赤い海。
 それは天の上にあった。天球のすべてを、覆い尽くしていた。

 西暦では2030年にあたる、赤の暦、13年。
 重力と遠心力で釣り合うように、かつての成層圏にどこまでも広がる、赤色をした海の天井。それによって、地上では宇宙を見ることがかなわなくなった。太陽光が直接届くことはない。海が蓄積した茜色の光、どんな地方も温暖で過ごしやすい、小春日和の夕暮れのような。それが昼と夜をなくして、一日中暖かく降り注いでいた。
 国際世界からは、地域格差が消えつつあった。気候が以前とは劇的に変化し、どこにいてもさほど変わりない気温が、作物を公平に育たせた。食糧は豊かではないものの、必要なだけ均質に行き渡り、貯蔵や輸出入をする必要が薄れていた。
 人類は、以前の文化水準を復興した。海水の大半が天上に行ってしまったことで、居住可能な土地が莫大に増えた。旧世代のような険しい開拓が不要なら、復興も難しくないことだった。
 残された人口が、過去のインパクトのいずれより更に激減していようとも。

「太陽の映像、主モニターに出ます」
「うん。やはり、かつて地上から空を見上げた太陽とは違うよ、情緒なんてない。我々に最も近い恒星、ただそういう印象だけだね」
 わずかに1桁ほど残る人工衛星は静止し、周囲を撮影していた。静止軌道ではない。赤い海の上、宇宙側の海面で固定されていた。本来なら、高度3万6千キロメートル。最低でもそれ以上の厚さが、赤い海にはあった。
「では、赤い海の分析ホログラフです」
 海の膨大な水量により模っているのは、球体をふわりと余裕をもって包む、儚げな両手。その手首から少し先まで、観測結果からシミュレーション映像にできた。
 黒い月を左眼に、白い月を右眼に封じたことは、地上に残った大破壊の僅かな痕跡から推測されている。
「これが人類の守護者だなんて、やっぱり思えないよ。僕にはよく見覚えがありすぎて、ね」
 赤い海自身が阻むので、観測手段を追加するためのロケットを打ち上げることもできず、解像度不足ではっきりした形状が確定していない。だが、観測グループには確信があった。
「これほどまでに近いのに、もう、逢えないんだね……」


 地球と月を再び引き離した、最終インパクトの少女。
 遺伝子上の母が消息不明と判明、そして名付けの母も否定し、本当のファーストネームを忘れ去った少女。

 アスカ・ラングレー。

 すべての人類の英知から産まれた娘として。
 彼女は、太陽と月から地球を守る、人類最大の末裔となった。