—時は夜中。

暖かな羽毛布団に潜ったまま硬くもなく柔らかくもないベッドの上で目を開かされる。



——気分は不快。

起きた原因はすぐに感知できた。

尿意。

人間のなんら問題のない生理現象。

むしろ普通の人間には必要とされる機能だ。

ただ、タイミングが悪ければ不快な事この上ない。

そう、例えば今の様に人の安眠を妨げるようなタイミングはもってのほか。

いくら生理的欲求が働いても、人の大儀とも言える睡眠を邪魔するなどももってのほか。

がしかし、一度気になってしまった以上その欲求に従わなければ二度寝なぞもってのほか。

ならば今俺がするべきことは一つ。

不快の元となるものをさっさと排出してしまえばいいのだ。



———体の調子はなお悪い。

布団を嫌々ながらに捲ってみる。

俺のベッドは配置が悪かったか窓の下。隙間風が酷いの何の。

それゆえ先駆けて感じるものは冷え切ったこの部屋の冷淡な寒気。

羽毛布団の保温効果と隙間風の冷却効果のギャップが顕著に感じられるのがここまで歯痒いとは思わなかった。

あまりの冷え込みに神経が鋭敏になり、いや、実に目が冴える。

これが朝のすっきりとした目覚めなら正直に喜びもしたが、なんせ今は夜中。余計なお世話だ馬鹿野郎。

兎にも角にも今の俺には膀胱に徐々に溜まる不快感を早急に取り除く使命が科せられている。もとい課せられている。

しかし外気に当てられては尿意は促進される一方だ。

一刻も早くこの布団から脱出し、心憎い距離を歩いて部屋のドアを開け、真冬の階段を降りてすぐではない目的地に到達せねば。

唐突の目覚めでは体の機能が繋がるのは遅く、ましてや寝ぼけ頭ではろくな思考が出来ないものだ。

だから、普段では起こす事が困難な事態に見舞われる。

具体例を挙げると、落下。

それ以上は言わなくても分かってくれると思う。

したたかに打ち付けた尻の痛み。床に敷かれたカーペットが多少衝撃を和らげてくれたが、打ち所が悪かった。

だが、それで体も冴えたのは僥倖というかなんというか。

とりあえず目的の達成には近づけたのではないか。うむ、きっとそうだ。



————その目的はいたって単純。

数歩歩いて部屋のドアを開ける。

その先にある廊下は、異常なまでに冷え切っていた。

家も随分隙間風が酷くなったもんだ。

どこかの窓でも開けっ放しにしたのか、と疑問に感じたが、バカ、そんなことよりトイレだ。

使命感に駆り立てられ夜風吹き荒ぶ廊下に足を踏み出す。

俺の部屋にはカーペット。

廊下には当然何の敷物も無い。

まさかこんなところでもカーペットの加護を体感する事になるとは。

しかも、俺裸足。

そんなんじゃ木材の冷えっぷりに耐え切れる筈も無い。

寒気は尿意を促進させる。

生理現象というのは、とことんまで俺を苦しめたいらしい。

自身の限界を悟る。膀胱の決壊は既に目前。

ならば即座に決着を着けねばならない。寒さなど気にしていられるか。

足下の憂いは気合で絶つ。

あとは自身が持てる最高の速度で目的地に到達するのみ。

意を決して俺は疾走する。

俺の部屋から伸びる廊下をまっすぐに駆け、突き当りを右に。

その距離、俺の脚にして約五歩半。

目の前には一階へと繋がる魔の十三階段。

夜闇は視界を奪い、段差を確認する事もままならない。

照明。そう、照明さえあればこの程度の障害、何の問題も無かった。

しかし、その切り替えとなるスイッチは悲しいかな、俺の部屋の前にあるのだった。

判断を恨む。今から引き返しては大幅なタイムロス。

しかもこの寒気。あまり長居をしていてはこちらが先に参る。

危険か、辛抱か。決断は容易だった。

眼前の闇に勢い悪く飛び込む。

一段一段、しっかりと確認しながら慎重に。

手すりを命綱に、可能な限りの速さで確実に段差をこなす。

十三段、すべての段差を無事に乗り切った俺は、目的の場所へ目を向ける。



—————そして思考は緊急停止。

障害はすべて乗り越えた。

あとはトイレに入って膀胱の安寧を手に入れるだけだった。

トイレまでは一本道。

その途中には障害となるものなど一切無かった。

だが、今日に限って障害となり得る者が居た。

そう、日常では存在しない筈の者が、俺の前方に影が座り塞がっていた。

距離はそう離れてはいない。手を伸ばせば届く近さにそれは座っている。

視界の暗さではっきりとは視認出来ないが、その影は確かに女の子座りをしている。

座っている筈なのに、その影は俺よりも頭二つ分高い背丈を持っている。

いくら寒さに凍えているからといっても身をくの字に曲げてはいない。

単純に向こうとの体尺の比率がおかしいだけだ。

そう、おかしい。だから存在しない筈の障害だ。

それだけの大きさを持ったモノが、言葉を発するなんてあり得ない。ましてや、



「今晩は。あなたはこの星の人間ですか?」



なんて、いかにも宇宙人と遭遇したみたいな台詞を口にしたのだから。

















「今晩は。あなたはこの星の人間ですか?」

目の前に座り込む影が声を発する。

その声はとても澄んでいて、今まで聞いたどの声よりも美しかった。

正体不明の影、恐らくは女だろうが、とてもじゃないがこの世のものとは思えない。声も、背丈も。

恐怖は感じないが、その代わりに数え切れないほどの疑問符が浮かぶ。

まあでも、こういう時に最初に言う言葉は決まっているだろう。

その問いが何かの答えに繋がる事は稀だが、一応影に問うてみた。

「・・・・・・・だ、誰だ!」

宇宙人に誰だ、と言っても、宇宙人です、なんて答えが返ってくるとは思えないが。

「私(わたくし)、イプル・アージ・ティノ・ヘイリスと申します。以後、お見知りおきを」

返ってきたよ。しかもとってもご丁寧に。

宇宙人です、とは言わなかったが、一度では絶対に覚えきれないほど長ったらしい名前は教えてくれた。

「・・・あ、はい、こちらこそよろしく」

丁寧な挨拶にはきちんとするのが礼儀というものだろう。たとえ相手が宇宙人(仮定)でも。

・・・・・・じゃなくて、

「・・・・・・じゃなくて、いや、名前は聞いてないんだけど」

「私の正体ですか?別に怪しいものではありませんよ。私の正体は——」

その言葉、大抵怪しいやつが使う言葉なんだが。

まあ、それも置いといて。

名前以外を聞いてみただけなのに。誰も正体を吐けとは言ってないのだが、ここはあえてつっこむまい。

「私はこの星で言う、小惑星番号134340番を与えられた恒星、そこの住まうプルーティノ族の姫です」

「うむ。さっぱりだ」

「プルーティノ族をご存じない、と?」

「知らない」

「おかしいですね・・・・・・。地球では随分と名の知れた星であると大臣から仰せつかっていまいたが」

「どこの大臣だよ」

「ところであなたはいつまで身を隠しているつもりなのですか?」

ところでって、えらく唐突な話の切り替え方だな。しかも隠したくて隠してるわけじゃないぞ。

でも、姿が見えないまま話すってのもなんか気まずいな。

「ああ、すまん。今電気点ける」

左手で壁を手探り照明のスイッチを探し当てる。

「(電気点けなきゃ顔も分からんしな)」

今は影に覆われて姿が分からない。照明が点けば視認は容易だ。

それに、これだけ大きいものがどんな顔をしているのかも興味がある。

しかも彼女(予定)が言うには一国の姫(仮定)らしい。

異星の姫(仮定)が如何なる者か、この目で確かめてみようじゃないか。

探り当てた照明のスイッチを入れる。

パチッ、と天井に設置された蛍光灯が光を灯す。

蛍光灯から溢れた光は廊下を照らし、互いの姿も照らされた。

「・・・・・・う・・」

闇に慣れていた目に急に光が入ると反射的に光を避けてしまう。

左腕で目に入る光を遮り、少しずつ目を慣らしていく。

暗い場所に居過ぎた為か、少々時間がかかりそうだ。

「眩しいんですか?」

彼女(予定)が不思議そうに問いかけてくる。

「ああ。眩しい」

見栄なんて張る意味も無いので思った通りに答える。

彼女(予定)は

「私も眩しいです」

そうですか。それはよかった。

なんでわざわざ報告するのかはあえて聞かない。

「それにしても、地球人はこんなに小さいのですね。私の半分にも満たないなんて」

馬鹿にした言い方に聞こえるが、彼女(予定)は侮蔑も嘲りもなく、ただ感心しているようだった。

でも、俺達からだと

「あんたがでかいだけだと思うがね。・・・・・・さて、」

そろそろ目も慣れてきた。もう腕を退けてもいいだろう。

あとは自分の目で目の前の異星姫を直視するだけ。

楽しみではあるが、期待はあまりしていない。

なんせ異星ともなれば必ずしも感覚の違いが出てくる筈だ。

こっちでいう美が向こうでは醜であったり。

声は確かに美しいが、外見がそれに伴っているとも限らないのだ。

・・・・まあ、なんにせよこの目で確かめればいい話だが。

左腕を下げる。もったいぶっても面白くないのでパッと下げる。

視界に入るものは、彼女(暫定)の———巨乳。

これはなかなか、大したものじゃないか。

彼女(暫定)の大きさも理由の一つだが、俺の上半身を楽に包み込めるほどの巨大な胸。

これに挟められたらさぞ気分が好い事だろう。

次に、彼女(暫定)が着ている中央に毛玉のボタンがついた赤い服。

袖も丈もちょうどよく作られていて、無駄が一切無い構造をしている。

布の生地も毛に近い素材。ウールの類かと思うが、実に深みのある肌触りだ。

首元には鈴が掛けられ、鈴の両側には葉っぱがくっつけてある。

胸が苦しいのか胸元には穴が開けられており、そこから見える峡谷は異様な色気を放っていた。

気のせいか?どこかで見たことのある格好のような・・・・・・・

「・・・・・・・・・あの、いつまで私の胸を凝視するんです?」

「—————ハッ!」

イカン!俺としたことがつい見惚れてしまっていた!

しかもご丁寧に解説までしちゃって、なんたる不覚!

「クス・・・・地球の方も、やはり胸は大きい方が好きですのね」

彼女(暫定)が小さく笑う。

目の前で柔らかそうで巨大な胸がたぷん、と揺れる。

あまりの美しさに我を失っていた俺はすかさず自分にフォローを入れた。

「・・・・・いや、実にお美しい。これこそまさに究極の曲線美だ」

自分でも何言ってるのかよく分からなかったが、彼女(暫定)は

「ありがとうございます。私の胸を誇大評価してくれるなんて、とても嬉しいです」

「いやいや、礼には及ばんよ。それよりも日本語無理して使わなくてもいいぞ」

それを言うなら過大評価だ。

誇大評価なんて似てるようで言葉違う。全然違う。ていうか、そっちの方が難しいんじゃないか?

言葉自体はそれなりに流暢だから日本語を知らないという訳でもないらしい。

異星の者が日本語を知っているなんて矛盾している気もするが、実際こうして会話が成立している。

——なんて考えてると、

「——でも、胸だけ見てないで、私の顔もちゃんと見てください」

と、ちょっと怒りっぽく言われた。

考え事をしていても俺の視線は未だに胸。

・・・・・つうかさ、こんなに柔らかそうででっかいおっぱいがあったら普通は夢中になってしまうのが雄の性よのう。

しかし、夢中にさせる胸の割に合う顔なのかどうかはまだ確認していない。

いい加減もったいぶるのもやめようか。このままじゃ埒があかん。

と、いう訳で

「はははっ・・・・悪い悪い・・・」

やっと顔を拝もうと視線を上に上げた瞬間、

「———————」

俺の脳内に、この人生の中でも最大にして後生二度と訪れないであろうほどの電流が迸った。

俺の観念として持っていた美的センスは、砂上の楼閣の様に脆く崩れ去っていく。

絶世の美女ではまだ足りぬ。

彼女のその美貌は、この世に比ぶる者無きと称したい。

俺の持てる知識をかき集めても彼女を説明するのは事も足りない。

表現できる範囲では、そこに心すらも吸い込まれてしまいそうな大きな双眸。

黄金律かと思われるほどに的確な位置と高さを誇るすべらかな鼻。

艶かしくもあり、触れるだけで蕩けてしまいそうなほどの桃色の唇。

大人の艶やかさと子どもの純粋さを併せ持ったかのような顔立ち。

さらさらと穏やかに流れる水のように透き通った蒼緑の長髪。

そして、その総てが完璧なまでに調和されて構成された姫の笑顔は、俺の心を激しく撃ち立てた。

これほどの美がこの世界に有って良いものなのか。

俺は今、現実を否定させてくれる美を目の当たりにして、ただ只管に感動を繰り返していた。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

俺と彼女の間の時間が停止する。

俺は彼女の美に固定され、彼女は俺の視線に固定されている。

見つめあったまま、数秒が過ぎた。

視線は違えど、またも彼女を凝視している事に気付いた俺は何か言おうとして口を動かした。

「あ」「あの」

見事なまでに声が被る。俺の吃音と彼女の問いが重なる。

互いに虚を突かれたため、出しかけた言葉を寸でのところで引っ込める。

で、パターンとしてはお互いが譲り合ってどっちが先に言うか決める、ってのがお約束だが

「・・・・あの、私の顔が何か?」

彼女はそんなのまるで気にしてないかのように話を続けてきた。

私の顔が何か?って、もうちょっとましな聞き方できないのか・・・・?

せめて、——私の顔に何か付いてます?ぐらいでもいいと思うのだが。

「地球の方は異星の人間を凝視するのが趣味なんですか?」

お約束もへったくれもなく質問を投げかけてくる。

地球の人間が凝視好きだなんてそんなことは無い。

美しいものには目を引かれるのは人としての常識だし、・・・・・まあ、・・・・・俺も、男だし?

しかし、これで彼女の地球人のイメージは定着してしまったんではなかろうか。

・・・・・・だからといって修正する気も無いが。

「ああ・・・でも、」

そんな約束事を気にしている間に、彼女はいきなり両手で顔を隠して

「初対面の方からまじまじと見つめられるなんて、不快なくらいにこっぱずかしいですね」

なにやら上げ調子で、さらにご機嫌なご様子の彼女。

どうやら素直に喜んでいるようにも見えるが、その物言いは明らかにおかしい。

言動と行動が一致していないと思うのは俺だけか。

さっきから若干と言わず、かなり日本語をミスしている姫。

そこはやはり異星の者故なのか。

意味は解らないでもないレベルの間違いなのでどう突っ込んでいいのかよくわからん。

こういうときはスルーするのに限るのかもしれんな。

「そ、そうか、それはよかった。嬉しく思われて何よりだ」

先程の硬直を持ち直してから、改めて彼女を見る。

彼女は相変わらず、両手で顔を覆いながら、やーんやーん、と首を左右に振っている。

「・・・・・・・・・・・」

・・・・・・・世代の違いか?

歴史の隔たりを感じるリアクションに何か享受し難いものを覚える。

同時に、なんかもう、諦めみたいなものも覚え始める。

向こうを野放しにしてたら話が飛躍してきそうな気がしてきたので、こっちから仕掛けてみることにした。

「ところで姫?」

話の切り替えが急だと思うのは俺も同じだ。なにがところでなのかは知らん。

「あんたが異星人だって事は分かったけど、他にも聞きたい事が・・・・・・・・・・・・・」

そこまで言って、ガックリと肩を落とす。

俺が話しかけているというのに、姫は一向に見向きもしない。

さっきからその巨体をやんやんやんやん、揺らしているだけ。

たまに覆った手の隙間から目をちらっ、とこちらに向けるが、またすぐにぱっ、と目を隠す。

ちらっ、ぱっ

ちらっ、ぱっ

ちらっ、ぱっ

ちらっ、ぱっ

ちらっ、ぱっ

頻度は五秒に五回。見てるとこちらが酔ってきそうな往復運動。

姫がその状態から回復したのは、ちらっ、ぱっ、を524回繰り返した後のことだった。









その途中で気付いた。

———ああ、そうか。

姫の服装、変な違和感があると思ったらそういう事ね。

服装よりも他の部分が魅力的だったからつい注意が逸れていた。

何を思ってその服をチョイスしたのかは分からんが、どうりで見覚えがある筈だ。



アレ、サンタクロースの服だ。





























「・・・・・なるほどな・・・・」

「理解してくれましたか?」

あれからやっと持ち直してくれた姫から俺は事情を詳しく聞いていた。

(流石に524回もあの往復運動を見守るのはかなり堪えたが、多くは語るまい。語りたくない)

「コニシさんが物分りいい人で良かったです」

「少なくとも話の飛びっぷりはよく分かった。あと、ティノの軽薄さも」

コニシというのは俺の苗字の事だ。漢字は小西。変換しなくても分かるとは思うが一応伝えておく。

なんでカタカナ表記かというと、ティノの発音のアクセントがおかしいからだ。

ちなみにティノっていうのは姫の名前だ。あんな長い名前覚えられる訳ないしな。

でも、ティノって呼んでください、って言われて押し切られたなんて言いたくはな

ゴホッ!

「コニシ」は本来は「コ」が強調される。コニシ、と発音するのが日本流だ。多分。

だが、ティノの発音だと「コ」と「シ」が強調されやすい。コニシ、こんな感じか。

例えて言うなら、あの関取(相撲は詳しくないのだよ)の「コニシキ」の発音とほぼ同じ。そこから「キ」を抜き取るだけ。

と、まあ、そんな感じで名前のやり取りが可能になったわけだ。なんらメリットは無いが。

「それなら、もう二度と説明しなくてもいいんですね、コニシさん」

頭上に圧し掛かる柔らかな厚み。

そのせいで首が動かせないが、心地は良いのでよしとしよう。

「大体の事情は把握したかもしれないからな。あんなに長い話続けるとティノの方が疲れるだろ」

ぎゅ、と足を伸ばして座っていた俺の下半身が左右の肉に挟まれる。

体温と同じ温度を持つそれは、説明している最中にも何度か同じ行動をとった。

「私はお望みとあらばもう一度説明し直しても良いですけど?」

視界の左右から腕が現れ、俺の体を背もたれに押し付ける。

背もたれにはウール越しに感じる人肌の温かさがあり、かつ適度な反発力も併合している。

周期的に膨らんだりへこんだりを繰り返し、もたれ掛かっている俺の体もその度に浮き沈みする。

「正直な話、もう一回あの長ったらしい説明を聞くとなると気が滅入るだけなんだけどな」



————できるだけ簡潔に説明しよう。

ティノの一族が生息する惑星は、地球で言う冥王星にあたるらしい。

プルーティノ、という単語は冥王星を表す単語だともいう。

冥王星は他の惑星から居場所をなくして流れ着いた異民族が肩を寄せ合って暮らしている。

流れ者が集まるだけに、思想の違いなどがありそうだが長閑で良い星だという。

遥か昔、詳しい年代は教えてくれなかった(きっと知らないんだろう)が、初めに冥王星に流れ着いた者達が冥王星の土地を気に入り、開拓を創めて現在の環境の素を築き上げたそうだ。

当時は誰の手も入っていなかったため、開拓は困難を極めたそうだが、異星の者の科学技術の支援が大きな手助けになった。

そして、その技術力を提供した者達が冥王星の多民族社会の中心になった。

彼らはティノの先祖にあたり、ティノが自分を姫と呼んでいたのも先祖の血統を受け継いでいるから、だそうだ。

実際には姫といっても象徴的な存在だけで、生活の水準は一般人と変わらないらしい。

聞けば、地球よりも多少科学力が進歩しているようなのだが、ティノの言い方から察するに、こちらに比べればかなり突出した科学力を有しているようだ。恐らくはドラ○もんくらいのロボットは製造可能なんではなかろうか。

地球側が冥王星を研究しているのも偵察機(勝手な解釈だが)が衛星軌道に乗っている事から判明したとか。

別に、だからといって何かをするわけでもなし、観察したいなら好きにさせればいい、とあんまり気にしてなかった様子。

ちなみに、去年冥王星が惑星から降格された、が、それを告げるとティノが大仰に嘆いていた。

と、こんな感じでいかにも将来安泰な惑星のようなのだが、最近問題が生じているらしい。

それは、巨大隕石の衝突。地球でいう彗星の衝突に近いものらしいが。

その規模はかなり多大で、冥王星の科学力を以ってしても回避は困難で、プルーティノ族は総力を結集して一族の叡智を尽くして解決策を模索しているらしい。

中には、より有力な手掛かりを求めて、他の星へ旅立つ者もいるそうだ。

ティノは唇を(かなり強く)噛んで、私達だけではどうにもならなかったのです、とやや哀しげに語った。

なら、ティノも地球に手掛かりを求めてきたのか。文明の発達は遅れているが、彗星の研究くらいはしているから何か役に立つ情報でもあるのかもしれない。

と、そう考えたのだが、事もあろうにこんな発言しやがった。

「私、星と心中する気はありません。そのような義理も無いですし、脱出装置で一足速く退散させていただきました」

酷い話だと思うよ。しかも、

「「使えぬものは切り捨てる」。プルーティノ族の教えですよ」

なんて変な格言も教えてくれるしさ。

肩を寄せ合って生きているというのも、怪しげに思えてきたよ。さらに、

「命に関われば話は別ですよ。自業自得です」

自業自得はお前に降るべき罰ではなかろうか?極めつけは、

「それに、その危機も百年前の出来事ですから、もうとっくに手遅れでしょうね」

もうつっこむのはやめにしようかな。

何が本当で、何が嘘なのかもうまったくもって理解不能。

正直、後半の話はティノの妄想か何かなんじゃないんだろうか。

根も葉もない危機聞かされても俺にはどうすることも出来ん。



と、以上がティノが話してくれた複雑な経緯だ。だからと言ってどうもする気は無いが。







「・・・・・・・・・で、いつまでこのままの状態でいるつもりだ?」

もう一度、頭上に圧し掛かる圧力。

視界の前方にはカーテンを掛けたように垂れ下がる蒼緑の髪。

「私にしたら、この体勢のままもうしばらくいたいんですけどね」

「ていうか、なんで俺こんなところにいるんだ。どうせやるなら廊下じゃなくて部屋の中でもいいだろうに」

「だって、お尻がヒンヤリして気持ちいいですしね」

「ですしね、って、俺は尻が冷えてきてるんだが・・・・・」

「でも暖かくないんですか?」

「・・・まあ、尻以外はこうやって温められてるわけなんだが・・・・もう少しマシな方法はないのか」

気付いている人がいるかもどうか分からんが、現段階での俺の状態は、

「いいじゃないですか。コニシさんと同じサイズでしたらろくに出来もしない事ですよ」

ティノが両足を開いて座り、その股の空間に、俺ほとんど同じ体勢で見事に納まっている。

「・・・たしかにお前のサイズあってこそ出来るものだとは思うが・・・・」

これ、絶対人には見せたくない格好だな。

なんつうか、俺、今、ちっちゃい子が遊ぶお人形さんっぽくなっているんではないか?

それに、ティノみたいに胸がでかいと頭に感じる感触と重さに戸惑う。ていうか、重い。

・・・・・なんて、考えてると、

「ティノ、って呼んでください」

さらに重く圧し掛かる柔軟な胸の圧力。

俺の首がゴキリ、と嫌な音を立てたのは、きっとティノには分かるまい。

「・・・分かった。分かったからそれをどけてくれ、ティノ」

「ところで」

またも唐突に。

だから、話の展開が読めないのは勘弁して欲しいんだが。

そんな心配は伝わらないとは分かっているものの、一応残念に思っておく。

「まだ、私が地球に来た目的を話してませんでしたよね?」

聞かれても困るが。

「冥王星から逃げてきたんじゃないのか」

役に立たない仲間を切り捨てて。

「それもありますけど、ちゃんとした目的も持ってるんですよ?」

だから、聞かれても困るが。

「・・・・・というと?」

「それはですね・・・・・・・・」

俺を腹に押し付けていた両手が俺の両肩を掴む。

「いで」

加減を知らないのか、握る力はかなり強い。強いが、そこまで痛くはない。

せいぜい、肩の骨がゴキリとずれたような感覚がしたくらいだ。でもやっぱり声は出る。

ティノは俺の両肩を掴んだまま、自分の体から離す。

頭上の物体はまだ頭に乗っている。

そのまま前へ移動されれば、

「いででで」

首が大きく後ろに傾くのは容易に予想できたのではないか。

首筋がおかしくなりそうだ。

そんなことは一切注意せず、遠慮容赦なしにティノは続ける。

頭上の圧力から解放され、その反動で首が前へかなりの勢いでもたげる。

本日何度目かの嫌な音をまた聞いた。

続いて、ティノの左手が俺の左肩から離れる。俺を支える重心がすれて体が左に傾く。

その分、支えとなる右手右肩に力が入り、またも嫌音(以後省略)。

ティノの左手は俺の背を旋回して右手の下に添えられ、ちょうど、脇の辺りを掴まれる。若干くすぐったい。

俺の肩を掴んでいる右手は肩を離れ、今度も俺の背を通って左肩へ。そして、右と同じように脇を掴む。

手の位置が逆転する。その過程で重心をティノの手に預けている俺の位置も変えられる。

最初はティノに背を向けた状態で掴まれていたが、今はそれより反時計回りに約四十五度ほど視線がずれている。

そしてそのまま、ぐるん、と同じ方向に回転させられる。

「うぇ」

勢いが強かったからか、わずかに脳が揺れたからか、なんか気持ちが悪くなった。

しかしなるほど、ティノは俺を反転させたかったのか。

やり方は相当荒かったが、ティノに背を向けていた状態からティノと向き合う状態に反転。

調子が悪くて痛む首を持ち上げてみれば、これまた何とも言えぬほどの喜を誇る笑みを浮かべているではないか。

・・・・・・・・・・・可愛いと思うぞ、俺は。

「私が地球に来た理由は、」

そんなに可愛い顔してるのに、性格の方に難があるのが口惜しい。

きっとティノの目的ってのも・・・・・

「地球人の方とスキン湿布をとる為です!」

言うと同時にティノは俺を頭から巨大な柔肉にめり込ませる。

「っぷ!」

頭のみならず、肩までティノの胸に押し込まれていく。

気持ちいいのは確かだが、息が出来なくて苦しいのも確かだ。

俺は自分の持てる力を出し切るつもりで危機を脱しようとしたが、

「————ぷ!」

あんまり、効果の程は見られなかった。が、ティノの胸の谷間にできた隙間は見つけられた。

なんとかその隙間に頭を滑り込ませて空気を確保する。

体温に暖められた周囲の空気はむっ、としていて新鮮な酸素を吸えるというわけではなさそうだが。

それでも空気である事に変わりは無い。

しかし、ティノの本当の目的が地球人とのスキンシップ?

なんだ、普通じゃないか。もっとなんかこう・・・・・・意外性のある目的があるのかと思ってたが。

「そういうわけなので、私に地球人との交流の仕方を教えてくださいな」

「ああ、教えたいのは山々だが、いかんせんこの体勢ではそれも厳しい」

柔肉に包まれたまま、くぐもった声を絞り出す。

恐らくは、ティノの肉に吸収される部分が大多数だろうが、それでも声は聞こえたようだ。

「胃感染?私のお腹に何か?」

・・・・・・・・・・・・・このやろう。そんなところでアクセントの違い意識するな。

「う〜ん、なんだか随分と声が聞き取り難いです。もうちょっとはっきり喋ってくれませんか?」

いかんせん、って聞き取れたんなら声も十分通ってるんじゃないか、とは思うが一応警告はしておこう。

「うむ。だったらせめて俺を胸に押し付けるのやめてくれないか?」

先程よりも声を大きく張り上げるつもりで絞り出す。

肺に入る空気の少なさのせいか、それともティノの胸肉の吸収率が良すぎるのか、ティノの耳に届いたかどうかは分からない。

ほとんど懇願にも近い俺の応答をティノはどう聞き取ったのか。

「・・・・えっと・・?せまくてこれを胸に押し付けてくれないか?ですか?」

————ほぉう。やってくれるではないか。

そんな都合良く抜粋できるほど聞こえていましたか?

「私の大きい胸、そんなに気に入ったんですか?それなら、お言葉に甘えさせてあげますよ」

俺の背中を押さえつけるティノの両腕に力が篭もる。

肩までだった柔肉の感触が、ティノの引き付ける圧力によって背中を包む。

上半身すべてが人肌よりも暖かい温もりを持つ肉に包まれ、先駆けて胸の中にあった俺の顔は、ティノの胸骨に押し付けられる。

骨といっても、実際にはティノの巨大な胸の余剰脂肪(失礼)で硬いとは言えない。

「〜〜〜〜っ・・・」

ぎゅうぎゅうと情け容赦なく俺の背骨もろともを締め付けてくるティノ。

いい加減数える気にもならないが例の音が聞こえる。

——今日はなにか?寝起きに良いマッサージでも体験せねばならん日なのか?

世辞にも体に効果的とは思えないが、こうまで骨の鳴る日は今まで無かった。

・・・最近運動してないから、骨も鈍ってたりするのかもな。



———————なんて、現実の苦しみから思考だけでも逃れようとしていると

ぐぅぅ〜〜〜・・・・っ

地鳴りにも近い重低音が響いてきた。

「!」「?」

突然の不可思擬音に俺の精神は現実に引き戻される。

現実には戻ったが、この音の発生源は特定できない。

音自体はかなりの大きさだったが、音の反響と肉体の吸収によって方向を掴むには至らない。

ただ、音が聞こえると同時にティノの肌がかすかに振動したような気がする。

「何の音だ?」

声が聞こえにくい状況だった事を忘れてティノに聞いてみる。

顔に向けて声を送るのではなく、肌に向けて声を発している状態になるが、何、気にする事は無い。

「・・・・・・・・聞こえました?」

さっきまでのテンションは何処に消え失せたのか、幾分小声で反応が返ってくる。

「———どうした?」

声がさっきとはうって変わっていることが気になり、聞き返してみる。

「—————っ」

「うおっ」

返答の前に、これ以上無いほどきつく抱き締められる。

のめり込んだ俺の体は完全にティノの体に密着する形になる。

「ちょ、何を・・・・・」

いきなりのきっつい抱擁に戸惑っていると、

「————っ・・・・我慢っ・・・・できません・・・・・・っ!」

我慢?一体何の・・・・・・

苦しそうなティノの喘ぎに疑問を感じると、

ぐるるぅぅ〜〜〜・・・・・・・

また同じ地響きのような音が伝わってくる。

しかも、今度は相当長く続いている。

「がま・・・・・ん・・・・・・・?」

言っている途中、ティノの肌が、正確にはティノの腹部を中心にして、音と同調して振動が起こっていると気付いた。

「・・・・・・・もしや」

左右の圧力に抗って、腕を動かす。

辛うじて圧力から逃れた左腕をティノの腹部に置く。

「・・・・・やっ」

ピクン、とティノの体が跳ねたような気がしたがそれより前に、俺はティノの内部の異常を発見していた。

腹部に当てた左手。肉を隔てた先にある内臓器官。

地鳴りにも思える低音の発生源。誰もが一度は経験があるであろう生理現象(なのか?)。

「・・・・・やめてください・・・・私のお腹・・触らないでぇ・・・・・。・・・・また・・・」

きゅるるぅぅ・・・・・

「・・・・・・やだぁ・・・っ」

「————あ・・・悪い・・・」

切なげなティノの声に罪悪感が沸き咄嗟に手を離す。

「・・・ふぅ・ぅ・・・・・」

力を入れているのか、ティノの腹はぴくぴくと震えている。

「・・・・ティノ・・・これって」

「ぃ・・・・言わないでくださいぃ・・・・」

確証を得た答えを確認しようとしてみるが、困り果てたような声で否定される。

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

妙な空気が辺りを包む。

ティノは俺を胸に挟んだまま、まだ腹部の不快音を堪えている。

俺は、非常にリアクションし難い状況に置かれ、何も言い出せない。

———腹の音を聞かれるのが、そんなに恥ずかしいのか?

———ティノだけじゃなくて、普通の女の人も腹の音聞かれるの嫌なのか?

だとすれば、今下手にフォローをかけても逆効果なんではないか。

ここは、おとなしく空気に従ったほうがいいのかも知れぬ。

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

そのまま、互いに何の行動も起こさないまま、俺とティノはひたすら口を閉ざしていた。













その後に気付いたが、ティノと一般の女性を比べても何ら意味が無い。

常識で量るには少々荷が重い相手だ。

たぶん、プルーティノ族の女性がそういう感情を持っているのだろう。

うむ、きっとそうだ。













それから約十分後。

俺とティノは居間に移動した。ティノの体の大きさだと居間へ繋がるドアを潜るのに苦労はしたが、なんとかなった。

時は夜中。当然電気は点けている。ただ、部屋の中は大きな影に覆われており、光の届く範囲は少ない。

冷え切っていた台所は、俺の後ろにいる空腹の姫の体温により多少なり空気が温められたせいか、廊下ほど寒くは無い。

「突然の訪問だというのに、ご馳走してくれるだなんて、地球の方はなんて親切なのでしょう!」

「そうかいそうかい。お役に立てて大変光栄です事」

先程の羞恥心はなんのその、すっかり元のテンションにもどったティノの腹を満たす羽目になった俺。

まあ、なんでこうなったかというと、成り行きってやつだな。

「ところで、なにかご所望の料理はあるのか?」

視線を上げる。





俺の家の居間で足を曲げてうつ伏せになっているティノ。

床に立てた両肘、その両手で頬を押さえて微笑みながら小さな俺の様子を見下ろしている。

ティノの頭はその状態ですでに天井に届いていて、垂れた長い蒼緑の髪は床に広がり、ティノの周囲を覆う草原のようだ。

豊満すぎるあの巨乳はティノの自重でひしゃげた形になり、左右均等になだらかに押し広がっている。

ティノの服、サンタクロースを意識したあの服はすでに破り千切れていて、今はもうその残骸が肩に寂しく残っている程度だ。

ほとんど、むしろ全裸だが、何、気にする事は無い。



しかし、なぜに食事の為に巨大化する必要があるのだ?

いや、そもそも、あの大きさからさらに巨大化できるなんて。

どうやったのかはまったくわからん。気が付けば俺の後ろでティノはこんなになっていた。

原理も行動も理解できない。

どうやらとことんまでに、イプル・アージ・ティノ・ヘイリスという女性は俺の思考を遥かに凌駕している様ですな。







「異星の者を口にするのは初めてですから」

柔らかでいて弾力のある紅唇を濡れそぼった舌がなめずる。

食欲が旺盛なのか、気が早いのか。まだ何にも用意してないのに如何にもなアピールをする。

まあ、逆光でほとんど見えないんだが。



と、

「あ、涎が」

ぷっ。



あまりの不意打ちに判断が・・・・・・遅れた。



びちゃ。

「———!」

ティノが唇を(多分)窄めたと思うと何か生暖かくて粘り気のある液体が俺の下半身に被弾した。

「—————」

付着した液体を拭う。

ねっとりとしたそれは糸を引き、だらりと俺の手から力無く流れていく。

液体からは白く蒸気が上がり、それには臭気も含まれていた。悪い臭いではない。

不快ではないが、快くも無い。

パジャマの繊維は水分を良く通す。それが粘性の液体だとしても例外ではない。

繊維に温液体が浸透し、体温の名残が俺の肌を温める。

部屋はそれなりに冷えていたが、嬉しくは、無い。



「ごめんなさい。あまりにおいしそうだった者で、思わず涎が垂れてしまいました」

悪びれる様子もなく、いや、そもそもこの行為が悪いものだとは理解していないからこそ、ティノは見当違いの謝罪をした。

ティノと出会った当初なら文句の一つでも言ってやろうとしただろうが、ティノの性格を知ればそんな期待はしない。

年下の女の子が味噌汁をこぼしたのと同じようなものだ、と、そう言い聞かせながら逆光の笑顔を見る。

「ああ、別にパジャマは何着もあるしいくらでも替えは利く。だったらいくら汚れようが変わらんしな」

皮肉を込めて呟く。ティノには皮肉も通じないことは百も承知だが、これ位は言わずにはいられない。

「そうですか?私は地球の繊維技術にも興味がありますし、着地のままでも構いませんよ?」

何を言ってるのか良くわからんが。

「お前が興味あるのはさて置いて、」

むぎゅ。

「ぬぁ」

言葉の途中で二本の指が俺の頬をつまむ。

頬というより、頭蓋骨の側面といった方が範囲的には正しいか。

つまむといってもこれだけのサイズの違いがあると相対的に力の強弱も加減が分からないらしい。

現に、ティノは俺を相当な力で挟んでいる。肉よりは頬の骨を挟んでいるような強さと痛さ。

頬肉が中央に寄せられ、口はおちょぼ口状態。

まっことに滑稽なものであろうが、ティノは何も気に咎めない。

「ふぉっほひはらはふほふひはひはひは?」

ちょっと力が強すぎやしないか?——と言いたかったのだがうまく発音が出来なかった。全部は行でしたねぇ。

そう言っても依然ティノはつまむ力を緩めない。いや、そもそも俺の意図はまったく伝わってないだろうが。

———そろそろ頬が痛くなってきたぞ。

無駄だという事は承知しているが、一応もう一回は行の発音でもしてみるかな?

と、そう思っておちょぼを動かそうとした時、

「何度言ったら分かるんですか?」

ティノの顔がぐっと近寄ってきた。

「っぉ」

思わず言葉を飲んだため妙な発音になったのは内緒だ。

少し近づけ過ぎやしないか、と思うほど顔を寄せるティノ。これぞ正しく目と鼻の先。

ティノの顔面、正確にはティノの鼻先が俺の胸に押し付けられる。

胸が圧迫されるほど押し付けてはいないものの、鼻骨が当たってちょっと痛い。

ふんっ、と一息鼻息を鳴らすティノ。鼻息がパジャマに染み込んだ唾液に触れて冷やされる。冷たい。

俺の視線はちょうどティノの両目の間、眉間に留まっている状態。両サイドにある大きな瞳も辛うじて視認できる。

眉間に寄せた僅かな皺と、吐いた鼻息によって、ティノは表情を変えたと思われる。

———恐らくは怒っているのだろう。

——そして、なぜティノが怒っているのか。

少し、考えたが理由はすぐに思いついた。

「ティノ、って呼んでください!」

そう、名指しで呼ぶという事。

やはり怒った声で、俺に厳しく言いつけてくる。

なぜティノが名指しの拘るのかは分からない。二人称で呼ばれるのが嫌いなのか、純粋に名前で呼んで欲しいのか。

答えを見なさそうな問題だが、現在の俺に迫っている頭蓋の危機。それを回避するためには、逆らう、という選択肢は不要だ。

・・・・・断じて、流されている訳ではないからな?そのあたり、勘違いしないように。

「わかった。わかったから指を退けろ指を」

言葉はは行の発音になっていたが、それではわかり難かろう。気を利かせて俺の言いたい事を先に出したよ。

ま、結局ティノに通じるわけでも無し、何とか首を縦に振ったり指にタップしたり、なんていうジェスチャーで意思を伝える。

少々の間があったが、俺の意図を理解したのか、ティノはやっと指の力を緩めてくれた。つままれていた感触が残ってはいるが。

ジェスチャー、っていう概念を生み出した人は偉大だな、と、つくづく思ったよ。

「・・・・・・レディーに対してお前、だなんて、笑止千万ですね。次にやったら怒りますよ?」

怒りはまだ収まっていないのか。

先程とあまり変わらない口調だったが、頭蓋の危機を今し方乗り越えたばかりの俺には気にする余裕も無かった。

———いや、あるにはあったが、それはまあ置いといて。

万力から解放されて一息つく。ついでに一歩後ろに退いてみる。と、流し台に尻が軽く激突する。

ここの台所はそんなに広くはない。

ティノがここ一帯のスペースを覆い尽くしているために俺が移動できる範囲はごくわずかなものに限られてしまう。

だが、移動できる範囲は限られていたとしても、まだ有効利用できるスペースが俺には残されている。

例えば、流し台に腰掛ける、とか、シンクに入る、だとか、そんな感じで(ティノと比べて)小さな俺にはそういう事が出来る。

ここはとりあえず、前者を選ぶ。

軽く跳躍してシンクの端に尻を乗せ、ようとした。

ゴツッ

・・・・・・・・・跳躍の頂点で頭上の棚の角に後頭部が激しく激突したが、何、気にする事は———

「——い、て・・・」

気にする事はあるんだよ。痛いんだよ。人間の頭は痛覚に敏感だから痛いんだよ。

シンクに座ったまま後頭部を両手で押さえる。

ぶつけた部分を指で探ってみると、ちょっと違和感があった。たんこぶでも出来たのだろうか。

「いて!」

新たな痛みが鋭敏に走り、その反射で目が閉じる。

触って後悔。触らぬ神に祟り無し、ってか?

「同化しましたか?」

痛みに呻いていると、ティノが声をかけてくる。

「どうかしましたか、って見りゃわかるだろ。頭ぶつけたんだよ、頭。・・・・ってぇ〜・・・」

「痛いんですか?」

「見りゃわかるだろ、痛がってるだろどう見ても」

「いえ、見えませんよ。ちょうどコニシさんの姿が棚で隠れて、私からはコニシさんが見えません」

淡々と、激痛に耐える俺を余所に逐一報告してくるティノ。

そう言われて、視線を上げる。

視界の半分を遮るのは、茶色の棚の底の部分と、逆光で暗く見える白い肌と綺麗な形をした鼻孔。

「・・・・・あ、そう・・・・」

確認して、ティノから見えていないと気付くと、大げさに痛がってる自分がなんか恥ずかしくなる。

別に痛みをアピールしたかったわけじゃないのだが、自分一人でこんなことやってると馬鹿らしくなってきた。

そう、気持ちが入れ替わると不思議と痛みが軽くなったような気がした。

「なんだかな・・・・・・・・」

自分に溜め息をつきながらシンクの端から尻を降ろす。

着地時の衝撃が僅かに痛みに響いたが、気にするほどでもなかった。

「痛いんですか?」

上から声が降ってくる。再び上を向くとティノが天井からこちらを見下ろしている。

心配そうな顔をしているのは逆光で分からなかった。

「いや、実の所大した事なかったかもしれん」

後頭部を擦る。どこか出っ張っているような感覚があったが、触れた時の痛みはさっきほどじゃない。

「痛みを忍耐するのは体に良くないですよ?」

別に耐えているわけじゃないのだが。

「・・・・・・まだちょっと痛いが、そんなにヒーヒー言うほどでもないんだよ」

後頭部から手を離してティノを見ながらそう言うと、なぜかティノは口をつぐんだ。

直後、ティノの両腕が俺のすぐ横を通り過ぎる。

思わず声を上げてしまったが、言葉にはなっていなかった。

持ち上がった両腕は、右手がティノの顎にあてがわれ、腕が垂直になりその肘を左手が下から支えている。

・・・・・・・考えるときのポーズのようだな。

———実際の思考時間は相当に短かったが。

「あのですね・・・・」

思考を終えたティノの右手が降りてきて、親指と人差し指で両脇を拘束される。

「おおっ」

摘まれて、驚嘆と歓喜が混じる。

いきなりの行動に驚いたのだが、ティノにしては珍しく、力の加減がなっていた。

俺を摘んだ指はそのまま真上に上昇していく。ただ、こちらの力加減がなっていなかったのが恨めしい。

さながら逆バンジージャンプ並みの加速と停止。

無論、脳震盪を起こしかけたのは言うまでも無い。

途端に気分が悪くなった俺は吐き気と共に目を閉じる。

なまじ喜んでしまったがために、随分裏切られたような気持ちにもなってしまった。

ひたすらに体調に悪影響を来している俺に構わず、ティノが口を開く。

「痛いんだったら、私が直してあげましょうか?」

治せるのなら、ありがたい申し出だな。あと、数秒早く言ってくれたらの話だが。

「ちょっと濡れたりもしますが、傷を癒すにはこの方法が手っ取り早いですから」

何に濡れるのかは分からんが、そんなに手早い治癒法なんてあるのか、と問いたいが口が開かない。

——どちらかと言えば、後頭部の痛みより

「ああ、でも、痛みは伴いませんから安心してください。ただ、ちょっと黒デスクかもしれませんが」

——グロテスクでもいいから、この気分の不調を癒す方法を

「そんなことより、私、もうお腹が空き空きなんですよ」

——実行してくれ方が———っ!?





ぱっくんっ

唐突に、首がやけにぷにぷにした弾力の柔らかいモノに挟まれる。

挟まれると同時に俺の視界が黒くなる。

——目は閉じていたのだが、それでも判別できる明確な違い。

驚きで目を開いたが、視界が黒い事に変化が無かった。

反射的に息が吸われる。が、その空気は冷却された家の居間の冷気ではなく、まったくの真逆の性質の空気だった。

「・・・・・・・!」

不意の変化に体が硬直する。

が、

びちゃり

直後の新たな異変に、肩が痙攣にも近い動きをする。

何か、熱い粘性の液体が俺の後頭部に直撃した。

それは分かる。だが、その液体の正体が掴めない。

ついさっき、まったく同じものを身に受けたような気がしたが、今の思考回路はそこまでの記憶に繋がらない。

混乱している内に、その液体が後頭部から流れ落ちて頬から口に流れ込む。

「・・・・・・・?」

————甘い。

ただ、それだけが脳裏を霞めた。

視界の向こう側、俺の頭が納められている空間の奥で、何かが動いたのだが、混乱状態の今では何の反応もできなかった。

べろんっ

未知の感覚が俺を嘗める。

ねっとりとした水に濡れたクッションのようなものが顎から額にかけてまとわりつく。

クッションには今しがた浴びせられた液体と同じものが塗られ、顔の前面を余す事無く塗り上げていく。

呼吸がクッションに遮られ、口に入った異液も手伝い、息が詰まった俺はたまらず咳き込む。

口を押さえようと反射的に動いた右腕が、柔らかい何かに阻まれた。

押さえも無く咳き込んでいるうちに濡れたものが今度は後頭部に這いずりながら移動する。

「ッ!」

痛覚が敏感に反応する。

先の負傷、その傷口が舐め上げられている。いや、舐めるというより、擦るという表現の方が正しいかもしれない。

後頭部全体を頂上から頸までの軌道で擦り上げた後、今度はまた同じ軌道を遡る、そしてまた、頂上から、という繰り返しだ。

傷口に俺の髪ごと何かを塗りたくるその力は、強く、粗い。

粗雑に繰り返される反復運動は傷に響く。

それが幸となったのか、俺のぼやけていた意識は回復に向かった。

意識が鮮明になった事で、無意識的に事態を把握しようと俺の脳は活性化する。

その間にも、反復運動は止まらずに傷の前後左右を往復している。

まずは、その不可思議な物体の正体を突き止めようとした。

———が、その瞬間に強い吸引力が働き、体が前方に引き寄せられた。

ちゅるん

首にあった感触が肩を越えて腰へ移動する。次いで、両腕が弾力のあるものに拘束される。

「———何だよ、これ・・・・!」

口には出さずに、心の中で叫ぶ。

多少なり外に掠れた声が漏れたようだが、今の状況下では言葉にすらなっていなかった。

口を開いたが為に、先程から俺の顔面に纏わり付いている液体が口内に流れ込む。

——反射的に、手が動いた。いや、動かせた。

またも息が詰まった俺は咳をしかけたのだが、今度は何かに阻まれていた筈の右腕が俺の意思に従ってくれていた。

そこまでは頭で理解したようだが、だからといってこの状況を打破する考えには至らない。

むしろ、動かなかった筈の腕が自由を取り戻した事でまた新たな疑問点が増えただけだった。

「・・・・俺、今、どうなってるんだ・・・・・・・・?」

ただ混乱を増していく中で、手のひらで顔に塗られた液体を乱暴に拭いながら心の内で呟く。

気が付けば、後頭部にあった筈の感触が俺の体の前面に移動している。

胸、腹、腰、そして、

「———爪先?」

俺の前面全体が感じる濡れたもの。

柔らかい何かに挟まれている腰を境に、そこから下の部分はこことは違う冷気を受けている筈だ。

なのに、肌に沁みる冷気は変わらぬまま、熱く湿ったクッションが俺の爪先まで伸びている。

—————パジャマの繊維は水分を良く通す。それが粘性の液体だとしても例外ではない。

パジャマの下着がクッションに塗られた液体を吸収していく。しかし、その感覚はつい先程味わったものと同質。

———まだ乾ききっていないパジャマの下着。その原因となる液体はこのクッションに塗られたものと同質。

なら、この粘着性が強いこの液体の正体は———

「—————!」

そこまで考えて、思考が不測の事態に弾かれる。

急に下半身が自分の意思とは無関係に折り曲げられた。

垂直に曲げられた両足、その膝から足首にかけてクッションが押し当てられる。

その次の瞬間には、既に爪先までもが顔と同じ空気に包まれた場所へ引きずり込まれていた。



————もう、何も判断、出来なくなった———。



うつ伏せのまま全身をクッションに預ける形で蒸し暑い空間に閉じ込められた。

足の裏に触れる柔らかなもの。それはクッションよりも柔らかく、若干食い込んでいて沈み込んでいるようだ。

相も変わらず目の前の闇は深く、滴り落ちてくる液体は頻度と勢いを増していく。

全身が纏わり付くような熱気に包まれていて、冷気なんて微塵も感じなくなっていた。

「・・・・・寒いよりは、いいかもしれないな・・・」

回らない頭でそんな事を考えてみる。

散々呼吸の邪魔をしてくれた液体の処理も面倒臭くなってきた。

今は、この倦怠感に身を任せてみよう、と、ずっと張り詰めていた気を緩める。

この状況下で、どうして気を緩められたのかは分からない。

ただ、なんとなく、おかしなことに、この空間に収められている事が心地よくなってきてしまっていた。

目を閉じて肩から力を抜くと、それと合わせたかのようにぐい、と体が持ち上げられる。

濡れた身体が、ゆっくりと滑り落ちていく。

—————ここまできて、ようやく

「・・・・そうか———」

飲み込まれるのだと、漠然と思った。





思えば、今日は不可思議の連続だった。

本当は、ただ尿意のせいで目が覚めて、トイレに行こうとしただけなのに、廊下で妙な人と出逢った。

聞けば、その人は異星の姫であり、地球人とのスキンシップを取る為に地球にやってきた。

関われば関わるほど頭が痛くなるくらい理解しがたい思考回路を持っていたが、正直な所、純粋な娘だなと思った。

そして、俺はティノの腹を満たす羽目になったのだが、まさか俺自身が食糧になるなんて思ってもみなかった。

・・・・・地球人とのコミュニケーションの取り方がこういう方法だと思い込まなきゃいいが。

元を辿れば、俺が後頭部をぶつけた後にティノに咥え込まれた。

ティノは乱暴に俺の損傷箇所を舐っていたが、もしかするとあれは、「傷を舐めて癒そう」としたのかもしれない。

力加減の分からないティノの、ティノなりの思いやりだったのだろう。

実際は癒すどころか悪化させてしまいそうな勢いだったが、そうと思ってしまえば感謝の気持ちが生まれそうになる。

それから先は、ティノの食事に移行したわけだが、満更悪い気はしていなかった。

ティノの口内に満ちていた空気は温かく、なぜか気分が安らいだ。

原理は分からないが、恐らくは生体組織の違いではないだろうか。唾液が甘いのはそのせいだったのかもしれない。

事実、常識ではあり得ない状況下に置かれても、俺はこうして平静を保っている。

・・・・・ただ単に、こういった驚きに慣れてきているのかもしれないが。



そして俺は、心も安らかなまま、今まさにティノに飲み込まれようとしている。

ティノの口のサイズと比べてみると、今の俺は少し大きめだからなのか、爪先が収まると頭の先は喉に落ち込みかけていた。

そこから、ティノは舌の先だけを持ち上げた。

それに合わせて俺の身体が頭を下に傾く。

・・・・・いよいよ、か、と、腹を括る。

いや、腹を括ろうが諦めようがティノに飲まれる事に変わりは無いのだが。

むしろ、今の俺には、ティノに喰われてその腹を満たさせる事に歓喜の念を覚え始めていた。

———それも、ティノの体液によるものなかは定かではないが、俺自身が快感を覚えてきている事は確かだ。

「——俺も、なかなかに変人なのかもしれないな」

それこそ、ティノに負けず劣らずの変人かもしれない。

異星人とはいえ、俺達地球人となんら変わりの無い女性に喰われるのが嬉しいだなんて。

「ま、仕方がないか。ティノなんだから、許してやるかな・・・・・・」

ティノの笑みを思い浮かべて、それと同時に笑みがこぼれる。

そう、ティノだから許せる。

これからティノに吸収されてその一部になる事も、ティノだからという理由で許せてしまう。

————それが、ティノに寄せた好意であったとは、今は気付いていなかったが。

・・・ぐぐぅっ

景色としては見えなかったが、代わりに厚い肉感のあるものが鈍く開く音がした。

それを聞いた時には、俺の体は制止力すら働かないままティノの内部へ続いているであろう穴に、頭から呑み込まれていった。

———ごっくん・・・・・

僅かに長く、嚥下を証明する音が耳に届く。

口に収める内容物としては、俺は少々大きすぎたのか、少し無理をしたかのような嚥下の仕方だった。

「・・・・・無理しなくてもいいのにな」

ティノの中を降りながら、俺を飲み込んだティノに心配をかける。

嚥下の瞬間、俺の体は猛烈な勢いで締め付けにあった。

恐らくは咽頭の入り口の噴門、そのサイズギリギリの大きさの俺が通過しようとしたからだろう。

「・・・・入り口がきつかった割りには、ここは随分ゆったりしてるな・・・」

それに比べて、今俺が通っている器官はそんな締め付けは一切無い。

身体にぴったり吸い付くような壁に包まれているだけで、過度の圧迫感も無い。

あくまで優しく、赤子を抱きかかえる様に、ティノの食道は俺を包み込んでいる。

その感覚が、尚更俺を安らかな気分にさせた。

「何だよ・・・。こっちの力加減は、しっかりしてるみたいだな・・・・・」

ここに至るまでに幾度と無く味わってきた暴力の数々。

それを思えば、この空間の力加減は不満の欠片も無い。

「・・・・・参ったな・・・。癖に、なりそうだ・・・」

冗談ではなく、本気で癖になりそうだ。

この、柔らかい肉に包まれた揺り篭にも近い感覚。

以前に試してみたマッサージチェアよりも断然気持ちいい。比べるだけティノに失礼かもしれんが。

この心地よさは睡魔を誘うには充分過ぎる効果を持っている。

「————眠い」

そう意識したからなのか、急激に睡魔が襲ってくる。

それと同時に、頭の先が沈み込むような感覚が生じる。

食道の終着点、胃の噴門に辿り着いたのではなく、それとはまた別の肉壁に沈み込んでいる様だ。

「・・・・・胃、じゃ、ないんだよな・・・・?」

降る勢いはそのままに、頭から首へ、そして肩が順番に沈んでいく。

沈んだ先の感覚は、なんとも形容し難い感覚だった。

ただ分かるのは、

「————溶けて、る———」

沈み込んだ箇所から融解していく様な感覚。

胃液による消化とも違う。俺が少しずつ分解されて、吸収されていくような感覚。

そんな感覚を捕らえる度に、俺の意識は少しずつ遠ざかっていく。

こちらは、睡魔の関係も多少なりあるのだろうが。

「・・・・俺・・ティノに・・・吸収・・され・・・」

思考が取り留めなく分散していく。

俺の体は止まる事無く沈み込み、次々に身体の感覚が消え失せていく。

もう、膝まで飲み込まれている。

「・・・・・・」

————ああ、そろそろ、持たなくなってきたな。

限界を悟り、思考が止まる。

意識を保つ事も難しくなってきている。

あと一息、何かのきっかけでもあれば、俺の意識は途切れてしまうだろう。

そうなれば、あとはティノに余す事無く吸収されるだけ。

「————」

流れるままに、その時を待つ。

ちゅぷん、と音を立てて爪先までが吸収されたと、辛うじて感じ取る。

「———これで、ぜん・・・」

——それが、決め手になった。

保っていた意識が完全に途切れる。

その瞬間には、俺の体は、跡形も無く、ティノの一部となり、吸収されていった。

















































——————と、まあ、以上がたった今目を覚ました俺の回想なわけだが。

起き上がって、寝癖のついた寝ぼけ頭で働かない脳が、端的に答えを弾き出す。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・夢オチ?」

———————夢かよ。



そうか、そうですか。夢でしたか。

ああ、そう、やけに鮮明な夢でしたね。

まったくもって記憶に残ります事甚だしい。

しかし、こんな夢ははじめて見たぞ。

いや、そもそも、夢は初めての体験ばっかりなんだが、今回はまた異質だった。

なんていうか、本当に体験したような感覚が残っていそうで違和感があったりするんだが。

でも、単なる杞憂なんだろうな。

そうだろうな。

しかし、この夢の内容、相当破天荒だったな。



なんて、呆けた頭で思い返していると、

「・・・・・・へっくしょおいっ!」

部屋の寒さが身に沁みて、抑えもせずにクシャミが出る。

「・・・・ズズ・・・あ〜、寒い・・・・」

鼻を啜って独り言を漏らす。

暖房も何も点けてなかったから部屋の寒い事寒い事。

布団の中はまだ体温で直に温められてる分、温もりは残っているが、流石に地肌にこの冷気は堪える・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・?

「————地肌!?」

寝ぼけ頭が強烈に活性化し始める。

起き上がって布団から身を離してみると、部屋の空気が身に刺さる。

それもそのはず、今やっと気付いたのだが、なぜか俺が着用していたはずの衣服、それが消え失せている。

「————馬鹿なっ!」

あり得ない。そんなはずはない。

いくら俺の寝相が悪くとも、一糸纏わぬ姿になるまで脱衣するなんてそんな器用な芸当出来る筈がない。

いや、むしろ、そんなこと出来る人がいたら俺は本気で尊敬しようと思う。

「なんでパジャマが・・・・」

布団を捲って消え失せたパジャマの行方を求める。

「おいおい・・・・」

捲った先には、不覚にも夢の中で味わった快感のせいで、すっかり元気になっているものがあっただけだった。

「・・・ん、まあ、確かに気持ちよかったけどさ、夢にしても・・・・」

でも、それとこれとは話が別だ。

俺が今求めてるのは男性の朝の生理現象じゃなくて、俺の体温を保持するのに重要な役割を持つ衣服だ。

「ふぇっくしょいっ!」

早いとこそれを見つけないと、俺の体温は奪われるばかり———

「ええっくしょい!」

「えっくしょ!」

「えっしょい!」

・・・・・・・・・・・・・・・・ラチガ、アカナイ。

「———ああ、くっ、そぉい!」

捜索を断念して、仕方なくタンスから代わりの衣服を取り出そうと、ベッドから脚を下ろす。

不幸中の幸いか、俺の部屋にはカーペットが敷き詰めてある。

それさえあれば、足の裏の冷えは遮断できる。

これ以上の負担はかけたくない俺にとって、カーペットの加護を享けられるとはありがたい。

一安心して、俺はカーペットに足を下ろした。











むにゅ・・・・・











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むにゅ?



俺クッションとかベッドの側に置きっぱなしだったっけか?

足の裏に伝わる感触はカーペットのものじゃない。

このなんとも表し難い柔らかさとしなやかさ。

しかも、なんだか人肌程度に温かみを持っている。いや、それよりも若干温かいか。

実に良質なクッションだな。

しまった、これ、抱き枕にでもしとけばよかった。

でも、そんな製品家にあったっけか?

なんか、こんなにも未来的な素敵素材が使われてそうなクッションなんて家には・・・・・・・・





「・・・・・・無いだろっ———!!」





雷光の速度でイメージが頭を駆け巡る。

足の裏に伝わる数々の情報。俺の持つ記憶と家財一式。消え失せた衣服。

——そして、夢とは思えない、夢。

更なる情報を求め、寝ぼけ眼が睡魔の重圧を跳ね除けて、視界に入る情報をかき集める。

その全てを判断材料として、寝起き頭もなんのその、思考回路がショート寸前までフル回転する。



————判断の八割を占めたのは、鮮明な夢の内容。

————いや、既に、それが夢ではないと、俺の記憶が否定した。



—————そこから導き出された、答は———











「・・・・・・・・・・ティノ———!?」









「———ん・っ・・・・・」

胸にのしかかる重さを受けて、息を漏らしながら首だけ寝返りを打つティノ。

「————・・・・?」

何度か首を左右に振った後、重い瞼を薄く開く。

「・・・・んうぅ・・・」

窓から差し込む朝日が眩しい。

だが、その眩しさからか、夢の中にあった意識が現実に戻り始めていた。

「・・・・・・うぅん・・・・」

焦点の定まらない瞳で、自分の胸を踏みつけている誰かを見つめる。

自分の名前を呼ばれたような気がして、返事をした。

「・・・ふぁぁい・・・らんですかァ・・こにしさん・・・・」

眠気で口が回らないが、名前を呼んだ人に応答する。

驚いたような短い悲鳴が聞こえたような気がした。

「・・・ちょっと・・・まっていてくらはい・・・・いま、置きマスカラァ・・・・・」

言いながら、スローモーションで上体を起こし始める。

胸に乗っていたものがずり落ちた感覚がしたが、だからといって何の反応もしなかった。

が、その直後に、ぱふっ、と自分の胸に何かがもたれかかる感覚がした。

「・・・ふぁっ・・・」

重量のあるものが不意に胸に飛び込んできた為に、胸から少々の快感が突き抜ける。

それがきっかけになって、眠気に揺らいでいた意識が覚醒に近づいた。













「———うおっ!」

突然俺の体重を支えている肉床が持ち上がったために、俺は体のバランスを横に崩してしまった。

崩れたバランスを片足でカバーするのは難しい。ましてや起床直後にそんな運動できませんって。

そういうことで、多少なり抵抗はしてみたものの、俺は素直にバランスを失ったまま倒れこむ事にした。

———床がカーペットではないからこそ、素直に倒れこめるわけだが。

体にかかる負荷に従って、若干からだの向きが回転して仰向けに墜落する。

墜落する地点が「たまたま」柔らかい所だったために、落下時の衝撃も気にする事はなかった。

墜落地点がもう少しずれていれば、夜中に味わったものを越える衝撃を身に受けるところだった。運が良かった。

そう、運が良かったんだ。

・・・一応言っておくぞ。

———狙ってやったわけではない。断じて!



「・・・ふぁっ・・・」

俺が倒れこんだのは、ティノの胸。

胸に顔を埋める形になると、まだ目が覚めきっていないティノの口から吐息が漏れる。

「・・・・んん・・・ダメですよぉ・・・・・ティノ、だめですよぉ・・・・」

むにゅむにゅと口を歪ませながら何かを制止するティノ。

無論、俺に向けた言葉なんだろうが、その言葉とは正反対に俺を胸に抱き抱えようと背中に手を回してくる。

————こんな寝ぼけ頭のティノは、何をしでかすか分からない。

今までの経験が、俺の危険信号を赤々と点灯させた。

「———目、覚ませよ———!」

背中から体を両腕に拘束されるより早く、ティノの体に置いてあった腕を素早く上へと持ち上げる。

顔の前で両手を握り締めて、そのまま真上へ突き上げる。

むにゅん、と厚みのある肉に腕の進行を妨げられたが、突破出来ないほどじゃない。

力任せに、その双丘の谷間に腕を差し込む。その勢いで、肉壁を突破。

「・・・ひゃぁん・・・」

胸に加えられた刺激に敏感に反応して溜め息をつく。色っぽい。

二の腕から先がティノの胸から脱出し、握った手を解く。

解いた両の手を、この体勢からではティノの胸に隠れて見えないが、ティノの両頬のサイドに待機させる。

手のひらを頬越しに向かい合わせて腕に軽く力を込める。

「・・・・ダメれすってばぁ・・・・」

まだ目を覚まさなさそうな口調で俺の背中に回した手を自分に引き寄せるティノ。

———予想通りの、力加減。

背骨が軋む。外部からの超過の力に組織が悲鳴を上げる。

———だが、

「今回は、俺の方が早かったな———!」

今までの恨みも込めて呟く。

その恨みを力に変えて、両手に思い切り気合を込める。

———情けも容赦も今は不要。

———悔いるのならば自らの行いを悔いろ。

———因果応報、その身にとくと刻みつけろ。

「————仕返し、だ!」

恨みと気合、あとちょっとした願望を込めた掌底を、これでもかという位の強さでぷにぷにの頬に打ち付ける。

パチンッ!

「———ッッ!!!」

———いい音だ。我ながら!

打ち込みは上等。手応えも抜群。

我が人生の中で生涯謳われ続けていくであろう事請け合いなほどの完璧な出来栄え。

ああ、この一瞬の顔が見えないのが口惜しい!

きっと今では予想外の攻撃を食らって面食らっているであろうティノの鳩が豆鉄砲食らったような顔がそこにあるのだろうよ。

それにほら、きっともうすぐ痛みの飛び起きるティノの悲鳴が————

「———いったぁぁぁぁぁぁぁい!!!??」

——聞こえるだ ぐぎゅうぅぅぅぅぅ!!

「ろうおああぁぁぁぁぁぁっっ!!!???」















俺の色んな重い想いがこもった力強い掌を頬に受けて、その予想外の痛みに飛び起きて、猛烈に腕に力を込めたティノと

これまで味わった痛みを遥かに凌駕する程の抱擁による激痛を味わった俺。

二人の悲鳴が朝の静穏を切り裂き、目覚めを告げる。

だが、あまりの激痛にしばらく俺は意識を失っていた。

最初に出会ったのと同じサイズのティノに抱かれたまま、俺はもう一度眠りについた。

そして、次に目を覚ました時には、なぜか俺は素っ裸のまま、またも巨大化したティノの口に咥え込まれていた。

昨夜と変わらない大きさのティノの口に。

当然昨夜と変わらなく混乱した俺は必死の抵抗でティノの口から吐き出してもらう事ができた。

唾液でべとべとになりながら、居間の床に吐き出された。

ティノは俺の抵抗が気に食わなかったのか、少し怒った顔をしていた。

しかしだ、昨夜俺はティノに喰われた筈だ。それは確信できる。

ティノに飲み込まれたあと、俺は自分が溶けていって吸収されていく感覚を確かに覚えている。

それが真実なら、なぜ俺は今もこうして体を持っているのか。なぜ、生きていられるのか。

それが、聞きたかった問いだった。

この問いに、ティノはいとも簡単に答えてくれた。

「ん〜〜・・・・・・なるものは、なるんですよ」と。

答えを聞いて盛大にこけたのはオーバーリアクションかい?

全然答えになってないと思うが、「なるものはなった」ので俺はこうして生きているのだろう。

そういう事にしておこうと思った。

実際何も理解はしていない。理解しようとも思わない。

———ティノだから、しょうがないな、。

それだけで納得した。

・・・・ちなみに、何で俺が素っ裸だったのかというと、パジャマに関しては「なるものもならなかった」らしい。

そこまで説明されると、ティノは俺を鷲掴みにして口を大きく開いた。

どっからどうみても食べる気だった。

俺は、何でまた喰われなきゃならないのかと疑問に思ったが、この答えもすぐに返ってきた。

「だって、これが、地球の人とのスキン湿布なのでしょう?」と、満面の笑みで勘違いしていた。

それを聞いて、俺は完全に脱力した。

「それでは、いただきます。また美味しく頂いてあげますからね、小西さん」

と、初めて俺の名前を正しく発音してくれたかと思うと、時既に遅く、もう目の前が真っ暗になった。

サイズの変わらないティノの口内は相変わらず狭く、甘い唾液に塗られた舌が後頭部を舐める。

だが、今回は往復もせずに一舐めにしただけで舌が俺の腰に巻きついた。

舌に引っ張られて口からはみ出していた足があっという間に見えなくなる。

何をそんなに急いているのか、全身を収めたらすぐに喉の奥に押し込もうとする。

そして、ティノの首に膨らみが出来る。

口内と比べて大きめの人間が、二度目の食道を降る。

その動きに合わせて喉の膨らみが上下する。

膨らみが消えた時には俺は食道の奥深くへとゆっくり降って行った。



俺を飲み込んでティノは満足そうな溜め息をついて、俺が降っている胸の当たりに手を当てながら

「もっともっと、私といっぱいスキン湿布を取ってくださいね、小西さん」

顔を紅潮させて、これ以上無く幸せそうな笑顔で一人呟く。

「別に溶かしたままでいるのもいいんですけど、やっぱり何度も繰り返さないと意味が無いですよね、こういうものは」

目を閉じて、体の奥で溶けていく俺を感じているティノ。

「・・・・・・もう、小西さん以外は食べられませんね。これから、長い間厄介になるでしょうけど、よろしくお願いしますね」

と、既に吸収されてしまった俺に向けた独り言を呟く。



そして、この日から、俺とティノの奇妙なスキンシップが幕を開けた。



別に俺が強気に出ればすぐに幕を引くことも出来るのだろうが・・・・。



ま、べつにいいか。



———ティノ、だしな。















                 終













































































































































わざわざこんなにスクロールしてくれたあなたに蛇足をプレゼント。









「あの、もう一回いいですか?私、小西さんの味、好きになっちゃったかもしれません」

「・・・・・・・マジで?」

「・・・・・・・マジです」

「・・・・ま、まあ待てよ。まだ喰ってからそんなに時間経ってないだろ?そんなにたくさん食べると、腹壊すぞ」

「ダメです!我慢しません!」

「やめろ!少しは我慢しろ!」

「嫌です!私、小西さんが好きなんです!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」

「—————好きあり!」

「———何だとっ!?」

「・・・・んむ・・・・・あんまり暴れると、飲み込めないじゃないですかァ・・・・。

むぐ・・・・ん・・・・無理矢理、飲み込んじゃいますよ!」

「んぐ・・・・ん・・・・ぐ・・・・ごくん・・・」

「ふぅ・・・・ん・・・今度は、しばらく出してあげません。私の中で、ちょっと反省してくださいね」

「・・・やぁ・・・喉の奥で暴れないでください・・・・・・くすぐったいです・・・・・」

「・・・ひゃあん・・・・・ダメですってばぁ・・・・」

「・・・・あ・・・溶けてきちゃってる・・・・小西さんが、私の中で、溶けてく・・・・」

「・・・・はぁぁ・・・・・もう、全部溶けちゃったみたいですね・・・・」

「・・・・・・・・・・・・小西さん・・・・・気持ち、良いです・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・好きです・・・・・小西さん・・・・・・」











すいません・・・・完全に蛇足です。まあ、小西はこれから先ずっとこんな感じなんでしょうね。

実の所、本編とはあんまり関係が無いかもしれないのでスルーできる人はスルーしちゃってください。





本当に、終