対して洋子は唐突に提案を持ちかける。

「まあよい。で、解呪と名付の礼じゃ。そちの願い事を申せ」

「願い?」

いきなりの話に付いていけず、鸚鵡返しに問う洋一。

「うむ。我を封印から解き、さらに名まで頂いたからには、
願いの一つくらいは聞いてやらねばの。願いを増やせというのは無しじゃぞ」

洋子は上半身を軽く屈め、悪戯っぽく笑っている。
元が狐だったせいか犬歯に似た八重歯が覗いており、
勝ち気そうな表情をいっそう際だたせている。

姉が自分に都合の悪い頼みごとをするときの表情に似ている。
洋一はそう察していた。余り下手なことは言えそうにない気がする。

確か、アラジンだったか。
ランプを擦って出てきた魔人に彼は何をお願いしたのだろうか。
何か巧いことを言っていたのではないだろうか。
洋一としては先人の知恵を借りたかった。

「いや、ちょ、ちょっと……」
「ちょっと? なんじゃ、早う申せ」

しどろもどろに引き延ばそうとする洋一に対し、洋子は畳みかける。
願いの成就を主従の契りに替える腹積もりだから焦るのも道理ではあるが、
彼女の巨躯も相まって 洋一に警戒心を与えてしまう。

「ちょっと、待って欲しいんだ」
「うん? それが願いか?」
「ち、違うよっ!」

洋一は素早く叫び返し俯く。苛立たしそうに尾を振る洋子を
視界から外して考え、妙案を思いついたところで上を向き直って 一気に問う。

「でも、その前に教えて欲しいんだ。何で洋子さんそんなに大きいの?」

洋一にとっては妙案の積もりだったが、洋子は訝しげに彼を見て問い返す。
「なに当たり前のことを問うておる?」
「え?」
ぽかんと口を開けたまま固まる洋一。
本当に何も知らない様子に、洋子も苦笑するしかない。
「はぁ……それだけ時が下ったということなのかのお……」
ため息交じりに洋子は、自分がこの土地の守り神だったこと、
それゆえにこの姿であることを洋一に聞かせる。
「神様だったんだ……」
なぜか洋一には不思議なほどすんなりと信じることが出来た。
神様が居るとは彼自身思ってもいなかったが、
いま目の前にいる耳付きの巨大な巫女を他に説明することもできない。
「神様……願い事?」
呟きながら、洋一は友人が持っていた漫画の一場面を思い出していた。
電話で偶然呼び出した女神に願ったこと。それが良さそうだ。
洋一は洋子の方に向き直り、少しだけ得意げに言い放つ。
「じゃあ、お願いは……僕の友達になって欲しいんだ!」

だが、洋子の反応は先の漫画と全く異なる。
「はぁ?!」
大きくきつい声と共に、突然洋子の表情が険しくなった。
彼女にとってみれば、それは余りにも尊大な願い事だったからだ。
「守り神である我と同じ身の上になりたいと?」
怒りさえ秘めた眼で洋一を見据え、詰問する。
「いや、あの……」
睨まれた洋一は怯み、小さく数歩後ずさる。
まさに蛇に睨まれた蛙という表現に近かった。
大きさもそうだが、怒気を含んだ眼光は明らかに人のそれと異なる。
ついに洋一は身を伏せ 亀のように丸くなってしまった。
ごめんなさい、ごめんなさいと譫言のように繰り返している。

洋子はそんな洋一の姿を上からじっと見下ろしていた。
ここまで脅えている小さな少年を見ると、怒る気も失せてしまう。
考えてみれば小童の他愛もない願いではないか。
「まぁ良かろう。面を上げよ」
洋子は出来る限り優しい声で そう言った。

だが、友と聞いて彼女の中で引っ掛かることもある。
自分が狐石に封じられてから相当な時を経ているのは明らかだ。
出雲に帰って、どれだけの友が残っているだろうか……。
「どうしたの、洋子さん?」
洋一がおずおずと問う声で、洋子は はっと我に返る。
見ると目の前の少年が自分を案ずるように見上げていて、彼女は少し焦った。
言葉には出さなかったが、表情に出てしまったらしい。
「いや、何でもない。気にするな」
洋子は手を下ろし、洋一の小さな頭をそっと撫でた。
「それより、さっきは悪かった。怖かったろう」

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